2020年08月05日

アドベンチャーレースで得することある?

「アドベンチャーレースやってて、何か得することある?」
先日、娘に真顔で質問された。母は一点の曇りなく答えよう。
「ありません」

同様の質問を隊長に投げかけてみたところ、速攻回答。
「ないよ」
ほ~らね。得なんてないんだよ。

娘の質問は続く。
「得もないのにどうして続けてるの?」

一般的に至極当然の質問であるように思うが、アドベンチャーレースと共に育っていると言っても過言ではない、いわば生まれた頃から傍に猫ちゃんがいる的に、傍にアドベンチャーレースがある娘に対し、こういった疑問を持つことに親として安堵すべきだろう。

で、またもや隊長は即答。
「楽しいぢゃん!人生、楽し~♡」
ただ、そりゃ確かに、楽しいだろうよ。


最初は「楽しい」と思って始めた隊長。
その「楽しい」を追求し続け26年が経つ。経過途中には、さまざまなことがあった。

 出場に関する資金不足。
 多種目の装備を揃える資金不足。
 練習資金不足。
 メンバーが固定しない。
 シンプルなルールではあるにも関わらず、スケールの大きさに一般的に理解されにくい。
 観戦型のスポーツではないため、マスコミが追いにくい。

とはいえ、悪いことばかりではない。

 支援者、協力者が現れる。
 スポンサーが現れる。
 トレーニング生がやってくる。
 メンバーが固定する。
 レースに頻繁に出場できるようになる。
 興味を持つマスコミが現れる。
 人気番組に出られる。
 トレーニング生に力が付く。

陰には全面的にチームを支えてくれるカッパCLUBと、色物として取り上げるマスコミに左右されず、ひたすら応援し続けてくれる人たちの支えが大きい。


こうやって振り返ってみると、損得という小さなくくりではなく、次元が異なるもっと大きなもの、『得』ではなく『徳』に気が付く。私たちは『得』はなくとも、そこに『徳』があり、それにとても助けられている。



娘よ、お母さんは思うのだよ。
お父さんは、26年もの長い間、アドベンチャーレースを続けてきたことで、とても大切なことをひとつ作り上げた。それこそが『得』、つまり『得た』もの、《信頼》。金銭をいくら積んでも得ることのできない宝。

ひたむきに、真摯に、一所懸命にやり続けてきたことで得られたのは、人と人のつながりの中でなにより大切な《信頼》だと思うのだよ。これを作り上げるのはとてつもなく難しい。でも崩すのは一瞬。いわば《信頼》は、ひどく脆弱であり、飛び切り強靭でもある。

偶々ソフトが「アドベンチャーレース」だった。楽しいという気持ちが根本にあるから続けられた。お父さんに合ったんだね。
人はそれぞれ、自分に合ったソフトを通して生きていく。その根本に大切にしている何かがあれば、きっと続く。がんばって続けていれば、きっと理解者が現れる。理解をしてくれる人のためにも一所懸命に打ち込めば、それがいつしか《信頼》になる。

もちろん、途中には何度も《信頼》を崩されそうになる外圧も出てきた。「やるべきか、断るべきか」を悩む事も少なくない。でも、どちらに転んだにせよ、失敗したにせよ、真面目に続けれている限り、応援してくれる人はいる。田中正人という人をちゃんと見ていてくれる人がいる。《信頼》してくれる人は必ず、いるのだよ。

得にはならない。
でも、積み重ねてきた26年で、謀らずともとても大切なことを得てきた、と私は思っている。
だからきっと、これからも得にならないことを続けていくと思うよ。
困ったもんだけどさ(笑)


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2020年06月21日

キャラ柱たち

中学校に進学した娘。新型コロナウイルスの感染拡大防止により2カ月間もの休校が余儀なくされたが、やっと分散登校が開始された。
学校の方針で置き勉(置き勉強道具の略語で、資料や教科書を学校に置いていくこと)はNGのため、毎回10~15㎏もの教科書にお弁当と水筒を背負い、1時間半かけて登校。どこかの山に遠征に行くのかと思うほどだ。それも徐々に慣れ、友達とおしゃべりしながら学校に行くのも楽しいらしい。

娘の学校は中高一貫で、県内全域から生徒が集まっている。分散登校となった今は、クラス内を半分にし、一日おきの授業となる。ゆえに、まだ半分のクラスメイトとしか会っていない。それでもすでにクラスメイトとは仲良くなり、毎日がとても楽しいと言う。
「個性的な子が多いクラス」と言う娘。他の子から見たら娘も個性的なんだろうけど。
登校も公共交通機関を使い、校内には時計もチャイムもないため、時間管理はすべて生徒の自主性に任せているため、早め早めに動く子、ギリギリまで動かない子、要領のいい子、真面目を絵に描いたような子・・・。娘にとって授業も出会う人たちすべても新鮮で、帰宅後はマシンガントークで学校であったことを話す。

あるとき、クラスメイトがどれほど個性的かという話をしていたので、ふと気になって聞いてみた。
「個性が豊かであるということは、それだけ性格が合わない子もいるということ?」
これに対し、娘はぴしゃりと言った。
「性格が合うとか合わないとか、そういう次元じゃなくて、すべての子がキャラ立ちしてるってことだよ。鬼滅の刃で言う『柱』だよ。それぞれの個性を『柱』とするから、みんながそれを認めてるんだよ」

「も~〇〇ちゃんは、真面目なんだからぁ(笑) 真面目ゆえに宿題を教えて~~~~」と、キャラを認め、受け入れ、敬っている。決して非難するののではなく、愛おしく思っているのだ。
だのに私は人間関係は複雑なものだと決め込んでいた。なんという愚かな質問をしてしまったのだろう。


先日、プロ野球楽天のオコエ瑠偉選手がツイッターで、保育園で先生が「醜いアヒルの子」の絵本を読んでいると、他の園児が自分を見ながら笑っていたという経験に触れ、「俺が周りとは違うと初めて認識させられた出来事だった」と明かした。 親の似顔絵を描く際に、だいだい色をした「肌色」のクレヨンしかなかったのが悔しくて、涙ながらに茶色のクレヨンで描いたという。
「家のベランダから外を眺めながら、ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかなとか、考えてた」という。幼い子供がそこまで追いつめられることがあっていいのだろうか。
小学生以降も、上級生に肌の色をあざ笑われたり、「外人なんて高校野球で使うんじゃ無いだの、甲子園には黒人はでるな」という心無い言葉を浴びせられたりしたと言う。

今でこそ人種の異なる人たちは多く見るが、当時の日本はまだ少なかったのかもしれない。だからだろうか、自分らと違うことを嫌うようにも見える。
自分らと考えが違う人、好みが違う人、やり方が違う人、服のセンスが違う人、自分と違う生き方をしている人・・・なにかにつけて『違う人』を排除したがる。アメリカで黒人男性が白人警察官によって首を押さえつけられて死亡した事件も、根底にはそういった『違う人』を排除したがる意識があったのではないだろうか。


これから多くの『違う人』に出会うであろう中学校1年生の諸君。すべての人が『違う人』であり、その『違う人』が持つ違う部分こそが、自分にない素晴らしいものなのです。だから『違うこと』を受け入れて、むしろ評価してください。
「だって、みんながキャラ柱なんだよ」


posted by Sue at 14:31| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2020年05月09日

自粛ポリス・ストーリー

新型コロナウイルスの影響により、世界が危機に陥っている。
財政・経済も冷え込み、各国のGDPの成長率はマイナス。パンデミックが更なる不安を煽り、根拠のない噂からトイレットペーパーなど生活用品が店内から消えたことも。

感染恐怖と経済的不安の上に半ば強引な自粛でストレスが溜まり、私たちの心を蝕み始めた。
そこに現れたのが『自粛ポリス』。
感染者への誹謗中傷、県外ナンバーへの攻撃、営業している店舗への投石など、いささか度を越した他罰をする人たちが出てきたのだ。

ネットで専門家が「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」と言っていた。
もちろん人が集まる場所では自粛する必要がある。しかし感染者は誰一人として感染を望んでいた人はいないはず。お店にしても、止む無く営業しているところもある。今の状況はそれぞれが悩みに悩んだ結果の行動だとしたら?

以下、同専門家インタビューからの引用。
「生活への不安や欲求不満で、攻撃性が高まるんですね。みんな、イライラをぶつける相手を探している。それが家族への八つ当たりだったり、県外ナンバー車の監視だったり、お店や役所への文句なんでしょうね。ある意味、私たちの中にある防衛本能でもあるんです。不安が高まれば、自分を守りたくなる。それが『よそ者』への攻撃に向かっていくんです」

それが真実ならば、人の心は感染より恐ろしい。

営業し続けるには、きっとそれぞれ理由があるのだろう。勝手に想像して物語を作るとしたら、家族の生活を維持するため、人々のストレスを緩和するため、生活必需品を販売するため、大切な誰かと「命続く限り店を開ける」と約束したため、とか。
他人が知らない深い理由が、そこにはあるのかもしれない。


記事を読んでいて、ふと思う。
自粛ポリスは一般社会に似ている。

例えばオトナと子ども。
子どもがやることには意味がある。生まれたばかりの赤ちゃんにも、幼子にも、ティーンにも、それぞれに意味がある。オトナから見たら、それは必ずしも正しいものではないかもしれない。しかし、子どもは子どもなりに考えて行った行為である。

「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」
オトナは自分の意見が正義と思うから、堂々と子どもを諭そうとする。諭すだけならまだしも、叱りつけることで恐怖感を持たせ、子どもそのものをコントロールしようとする。
しかし、それは本当に正しい意見なのだろうか?
感情任せになってないだろうか?
自分の都合を押し付けてないか?

子どもはオトナの所有物ではない。子ども自身「個」である。もちろん成熟してない分、オトナが手を取り導いていくのだが、それでもオトナが知らないうちに子ども達は、それぞれが感じ、考え、吸収している。やがてオトナの言うことに疑問を持つようになる。それが「感情」や「都合」で発言されていれば尚更だ。


例えばアドベンチャーレース。
何日間も不眠不休で歩き続け、身体はボロボロ。力も出ない。関門時間が迫っていることは重々承知だ。時間がない。しかし、もう脚が前に出ないのだ。
体力が残るメンバーは先に進む。
「少しだけ休憩させてほしい」意を決して声に出す。
「俺だって脚が痛いんだから、お前ももっとがんばれ。制限時間が迫っている」苛立つチームメイト。
「ここで休んだ方がパフォーマンスがあがる」
「ならば、何分間休んだら前に進めるのか?」
「そんな問題じゃない。少しは相手の気持ちも考えてくれ」
どちらも自分なりの『正義』を主張する。相手の言っていることも理解しているのだが、引くに引けない。そうなると、ただ単に互いに自分の感情をぶつけ合っているだけである。
目指すは今ここでの感情の正当性ではなく、ずっと先にあるゴールテープなのに。


結局『何が正しいか』は、それぞれの環境や経験をベースに構成された思考に過ぎないのではないだろうか。


他人に誹謗中傷を撒き散らしたり、上から物事を言ったり、無視や投石や監視をしたって、事は思い通りになりゃしない。
目指すは休業や自粛ではなく、コロナを撲滅することにあるはずなのに。

ならば相手(たとえば子どもやチームメイト)の環境、経験、気持ち、痛み、考えなどを正しく聞いた上で、自分の考えを話すこともアリかと思う。それを相手が納得すれば、自粛をしてくれるかもしれない。少なくとも、どうしたらいいかを一緒に考えられるかもしれない。


さて、我が家にも3か月目の休業に入るティーンがいる。念願叶って合格した中高一貫校の制服は、まだ数回しか着ていない。新しい制服を着て登校できる日を待ち焦がれながら、親である私は生活ポリスにならないように意識したい。

でも、隊長が勝手に冷蔵庫のスイーツを食べてしまうことは、できる限り厳しく取り締まる冷蔵庫ポリスを意識していかねば。

posted by Sue at 14:36| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2020年03月26日

最後の試練

コロナウイルスの影響で小学校の休校が始まったのが3月2日。卒業式を縮小して執り行うという知らせがあったのも同日。

卒業式を控えた娘。
先生に依頼されていた卒業生の歌のピアノ伴奏を引受けたのが3月6日。卒業式まで残り20日のことだった。

とは言え、ピアノレッスンは9ヶ月前から辞めている。すでに学校はお休みだし、教えてくれる人はいない。歌と合わせることもできない。20日間でどこまでできるだろうか。
卒業を賭けた娘の最後の試練が始まった。

引受けた以上は全力で取り組む。
久しぶりに見る音符。指を慣らすために時間を見つけてはピアノに向かった。

学校が休みでは、歌と合わせることもできない。仕方ないのでネットでその歌の合唱を流し、それに合わせてタイミングやスピードの練習を繰り返す。

卒業式前日、数時間ぶっ通しで練習。卒業式は発表会ではない。6年生みんなの式であり、その親たちの、そして先生たちの式である。ミスは許されない。

たかが伴奏。されど伴奏。それを引き受けたことの責任を、小さな身体でひしひしと受け止めていたのを、隊長と私は感じていた。

ー 卒業式当日

朝少し練習したものの、証書授与もほぼぶっつけ。が、そうとは思えないほど、つつがなく進む。校長先生、来賓のお話があり、最後に卒業生の歌。

娘がピアノの前に座った。一息おいて、静かに前奏が始まる。

伴奏は脇役である。その脇役がしっかりしなければ、主役の歌が台無しになってしまう。

隊長と私はずっと見ていた。つまづいた箇所を何度も何度も弾いて指に覚え込ませたことを。合唱と呼吸を合わせるため、何度もネットで歌を聞いて、間を計っていたことを。「練習あるのみ」

力強い歌が体育館に鳴り響く。
わずか22人の1クラスだけの卒業式。美しく逞しい歌声。そしてそれを支えるピアノ伴奏。
やがて歌もピアノの静かに終わった。

色々あった六年間。これが娘の最後の努力と粘り強さの集大成とし、水上小学校を卒業する。

来月からは高崎まで通うこととなる。新たな第一歩を踏み出す。

若栗こども園、水上小学校、クラスメイト、先生、通学中に声掛けしてくれたおじちゃんらやおばちゃんら。
本当にお世話になりました。

ありがとうございました!!!

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2020年01月09日

顔のシワ

SNSなどに出てくる自動広告のワードが“美容”“若返り”“シミ”“シワ”・・・。
「あたしに対する挑戦か! しかもコスメの広告よりサプリの広告が多いってのは、どういうことよ!?」
と、怒りながらも、正直、気にはなる。顔にコンプレックスがアリアリなのは認める。

ふと顔にコンプレックスを抱えた少年の映画を思い出す。
『ワンダー君は太陽』だ。遺伝子疾患で人と顔が違って生まれてきた男の子の話。見た目を気にしてずっと自宅学習してきた彼が10歳になった時、両親はこの子を学校に通わせる。本人はもちろん、家族もかなり勇気の要る決断だ。初めて触れる家族以外の社会の中で、様々なことを学び、成長していく話。

最初は奇異の目に晒される。近づくと病気がうつるとすら言われ、いじめられる。なかなか友達もできず、半ベソで帰宅する我が子に、お母さんがこういうのだ。
「心は未来を映す地図。顔は過去を映す地図」
自分の顔にもシワがあり、このシワはこの時のもの、このシワはあの時のもの、と説明する。

なるほど。口元にある“ほうれい線”なるものを凝視。これらは笑っている時にできたもの。
生まれてきてから何度大笑いしただろう。友達と、家族と、仲間と。学校で、会社で、キャンプで、旅行先で。

目尻のシワも笑いと涙から。
であるなら、私の顔にできたシワは私の歴史であり、辿ってきた道で創られた地図なのだ。ひとつひとつに深い想いがある。涙したことも、今にして思えば通るべき道だったのかもしれない。

だからさ、若返りだの、シワ取りだのってあまり言わないでおくれよ、自動広告よ。あなたがどんなに効果があると勧める医薬(部外)品でも、それなりに愛着と思い出がある私の辿った地図は消せないのだよ。しかもシワの出方によっては、その人の人生の味になる。

ならばぜひとも、優しいおばあちゃんに見えるシワがいい。いつか隊長と暖かい縁側でお茶でも飲みながら、ゆっくりと二人で辿ってきた地図の話しをして楽しみたい。



とは言いつつも、やっぱり「若いね」と言われると小躍りしちゃう残念な私。今年も年相応に精進していきます。


posted by Sue at 11:51| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年12月18日

桜と母娘

昨日の新聞の片隅にあったニュースが目を引いた。

『某公園で、近くのサービス付き高齢者住宅に住む女性(88)が血を流して倒れているのを通行人が見つけ、110番した。同居する娘(70)は自宅で上半身から血を流した状態で見つかった。2人は搬送先の病院で死亡が確認された。娘は重病のため寝たきりで、遺体には外傷があった。警察署は、介護に悩んだ母親が娘を殺害して、無理心中を図ったとみて調べている。署によると、母親の持ち物や自宅からは「ご迷惑をおかけします。自殺します」などと書かれた遺書が見つかった。母親は約1カ月前から、施設関係者に「介護を続けるのが大変で将来が不安。金銭面も心配だ」と相談していたという』

小さな記事だが訴えかけるものは大きい。
人生の終盤を迎える年齢で、我が子を手に掛ける心情を思うといたたまれない気持ちになる。70年間も寄り添っていた母娘は、他の選択肢はなかっただろうか。

生まれた時は天使がやってきたと思ったことだろう。
初めて食べる甘いお菓子に喜んだ日。友達とケンカしたと落ち込んだ日。いい成績を取って喜んだ日。背伸びしてオシャレした日。熱で寝込んだ日。突然の嘔吐にあたふたした真夜中。些細なことで言い争った日。一緒に買い物に行った日。レストランで食事した日。桜の下で迎えた入園式、入学式、卒業式。
娘と過ごしたいろんな日はどれも、そこにいてくれるだけで幸せと思えたはずなのに。
どうしてこうなってしまったのか。

老老介護や認認介護は今や社会問題である。ゆえに各行政でも対策を施しているし、介護サービスに携わる人たちも日々頑張っている。

新聞は、こんな風に締めくくられている。
『署や施設関係者によると、施設では寝たきりの利用者に対し、定期的に体位変換やおむつ替えを実施。この日の早朝も看護師が2人の部屋を訪れたが異変はなかったという。この件でスタッフもショックを受けている』

体位変換やおむつ替えを実施していた施設スタッフ。この母娘のことを一番見ていたのは身近で世話をしていた彼らであろう。老老介護の大変さも充分すぎるほど解っているはず。この結末に対するショックはいかばかりか。

生命あるものは、必ずいつかそれを閉じる時を迎える。しかし人は人生の最期をそんな形で迎えてはいけない。後悔も反省も含め、最期は幸せな人生であったことを感じて天国に昇るべきだ。


直接は何もできないとしても、それでもこういった行き場を失った人たちに使ってもらうためにも、私たちは税金を出す。税は本当に必要としている人たちに使ってもらうものであると私は思っている。行政からなら弱い立場の人も遠慮なく使えるしね。

一介の田舎の主婦の私には、5500万円もの税金で開催する「桜を見る会」とかよくわからない。きっと偉い人たちがやってることだから、それなりに(先生方にとっての)意味はあるのだろう。

でもね、各界の功績はなかったとしても、あの母娘にも最期の公園では涙じゃなくて桜を見てほしかったなぁと思うわけよ。

集めた税金の使い方は、結局のところ国会議員が決める。「桜を見る会」にいくら使うか、老老介護にいくら使うか、もすべて。
ならば愛する人を手に掛けなければいけない社会にならないように、誰もが幸せな最期を迎えられるように使ってほしい。


この日、母娘のニュースの横には同じくらい小さく70代夫婦の介護疲れ心中のことが、そして上にはその何倍も大きくプレサンスコーポレーション(不動産屋さん)の21億円横領のことが出ていた。なんだか皮肉に感じるなぁ。

posted by Sue at 17:05| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年12月06日

親はこどもに何を教えるべき?

先日、ある人に「親はこどもに何を教えるべきだと思う?」と聞かれた。しばし考え込んだが、結局は「これです!」という明確な回答ができなかった。

そんな事のあった夜。何気にパソコンにある動画の整理をしていたら、9月に行った娘の小学校運動会の画が出てきたので、その動画を見ながら当時のことを思い出していた。

運動会の見せ場のひとつに高学年による組体操がある。児童の少ない娘の小学校は5年生と6年生合せても40名程度。夏休み明けから練習が始まるため、本番までは約2週間しかない。定番の扇、倒立、肩車、ピラミッドから大技タワーに至るまで、日々練習に励んだ。

身体の小さい娘は身体の小さい子たちと組む。倒立は2人組。娘は倒立をする役で家でも練習をした。ペアとなった脚を支える役の女の子も身体が小さく、あまり力が強い方ではないらしい。初めのうち、娘は何度も転んだ。支え役の友達も何度も娘の脚が顔に当たった。やがて娘は脚を預けることに、そして支え役の友達自身も娘の脚を受けることに自信を失い、娘は倒立が恐怖になっていった。

しかし運動会はやってくる。ペアの交代もない。そこで二人で「どうやったらうまくいくか」を話し合ったそうだ。その時、娘はあることに気が付いた。その友達は、どんなに娘の脚が顔に当たっても果敢に脚を受け取りに行く。彼女は受け取ることはできるが、支える力が弱くて離してしまうのだ。それに気が付いた娘は「〇〇ちゃんは絶対に脚を取ってくれる。だから大丈夫。後は私がしっかり脚を上げればいい」と思えるようになったと言う。
不思議なことに、支え役の友達にその話しをしたら、その時から二人の息が合うようになり、成功率が高くなったそうだ。
どうやら「あなたを信頼している」という気持ちが互いに伝わったようだ。

肩車はペアが交代する。娘は肩に乗る側となる。乗せる側の子も、娘よりは大きいものの、これまた身体の小さい子だ。力はある。しかし慣れない肩車は当然グラつく。それでも載せる側の子はしっかりと踏ん張って、何があっても娘を落とさないようにするそうだ。
「あきらちゃん、グラついたら遠慮しないで私の頭を持って!」と言ってくれたそうだ。本番まで、あーでもない、こーでもないと二人でベストな方法を模索していったらしい。

そして迎えた運動会。娘たちにとって、この運動場での最後の運動会になる。
児童数100余名の小さな小学校の運動会はつつがなく進行し、いよいよ組体操となった。
太鼓の合図で高学年が勢いよく運動場の真ん中目指して走ってくる。まずは個人種目。V字バランスやブリッジなど。続いてペア種目。いよいよ倒立だ。

今までの事を知っているだけに親の方が心配になる。ペアが互いに向き合う。緊張が走る。そして「倒立」の合図で娘が地面を手に付け、勢いよく脚を上げた。取った!友達は娘の脚をガシッと全身で受け取った。できた!
後でビデオを見てみると、顔を下にした娘が一瞬ニコッとしたのがわかる。脚をおろし、二人が向かい合った時、支え側の友達と娘とが顔を見合わせて、一瞬笑ったのもしっかりと映っていた。

肩車もグラつきなく成功。乗せる側の子は娘にガシッと頭を持たれながらも、しっかりと確実に立った。

そして最後の大技。運動会前日の予行演習ではうまく行かず、先生の厳しい指導が入っていた。これを外すわけにはいかない。小学生生活最後の大技だ。5年生6年生全員が中央に集まる。
すると低学年から「がんばれ~、がんばれ~」と大きな声援が飛び出した。予行演習でうまく行かなかったのを見ていたのだ。演技こそしないにせよ、高学年と気持ちが一緒になっている。みんなが見守る中、高学年の子どもたちは順に重なり合い、見事な4重の塔『名胡桃城』を造った。
実に立派な演技だった。


「子どもに何を教えるべきか」という質問に話は戻る。教えるべきことは山ほどある。しかし逆に私たち大人が子どもたちに教えてもらうことも同じくらいある。大人が教えずとも、子ども自身で学んでいることも少なくない。

小学校生活最後の運動会。わずか10分そこそこの組体操だったが、そこで感じた友情、信頼、そして成功体験は、きっとあの子たちのかけがえのない学びになったことだろう。

posted by Sue at 15:35| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年11月17日

子どもの頃に学ぶこと

先日、小学校6年生の娘の授業参観に行ってきた。

授業参観の内容は音楽で、先生が歌の脈絡や強弱を説明。「ここはどんな風に歌う?」という先生の質問に「優しく」「強く」「スムーズに」と子どもたちから思い思いの意見が出る。ひとつずつイメージして歌い、どれが一番いいかを決め、最後はそれを全員で歌う(発表する)という流れ。

6年生ともなると、恥ずかしさや声変わりが始まり、人前で歌を唄うことに抵抗感があるように思うのだが、娘のクラスはまったくそれがない。驚くぐらい大きな声でしっかり歌う。中には声変わりで低い音を出してしまう男の子もいるが、まったく気にせずに大きな声で唄う。しかも、とても楽しそうに。聞いている方もハッピーな気分になる。

参観後の保護者会で担任の先生がおっしゃった言葉が印象に残る。
「今まで何年も音楽を教えてきましたが(担任の先生は音楽専門)、こんなに声が出るクラスは初めてです。すごく上手で、少し語弊があるかもしれませんが、いい意味で恥ずかしさがないんです。とても『音』を楽しむことができる子たちです。だから今日は、そんな素晴らしい歌を聞いてほしくて授業参観に音楽を選びました」

隊長は音楽が苦手だ。彼は決して人前で唄わない。知り合ってから20年以上経つが、彼の歌はいまだに聞いたことがない。

「徳(あきら)のクラスがみんなの前で大きな声で歌が唄えるのは、お互いを信用しているからだよ。だから恥ずかしくないんだよ。
僕が小学生の時、僕のあまりの音痴さに先生が笑ったんだ。その時から僕は人前で歌を唄わなくなった。
徳のクラスはみんな仲がいいんだよ。だから声が出せるんだよ」

ありがたいことに、娘の学年(22人)は、保育園からこの年まで、いわゆる陰険なイジメの話しを聞いたことはない。もちろんケンカはある。チョッカイを出す子だっている。合う・合わないもあるし、好き・嫌いも出てくる。それは集団生活においてあって当たり前だし、そこから学ぶものだってある。それでも声をしっかり出して歌えるのは『信用』がベースにあり、その信用は互いの事をきちんと理解していることから成り立つ。

子どもらのそれは『相互理解』などという堅苦しいものじゃなく、もっとやわらかい感性で自分と違う人を受け止めているようにも思う。

小さい頃にこういったことを経験できるってすごいこと。これから競争社会の中に放り込まれ、あらゆる物事に優劣がつく事を目の当たりするだろう。小学校では計算や漢字を学ぶことは基本だが、それ以上に学ぶべき大切なことの基盤が幼少期からしっかりできていれば、本当の意味での未来を任せられる人になる。

大人になると知恵が付き、表には裏があることを知り、社会の仕組みが解るようになり、些細な見栄を張るようになる。更には自分と考えが異なる人は劣とみなす。平気で陰口を言い、自分が正しいと主張し、相手を責める。

この感覚が子どもらにパスされるから怖い。子どもは互いの違いを理解しているのに、親はそれを異種とする。親の言うことが正しいと思うと『異種』はやがて『ダメな人』となる。その子の話を聞いていれば、お家で(親が)話していることが露骨に見えてくる。


「お友達とは仲良くしなさい」
そんなことを涼しい顔で言う癖に、自分は仲良くしようとしない。せめても黙っていればいいものを口に出てしまうから始末が悪い。子どもは混乱するだけだ。
大人は『異種』と撥ねつけようとも、子ども同士の『理解』という感性を挫くようなことはしてはいけない。

自分の幼少期にもあったであろう『異なる事への理解』。親となった今こそ必要だということを思い起こさせてくれる授業参観であった。
posted by Sue at 16:28| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年11月08日

毒親のデトックス

最近よく目にする「毒親」。過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに支配したり、自分を優先して子どもを構わなかったりする親のことを言う。

毒親と言われる人たちは、自分に悪いことをしている意識はなく、我が子を思って、我が子をちゃんと、正しく、良い子に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう場合が多いという。

私は感情的になることが多い。映画や本でもすぐに泣いちゃうし、人の話を聞くと簡単に同調して泣いたり怒ったりするし、褒められると調子に乗っちゃうし、妄想でゲラゲラ笑ってるし。

感情にドタバタな起伏がある。この厄介な感情の一番の被害者は娘である。特に娘を叱った後、猛省をする時がある。「あの言い方はまずかったかな」とか「怒りすぎたかな」とか。で、落ち込む。
さっきまで怒りまくってたのに、今はドヨ~ンと落ち込む姿に、娘は理解に苦しむだろう。反省するなら言わなきゃいいのに、その場になるとどうにもコントロールができなくなってしまう。う~ん、私は結構な毒親なのかもしれない。

自分のやっていることが絶対とは思わない。時には間違っている。この叱り方は間違っているとわかっても、一度噴火したらなかなか鎮火しない。

感情をコントロールするのは難しい。泣いて、笑って、怒って、そしてまた泣いて。そんなコロコロと変わる感情を、きっと周囲は扱いにくいだろう。「お母さん、今日は不機嫌だね」「お母さん、今日はご機嫌だね」なんて。家族が私に変な気遣いしていると思うと、またもや不機嫌になるもんだから、厄介だ。あ~それじゃダメじゃん。



毒親は家庭での子育てのみならず、社会組織でも然り。部下や後輩は子どもではないから、上司(先輩)は毒親とは言わないにしても、毒親の定義である「自分に悪いことをしている意識はなく、部下(後輩)を思って、部下(後輩)をちゃんと、正しく、良い部下(後輩)に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう」は当てはまることもある。

新入生は知らないのが当然。一度言えばわかるだろう?は、言い方による。一度言ってわからない場合は自分の言い方を見直した方がいい。

叱るだけなら親や上司(先輩)じゃなくてもいい。でも叱った先にあるもの、上司(先輩)ならば指導だったり指示だったり、親であれば導きであったり、正しい方向を教えてあげなければ、それこそ毒親になってしまう。

子どもは間違いをしながら成長する。部下(後輩)の失敗も必要悪なのだ。失敗して学んでいくもの。自分もやってきた。だから親や上司には、そんな失敗や間違いを包み込む余裕がほしい。

感情が激しいのは悪いことだとも思わない。喜怒哀楽が豊かの方が、のっぺらぼうな人生よりも楽しい。だから自分の気持ちを大切にする。感情も大切にする。それと同様に子どもの気持ちも大切にする。子どもの感情も大切にする。そうやってデトックスしていけたらいいな。

あ、でも鬼軍曹の言動は必要悪であり、デトックスはできないと、この場は解釈しておきたい。


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2019年08月06日

「労働」は日本の義務ですが何か?

長い梅雨が明け、日本列島が猛暑に覆われた。熱中症で倒れたというニュースが各地から入る。ここ数年の夏の暑さは異常だ。

この暑さは、人の心から穏やかさを奪うのだろうか。

この町には、スーパーの駐車場に大型廃品回収ボックスが設置されている。ここに新聞紙、古紙、段ボールを持っていくと重さがポイントに換算される。ポイントにもなるし、リサイクルにもなるし、この便利なシステムを利用している人は少なくない。

ある昼間。風もなく、太陽の熱が直接肌に突き刺さり、何もしなくてもベットリした汗が出てくるこの日、新聞紙を持ってスーパーに行った。丁度そこに回収業者のお兄さんがボックスに溜まった廃品をトラックに移す作業をしていた。首に掛けたタオルで汗をぬぐいながら、中腰にしてトラックにバンバンと勢いよく古紙などを投げいれていた。

間が悪かった。移動作業が終わろうとする頃に私が来たのだ。ボックスの前に駐車した私の顔を見るなり、大きな舌打ちをし「マジか!」と不快感をMAXに表した。
私は何かものすごく悪いことをしたような気分になり
「後にします」と言ったら
「ちっ、いいっすよ、もう」と面倒なものを見るように私を睨みつける。
辞めようかと思ったが、そこで引くのもどうかと思い、ひとつにまとめた新聞紙をボックスに入れた。
「はぁ?これ?」誰に向かって言うでもないお兄さんの声は小さかったが、私に聞こえるほどであった。どうして新聞紙が気に障ったのか分からない。それでも
「すみません。よろしくお願いします」と言って、そこからさっさと離れた。
私の後ろには、他の車が順番を待っていた。この人もこれから嫌な想いをするのかなと思うと、なんだか気の毒に思えた。

あまりにも理不尽に感じて、この話しを隊長にしてみた。隊長は淡々と言う。
「自分の仕事に誇りがないんだろうね、そのお兄さん。結局は、やらされ仕事なんだよ。だから不満が募る。どんな仕事であれ、自分のやっていることに誇りを持てば、そんな態度はとらない」
なるほど。私たちは嫌な想いをするのはその瞬間だけど、お兄さんはずっと嫌な想いで仕事をしてるのかと思うと残念だ。しかも廃品回収は環境保護に貢献した大切な仕事だ。うんと誇りを持つべきである。が、この暑さじゃ外での肉体労働は不快が120%にもなるだろう。

しかし、同じく肉体労働をしている工事の人だって、交通誘導するガードマンだって同様な環境にいる。しかも廃品回収のお兄さんは、回収が終わればエアコンが効く車内に戻れるが、工事の人たちは外に出たままだ。その人たち全員が、賃金目的のやらされ仕事ではないだろう。住民のため、笑顔のため、安全のため、オリンピックを成功させるため、社会のため、未来のために猛暑の中、働いている人もいるはず。

日本において労働は義務になる。どうせは働かなくちゃいけないなら、賃金目的だけではなく、「○○のため」に働いたらどうか。その方が絶対に楽しいし、自分の存在価値も大きく思える。

あなたは何のために働いていますか?

呼吸すら困難な満員電車に運ばれ、夜遅くまで、休みも返上して、失敗を繰り返して、終わりも見えず、毎日クタクタになって…。それでも働くのは、その先にある「○○のため」があるから。だから人は頑張れる。

廃品回収のお兄さんにも、ぜひ「○○のため」を心に想ってほしい。そしたら終盤に新聞紙を持ってきた面倒なおばちゃんのことも、少しは許せる余裕ができるかもね。


posted by Sue at 10:33| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする