2022年01月21日

病気治しはクセ治し

新型コロナウイルスの第6波が猛威を振るっている。
噂ではオミクロン株とデルタ株が合併したデルタオミクロン株が発生したとか。まるで人類の抵抗をあざ笑うかのように、ウイルスはしたたかに爪を立て続ける。

現に新型コロナウイルス感染症は、持病のある人が重症化する割合が高いと言われている。
人間だれにでも弱点はある。そんな弱点を狙って、病原体、がん細胞、ウイルスなどは入り込んでくる。ウイルスも生きてゆくために必死ということか。


常々思う、このウイルスは人の心に巣食う悪魔に近いと。
悪魔は人の心の隙間、心の弱い部分に巧妙に入り込んで引っ掻き回す。悪口を言い、嘘をつき、いじめをし、盗みをし、暴力をふるい、いつしか他人の心を殺す。
そんな心の隙を狙っている悪魔たちは身近に存在する。

悪口は口から出る蛇である。その悪口を聞いている人の腹の中に入り込み、卵を産み付ける。聞き手の腹に入った卵は孵化し、蛇となり、また悪口という蛇となって他の人の腹に卵を繁殖させる。

嘘も然り。小さな嘘を隠すためにまた嘘を言う。嘘はどんどん大きくなり、やがて周囲から最も大切なもの『信頼』を失う。時間を掛けて築き上げた『信頼』も崩れるのは一瞬だ。

保健婦だった義母は東洋医学を重んじている。同居者全員がインフルエンザにかかっても、義母だけはなぜか罹患しない。当然、予防接種も受けたことがない。
その義母がよく言っていた。
「病気治しはクセ治し」
病気にかかることで、今までの悪い習慣を見直すきっかけになる。つまりは、悪い習慣を治せば、病気は防げるという理屈だ。

義母に言わせたら、弱点とはむしろ身体よりも心であり、習慣は心のクセなのかもしれない。クセとは恐ろしいもので、自分ではなかなか気が付かない。
いや、本当は気付いていても、「これくらいは大丈夫」と自分の都合のいいように解釈しているのかもしれない。

これはマザーテレサの言葉。
『思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。』


私たち人間は心のどこかに隙間を持っている。
その隙間から悪魔が侵入しないように心を強く持つクセをつけたい。

人類は新型コロナウイルスとまだしばらく戦っていくことになる。
これが終息したところで悪魔は再び新たな刺客を送り込んでくるだろう。
どうか心よ、強くあれ。

私にとって夫と晩酌しながら娘の本日話を聞くのが至福であり、この時間が永遠に続くようにと強く願い、改めて悪魔から家族を守ろうと心に刻むのであります。
posted by Sue at 17:17| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2022年01月06日

勘違いのススメ

あっという間の冬休みも終わり、今日から娘は登校。
昨晩、学校の準備をしている最中に不安を煽るような声が!!
「あ~、この宿題やってない! ってか、こんなのあるって知らんかった~。明日(登校時の電車内で)やろ~っと」
先延ばしを好まない私は畳みかける。
「今、やっておきなよ。まだ時間あるでしょ!」
「どうせ一時間は乗ってないといけないんだから、その時にやればいいよ」
誰に似たのか、呑気な子である。

私と娘の性格は正反対の部分が多い。
私は心配性、娘は呑気。
私は朝型、娘は夜型。
私は感情的、娘は理論的。
私はネガティブ思考、娘はポジティブ思考。
そして私の心は弱く、娘の心は強い。

先日、娘に「どうしてそんなにハートが強いの?」と聞いてみると、娘はこう返した。
「世の中にはね、強い人も弱い人もいないんだよ。いるのは"強いと勘違いしている人"だけ。そういう意味では、私は自分自身を強いと勘違いしているんだと思う。

でもね、本当の私は強くも弱くもない。ただ、自分を強いと勘違いしているから周囲もそう勘違いしている。お母さんも私が強いって勘違いしてるんだよ。
だからね、お母さんも勘違いすればいいんだよ。"自分はめっちゃ美人だ!"とか、"私って強い!"とか。そしたら周りは勝手についてくるからさ」

どうしてそう思うのか?
娘はこんな話をし出した。

中学入学直後、数学が苦手だった。テストも平均点程度。しかしある時、ある難問がスルッと解けた事をきっかけに"私って数学が得意かも!?"と勘違いし始めたらしい。そこから数学が好きと勘違いし、今では数学において高得点をどうにか維持している。

中2の娘に励まされるダメな私。
「それが違うんだって!ダメ母と思ったら負け。"こんな風に励ましてくれる娘を育てた私はすごい!"と勘違いするんだよ」

うふふ。なんか面白そう。
うん、やってみる。
まずは「私なんか」を「私だからこそ」って言葉に変換してみる。


「私なんか、誰も評価してくれない」とか「私なんか、どうでもいいと思われてる」とか、その『なんか』を『だからこそ』に入れ替えてみる。
うん、やれそう。
「私だからこそ、やれることがある」「私だからこそ、解ってあげられる」「私だからこそ、この人を幸せにできる」
お、なんかいいかも!

あ、でも。
やっぱり宿題はやっておこう。
そして、平均点をかなり下回る理科においても勘違いすることを、母は静かにススメる。



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理論的な性格は父親似。子は親の背中を見て育つ。
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2021年09月10日

人は挑むことで自分を変えることができる

最近、娘からある本を薦められた。
中学受験に挑む小学生の物語で、親、本人(小6)、塾講師の3人からの視点で構成された小説だ。そんな娘も中学受験を経験したうちの一人である。

娘が挑んだ中学は、カッパCLUBの愛娘Aちゃんが通っていた学校で、Aちゃんのお誘いで文化祭を見に行った時、「ここに行きたい!」と強く思ったらしい。「絶対にこの学校に行くんだ!」と心に決めた瞬間だ。

それまで、自分から何かをやりたい、習いたいと言ったことのない娘だが、なぜかこの学校に関しては強い意志を持った。中学受験は親子受験とも聞く。普段やりたいことを意思表示しない娘が初めて主張してきたのだ。できる限りのことはやろうと思った。

しかし、緊張感は長く続かない。10年分の赤本を買ったものの、なかなか進まない。受験の時期が迫ると、娘の生活パターンとインフルエンザ対策に翻弄され、自分が受験するわけでもないのに、気持ちだけが焦燥していった。
「過去問もまだ残っているし、漢字だって間違っている。これじゃ落ちてしまう!!」
日々迫る焦りから娘との会話も小言ばかりになり、大切なことがすっぽりと抜け落ちた。
その大切なことを、この小説で思い出すこととなる。

受験を決めた少年の言葉だ。
「勉強を限界までがんばりたいから。限界まで頑張れは、見たことのない景色に出合うことができる。自分自身が想像もしなかった場所まで行けるって、うちのお父さんは言うんだ。飛行機が時速200キロ超のスピードで滑走路を走るといつしか空を飛んでいるように、人間だって限界まで走ればどこか違う場所に辿り着ける。生き方が変わるって、お父さんに教えられたんだ」

一方、自分の息子は今の志望校が無理だと決めつけた父親に対しての塾講師の言葉。
「もし息子さんが不合格になったら、あの子への信用を失くしますか?ダメなやつだと見損ないますか?二月の合格発表後には、積み重ねてきた努力だけが残ります。合格、不合格。そんな判定とは関係なく、あの子がここまで頑張ってきた時間が残るんです」

物語の主軸はたまたま中学校受験であるが、この塾講師には社会に馴染めない弟がいる。その弟への視点も交えて物語は進む。いわば、これは大人にも通じる話なのだ。


53歳の隊長はまだまだアスリートとして上を目指している。おこがましくもキングカズと同じだ。体力のある若い世代がどんどん出てくる中にいたら、いわゆる不合格=負という結果になるかもしれない。それでも挑み続けている。

「もし彼が負けたら、彼への信用を失くしますか?ダメなやつだと見損ないますか?大会後には、積み重ねてきた努力だけが残ります。勝ち、負け。そんな判定とは関係なく、彼がここまで頑張ってきた時間が残るんです」
塾講師の言葉を借りると、こうなるかな。


本の中に、受験を決めた子の同級生の言葉がある。
「中学受験なんて意味がない。勉強を頑張りたいなら、中学に入ってからでも遅くないってうちの父ちゃんが言ってたぞ」

なるほどね。私も言われたよ、そんな様なこと。
でもね、じゃぁどうしてこの子はサッカーをこんなに一所懸命にやるの?
サッカーは大人になってからもできるのに。

同級生の言葉に悩んだ少年に対して塾講師はこう言った。
「人は挑むことで自分を変えることができる。12歳でそんなことができるなんて、中学受験に意味のないわけがない」

すべてにおいてそうかもしれない。
人は挑戦することを止めてしまうとき、その理由を探す。そして自分に言い聞かす。
「〇〇をやるには早すぎる」「〇〇をやるには遅すぎる」「〇〇をやるのは大変だ」「〇〇をやるには高すぎる」「〇〇をやる時間がない」

なんでもいいじゃない。いつだっていいじゃない。
挑戦してみたいことが見つかったら、やれない理由なんか探さないで、目的地に向かって一直性に延びる滑走路を全速力でひたすら走ってみようよ。

周囲は自分の『ものさし』で測ろうとするかもしれない。でも、それはその人の『ものさし』。30センチの『ものさし』で滑走路なんて測れやしないよ。

そんなことを想いながら、この小説を読み終えた。

さて娘はこの本を通して、私に何を伝えたかったのだろうか?
それを聞いた時、娘はこういった。
「あ、まだそれ読んでないから、ネタバレやめてね」


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2021年08月21日

オトナの無視

先日、知り合いからLINEが届いた。
「職場で無視される」というのだ。しかも後輩から。
小中学生の頃は時々あったけど、まさかオトナになってもあるとは!

当然、世の中には気の合わない人や嫌いな人もいる。
しかし、“どんなに気に食わない人であっても、オトナであれば社交辞令的にあいさつはするでしょ” なんて思っていたのは私だけ?
「いやいや、よくあることよ」と後輩の態度に我慢をしている知り合い。
彼女の話を聞くうちに、なんだか現代社会において人間に備わるべき『人格』というものが、体内からどんどん消滅していくような感覚になる。

さて『無視』と言って思い出すのが娘の小学校時代の話。
(もうすっかり終わった事なので書きます)
「この問題、解る人いますか?」と先生。娘が手を挙げるも、先生は
「誰もいないの?」と、娘を無視。
それでも負けてない娘は、わざと大声で答えを言う。それを聞いた隣の子が
「答えは〇〇」と言うと、先生は「正解」と、その子を褒めた。隣の子は
「あきらちゃんが言ったんだけどな~」と言い返したが、先生はそれすらも無視。
先生の中では、娘は教室内に存在しなかった。

指してもらえない娘にも問題があったと思う。
無視されるには、それなりの理由もあろう。

しかし、娘に対する“気に食わない”という先生の態度はあからさまだった。
そんな先生の態度に対し、娘は一刀両断。
「オトナゲないなぁ」
もしかしたら、先生はきっとこういった娘の大人びた発言が気に食わなかったのかもしれない。
それにしても、相手は小学生である。
大人びた発言は親の責任でもある。
子どもを無視するよりも、親に言ってくれた方が助かったのだが・・・。
先生よ、気に食わない生徒だからって、もう少しうまくやってくれまいか。

幸い気の強い娘は先生の対応を気にもしなかったが、私が同じ立場だったら、その場で泣いていたかもしれない。
いやいや、不登校になったかもしれない。
いいか悪いかは別として、神経の太さが父親に似てよかった。


極太の神経を持つ娘はおいといて、『無視』は人がもっとも傷つく行為である。
ある本に『無視をするのは承認欲が強いから』とあった。
何事に対しても勝手に競争して、勝手に勝敗を決めている。
それはアスリートの『競技人生』ではなく、ひとりで他人と比較して優劣や善悪を決める『競争人生』なのだ。
結局のところ、その人の問題なのである。

こちらに非があるなら、しっかりと反省する。
無視する側は、おそらく話し合いの機会ですら嫌がるだろうから、まずは自分の言動を反省し、それから相手に歩み寄ればいい。
それでも相手が話すことすら拒否するようなのであれば、その人は逃げているだけ。
放っておけばいい。

こちらに思い当たる非がないなら、誰かを傷付けることを目的とした人間と関わること自体が無駄な時間と労力である。
人を傷つければ、いつかしっぺ返しが来るのが世の常。
放っておけばいい。

そこでやるべきことは、その人のご機嫌を伺って、その人に好かれる人生を生きることではない。
まずは自分のすべき仕事をきちんとして成果を出す。
そして自分を大切に思ってくれている人や、頼りにしてくれている人に対し、きちんと応える。
気持ちを向けるのは、自分を無視する相手ではなく、自分を大切に思ってくれる人だ。

オトナの世界にもある『無視』という稚拙な行為。
その行為をすることで何を勝ちとするのか?
強者(先生)が弱者(生徒)を無視することで、どんな利益があるのだろうか?
後輩が先輩を無視したところで、どんなメリットがあるのだろう?

今『無視』をされている知り合いよ。
問題があるのはキミではなく、無視する側である。
だからね、そんな人に神経を注ぐ必要はまったくないんだよ。
神経を注ぐべきはそこじゃなく、もっともっと大切な方だ。


さて、当時の先生の無視など意に介さなかった図太い神経を持った娘。
大好きな中学が夏休み明けに分散登校になることに神経を注ぎ、全員一緒に会えないことを悶え悲しんでいる。

私と言えば、冷蔵庫にずーっと保管されてる夏休みの自由研究品をどう片付けてやろうかに神経を注ぎ、デザート置き場のないことに悶え悲しんでいる。

冷蔵庫を占拠するこれらの研究品も無視できたらいいのに。


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2021年07月29日

東京オリンピック2020に想う

東京オリンピックが始まった。世界中に拡大した新型コロナウイルス感染症もワクチンが開発されたとは言え、舞台となる東京は日々感染者数が増えている。こんな状況下でも、この大会にすべてを賭けてきたアスリートたちのほとんどの選手が「ここまでこられた事に感謝している」と言う。

驚くはスケートボード女子ストリートで金メダルを獲得した西谷椛選手。なんと13歳!うちの愚娘と同年だ。銅メダルは16歳の中山楓奈選手。柔道も若手の活躍が目立つ。

一方で体操の内村選手、競泳の入江選手、ウェイトリフティングの三宅選、スラロームの羽根田選手など、期待のかかった有名選手が敗退している。新しい選手がどんどん下から突き上げてくる中で、勝ち続けることは容易ではない。

コロナ禍での開催は、そこに至るまでにたくさんの物議が醸し出された。組織内の大役の辞任、世論の開催反対の声、自治体によって異なる観客の受け入れ。情報が日毎に変わる。何が正しいのかもわからなくなる。

そんな中「マスクなんていつまでやるの?」などと平気で言っちゃう国のリーダーも出てくる始末。新しい政治家がどんどん下から突き上げてくる中で、現役であり続けることは思ったよりも簡単なのかもしれない。


先日、卓球混合ダブルスの決定戦を娘と観戦していた。20歳の伊藤選手がみまパンチを決める度、娘は「かっこい~~~」と絶賛。若い選手が活躍する姿に感動する娘。
一方、私の視点は32歳の水谷選手に行く。真実は分からないが、ミスの続く伊藤選手を経験のある水谷選手が支えているように見えた(ある種の妄想)。経験者のあるべき姿だと感心する私。


人は年を重ねる。どんなに抗っても皺は増えていく。その顔に刻まれた皺は経験に比例するのかもしれない。その皺をどう活かすのか。
(あくまでも私の妄想の中での)水谷選手みたく、自分の経験値を若い世代に押し付けるのではなく、彼らの言わんとすること、やらんとすることに気が付き、それを支えるのも、経験のひとつの活用法だ。


さて金メダルを取った水谷選手と伊藤選手。金メダルが決まった瞬間、うれしくて20歳の伊藤選手に抱き着いた32歳の水谷選手だが、「衝動的に喜びを表現したら、伊藤選手は拒否気味で『痛い』とはねのけられてしまった。ちょっとつらかった」と話す。ひょっとしたらこれもジェネレーションギャップかもしれない。


posted by Sue at 18:31| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2021年07月07日

自分の強みを活かせ

小学校時代、下級生よりも背が低く、運動も全然得意ではなかった娘は、中学に入ってバドミントン部に入部。先輩や経験のある同級生に指導してもらいながら、放課後の練習に明け暮れる日々だ。

2年生になり、身長も150センチを突破した。しかし体重はあまり増えず40㎏を満たさない。それでも元気に、毎日10㎏近い鞄を背負って通学している。
痩せっぽっちだけど体力あるところは父親似かな。
下っ腹に体力を蓄えている私に似なくて良かったと喜ぶべきか!?

さて先日、娘のバドミントンの県公式試合を見に行った。
娘はダブルスに出場。ペアを組むのは、これまた身長も体型も似たような女の子で、出番は大会開始から一時間ほど後になる。

娘の出場を待っている間、他の選手のプレイを見学。
コロナ感染防止の影響で大声は出せない。応援もできなければ、選手同士の掛け声もNG。それでもみんな一所懸命にシャトルを追う。
身体の大きい子はスマッシュが強い。なんと言ってもパワーがある。

さて娘たちの出番が来た。相手は二人とも身体がしっかりしている。ひょろっこい娘たちは見る限りに弱そうだ。試合が始まった。娘ペアはお世辞にも上手いとは言えない。相手ペアはバシバシとスマッシュを打ち込んでくる。こちらは拾うのに必死で、スマッシュを打ち返すどころではない。あ~こりゃ目も当てられん試合になるかも。

ん?  あれ?  不思議と打ち合いが続いている。
剛速球スマッシュを拾いに行ってるし。

大会前に娘が言っていたことをふと思い出した。
「私たちはスマッシュが打てない。相手がミスしない限り点数は取れない。だから拾いに行くの。自分たちの強みは“持久力”だからさ」

そう言えばこうも言っていた。
部活中、娘ペアは練習ではよく負けるけど、基礎体力造りのマラソンでは二人で常にトップ争いをしている。距離が長ければ長いほど、二人は強くなる。


そもそもが運動音痴。体力だってここ最近ついて来たところ。
人と同等な技術を持ってないなら、自分の強みを最大限に活かすことも策である。
娘は持久力が自分の強みだと言っていた。
なるほど、だから打ち合いが続くのか。

娘の試合を見ながら考える。
じゃ、私自身の強みって何? 

“人よりうまくなりたい”
運動であれ、勉強であれ、仕事であれ、家事であれ、芸事であれ、その気持ちは大切だと思う。自分を磨くモチベーションになるし、更には人生の目標にもなる。

が、そればかりに焦点が行き、『生来の強み』を置き去りにしていないだろうか。

多種目のアドベンチャーレースは、それがとても解りやすい。ウォーター系の強い選手、体力がある選手、ナビゲーションが得意な選手、自転車で引っ張れる選手。
そればかりではない。眠気に強かったり、痛みに強かったり、チームメイトへの配慮ができたり、雰囲気を作るのがうまかったり。
一人でも欠けてしまえば終わってしまうアドベンチャーレースは、一人一人の強みがとても重要になる。一人一人が自分の強みを活かしてチームを支えてこそ、結果がついてくる。


じゃ、私自身の強みって何?
しばし考えてみる。
・・・あかんわ~。思いつかない(涙)

ちょっと質問を変えてみる。
「人からどんな相談を受ける事が多い?」
自分の強みが何かを周りに教えられることもある。



さて、娘の公式試合に話を戻す。
結果は大敗。後から聞いたことだが、試合直前の打ち合い練習で足をくじいてしまった娘。ペアの女の子は、試合中にできる限り娘をかばってくれていたそうだ。
二人の強みを活かしながら、メンバーを想い合った一戦は、これからの彼女たちが進む道に何らかの影響を残すだろう。

残念ながら一回戦で二人の出番は終わってしまった。
でもね~、お母さんは観てたよ。二人とも打ち込まれるスマッシュを怖がらずに取りに行っていたこと。
すごかった。めっちゃかっこよかったよ。


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2021年06月26日

TJAR 太平洋を目指して

今年もトランスジャパンアルプスレース(TJAR)が始まる。日本で類のない過酷な山岳レースである。
コースは日本海から太平洋。ルートは日本アルプス。距離にして415㎞、標高差27000m。これを8日間で走り抜けろと言うんだから、尋常ではない。

私はこの大会の実行委員の一人である。
大会中に強風が吹こうものなら、山林や低木の中でひたすら耐え忍んでいる選手を想像し、自分は穏やかで涼しい部屋にいるのに心臓が騒ぐ。

「みんな十分にトレーニングをした人たちばかりだもん。きっと大丈夫」と自分に言い聞かせながらも、彼らの家族の顔が浮かび、気持ちが四分五裂になる。
アドベンチャーレーサーの妻としての経験から、家族の心配はよくわかる。

太平洋のゴールで選手を待つ家族や恋人。満身創痍になりながらもテープを切る選手と家族の笑顔を見る事は、実行委員としても最高の瞬間である。

この瞬間を目指し、出場を希望するアスリートたちは、超高ハードルの出場条件をクリアすべく2年間を費やす。

たった2年。そして特別な2年。

だから私たち実行委員も真剣だ。たった8日間のために2年もの時間を費やす。もちろん完全無償だ。
申込書を受理するのは私の役目。簡単な作業ではあるが、その重みは2年分だ。2年間の、人によっては4年間、6年間、10年間の想いが詰まった申込書である。
「拝受いたしました」
たった一言の返信ではあるが、文字通り拝受しているのだ。

残念ながら書類で不通過になった人もいる。ここまで来るのに、ずいぶんな時間やお金を費やしてきたことだろう。選考する側を責めたくなる気持ちもよく分かる。
私も出場チーム数制限をしているアドベンチャーレースへの出場権を得るため、技術証明書やチームのビデオクリップを作成して送る。新メンバーの経験不足や言葉の壁もあり、出場権を得るのは容易ではない。

選考をする側とされる側。双方の立場を経験する者として言えるのは「落とす事は簡単なことではない」と言うことだ。人を選抜することは本当に苦しいことなのだ。
言葉の壁のないTJARはなおさらである。そして実行委員は半分以上がレース経験者だ。この2年間どんな想いで準備してきたか、気持ちは痛いほどに分かる。

しかし我々は冷静に線を引く。上記に書いた「みんな十分にトレーニングをした人たちばかりだもん。きっと大丈夫」を「絶対に大丈夫」という確信にするために。

ある書類選考で不通過となった人からきた返信文が心に染みる。
「自分の甘さを改めて気付かされ、恥ずかしさとともに、心身を鍛えて出直します」

この人はきっとやるだろう。結果を謙虚に受け止めた事で課題がクリアできる。次回までに鍛錬を積んで、更に強くなって挑んでくるだろう。
大丈夫。山は逃げません。いつもそこに居ます。

間もなくTJAR2020実地選考会が始まる。
そして私たちも強い気持ちで真剣に選考する。
太平洋に辿り着いた時の笑顔を見る瞬間を心待ちにして。


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2021年05月20日

オトナの言うことを信じるな!

中学2年生になり、先輩と呼ばれることに少し慣れてきた娘。
通学に往復3時間。それでも、ともかく学校が楽しいらしく、朝はきちんと5時30分に起きて身支度をし、ササっと朝ごはんを食べて、6時16分発の電車に乗る。

学年が上がるに伴い、勉強も難しくなってくる。小学校の時は「ここ教えて」と言われれば教えられたものの、今では徐々に難易度が増してくる。英語や国語ならまだしも、数学や理科に至ってはお手上げだ。(はぁ~私の理数レベルは中学生かぁ)

「そう言えばさ・・・」
先日、ふと娘が小学校の時ことを話し出した。
理科だったか算数だったか。先生が最後に「質問のある人いますか」と言ったので娘は挙手。内容は覚えてないらしいのだが、その時に疑問に思ったことを聞いた。
その質問に対し、先生はこう回答したそうだ。

「そんなことは中学でやるから、今知らなくていいです」

どんな質問をしたのか覚えていないくせに、先生の回答はしっかり覚えているという。
先生は「今それを教えたら飽和状態になって混乱するかも」と思ったのかもしれない。
どんな返答だったにせよ、生徒の事を考えての回答だったと思いたい。


さて、何年か前の隊長が小学生対象に講演をさせて戴いた時のこと。
隊長はアドベンチャーレースの体験を通して、自然の猛威について話をした。
その中の一部を少しだけ紹介。

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今やネットでなんでも調べられるし、なんでも買うことができます。その場に行かなくても世界中を視る事だってできます。技術も発達し、身の回りに便利なものが増えました。たくさんの人の病気が治るようになりました。そして科学もどんどん発達し、今まで謎だったたくさんのことが解明されてきています。
しかし、そんな科学が進んだ地球でも、自然だけはコントロールできません。

その代表的なものに福島第一原子力発電所(原発)事故があります。2011年3月11日、大きな地震が東北を襲いました。絶対に安全だと言われて建設された原発は、この地震よって建物爆発が起き、放射性物質が外に漏れてしまったんです。この有害物質に染まってしまった地域の人たちは、家族を守るためにこの場所を離れました。

万が一に備え、たくさんのオトナたちが知恵を出し合い、何度も調査をし、十分すぎるほど頑丈に建てた原発。途轍もない時間をかけて安全性を確かめた原発。しかしオトナたちが絶対に安全であると言ってた物は、自然という猛威にいとも簡単に壊されてしまったのです。

だから君たちに言う。
“オトナの言うことを信じるな”
それが本当に正しいかどうかを自分たちで考えてください。たくさんたくさん考えてください。もしかしたら正解はないのかもしれない。でも何がベストなのかを一所懸命に考えてください。

自然は美しい。でも自然は驚異です。この先、君たちが自然とうまく付き合い、より豊かに暮らすため、自然をもっともっと知る必要があります。
それにはネットだけに頼らず、自分の足でたくさん外に出て、たくさん自然に触れ、たくさん勉強して、そして自分の頭でたくさん考えてください。

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娘の小学校時代に話を戻そう。
確かに娘の疑問は今知らなくていい事であっただろう。
では中学生になった今、この疑問の答えがわかったのだろうか。なんだか気になる。
(本人は質問の内容すら覚えてないくらいなんだから、大したことではないのだろうけど)

でも、もしあの時、先生が「なんでこうなるのかを一緒に考えてみよう」と言ってくれていたら・・・。
子どもはその瞬間に考える機会を逃さずに済んだのかもしれない。

答えを教えることだけがオトナの役目ではない。オトナだって知らないことはだってたくさんある。間違うことだってある。あの池上彰さんだって間違ったり知らなかったりすることがあるはず。・・・きっと。

それでいいのだ。大切なのは疑問を放置せず、そこから学ぶことを、考えることを子どもと一緒にやっていけばいいのだ。
“オトナの言うことを鵜呑みにせず、それが正しいかを自分でも考えてみよう” である。


中学校2年生の娘。今じゃ「ここ教えて~」という質問に対し、一所懸命に考えて答えると「え~ うそくさ~い」と言って信じてくれない。思惑と若干ズレてるものの実践している(泣)。
posted by Sue at 11:54| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2021年04月18日

継続は信用なり

私が初めてアドベンチャーレースと出会ったのは1997年のレイドゴロワーズ・レソト大会である。私はチームのアシスタントで相棒は新保政春(シンポくん)。選手は、後に夫となる主将・田中正人(隊長)、当時早稲田の大学生で後にテレビ朝日職員となる鈴木篤(あっちゃん)、カヤッカーの田島健司(ケンさん)、紅一点は、のちに一級建築士となる金子留美(るみちゃん)、そして海洋冒険家の白石康次郎(白石くん)。
あれから四半世紀近くの時を経てもなお、この人たちは私の大切な仲間である。


先日、隊長が神奈川県の某小学5年生を対象に講演をさせて頂く機会があった。縁あることに、そこは白石くんの出身校だった。
隊長が白石くんを「知っているか」と訊くと、みんな「知っている」と答えた。
そこで隊長は、急遽その講演テーマに白石くんの話を挿入した。

白石くんは、この講演があった日、世界一過酷なヨットレース『ヴァンデグローブ』にて海洋との戦いの真最中であった。

ヴァンデグローブとは、4年に1回行われ、単独無寄港で南半球一周(約48,152㎞)を100日程度かけて航海するヨットレースである。強風、荒波、悪天候の中を無補給、無援助で進む。完走率は半分程度。
たった一人で100日間。トラブルもすべて自分で対処しなくてはならない。孤独での戦いという意味ではアドベンチャーレースの何百倍も過酷だと思われる。

そんな強い白石くんも、レソトの陸地では隊長に引っ張りまくられた。足の裏がボロボロになり、痛みというにはあまりにも辛い。そんな白石くんの状況を知りながら、隊長は「みんな痛いのは同じだ」と尻を叩きまくった。

一歩踏み出す毎に激痛が走る。隊長の猛烈な煽りを受けながらも、白石くんはあきらめなかった。
「ちょっと待ってくれ」と口に出したものの、
「もう辞めたい」とは決して言わなかった。

そんな強い白石くんは、少年時代から抱き続けた『船で海を渡る』という夢を叶えた。
2016年に出場した『ヴァンデグローブ』は、レース中にマストが破損し、無念のリタイヤ。あんなに強い白石くんが涙を流した。
その悔し涙から4年。船を新たにして再挑戦。見事に完走を果たした。

さて、話は隊長の講演に戻そう。
少し生々しいけど、隊長は生徒たちにお金の話を切り出した。

「僕が挑戦する世界のアドベンチャーレースに1回出場するのにかかる費用は約300~400万円。
一方、白石くんは今回の新しい船にかかった費用だけで、なんと8億円!!!レースに出場するのにかかる費用を含めたら、とんでもない金額になる。
一所懸命に働いたって、それだけのお金はなかなか稼げない。

じゃ、どうやって稼いでるの?って思うよね。
これはね、すべて彼への『信用の代金』なんです。

信用しているからお金を出す。信用しているから応援をする。信用しているから支える。
これはね、彼がまっすぐに、じっくりと、しっかりと作り上げてきたものなんです。

僕は彼ほどの金額ではないけれど、それでも僕を信用してくれている人がいて、その信用で僕たちはレースに出場している。

もし君たちに夢があるなら、ぜひ『信用』を作り上げてください。
自分の夢に誠実に向き合い、ひたすら努力し続ければ、きっと応援してくれる人が現れる。どうかその人たちから信用を得てください」


今年54歳になる白石くんと隊長。
26歳で最年少単独無寄港世界一周の航海を成し遂げた白石くんと、同じく26歳でアドベンチャーレース日本人初完走を成し遂げた隊長。
人生の半分を夢に賭けた二人は、きっとまだこれからも夢を追い続けるのだろう。

以前、隊長は「アドベンチャーレースで一番大変なことって何ですか?」と聞かれてこう答えた。
「続けることです」
実は一番難しいのは、トレーニングでも資金集めでもなく、続けることなのだ。

途中、資金的にも精神的にも難関に見舞われた。それでも「辞めよう」と思わなかった隊長。きっと白石くんもそうであろう。大好きな事だから辛い事も耐えてきた。

夢に年齢制限はない。あるとしたら、それは自分で決めた限界線である。

一足先に白石くんは『ヴァンデグローブ完走』という大きな夢をひとつ果たした。
白石くんは「想い続ければ夢は必ず叶う」ということを教えてくれた。

改めて、ヴァンデグローブ完走、おめでとうございます!


posted by Sue at 16:46| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2021年03月12日

「どう生きるか」を選ぶのは自分

大切な友人の訃報が届いた。
まだ互いに若かりし頃、愛知県で国際平和教育の活動に共に汗を流した友人である。

当時、彼は大学生だった。なんだかボヤ~ンとしていて、年上の私たちからは、いつも「大丈夫か?」と心配されつつも可愛がられる弟的存在だった。

やがて彼は政治を学び、夢かなって国会議員になり、アフリカ支援に奔走した。会わなくて久しいが、彼の活動のベースには、共に経験をした国際平和教育活動があったのだと思う。彼に何が起きたのかはまだわからない。ただ最近では、様々な背景の中で激務に追われていたと聞く。

彼の訃報は「どう生きるか」を深く考えることとなる。


生けるものすべては、いつか必ずその命を全うする日がくる。
だからこそ、生まれてきた事を、生きる事を、そして生きている間の事を大切にしたい。

長い長い宇宙の歴史から見れば、人の人生なんてほんの一瞬だ。
そのわずかな時間をどう生きるか。
今生きている姿勢は、子ども達の手本となっているか。


欲に駆られ、愚痴や悪口でストレスを発散し、人の失敗をあざ笑う。そんな生き方がいいか、人の役に立ち、人に喜んでもらい、人の幸せを一緒に喜び、悲しみや辛さを悼む。そんな生き方がいいか。選ぶのは自分だ。


私たちは神様じゃない。だからすべての人をハッピーにすることなどできない。他人の行いが間違っていると思えば糾弾することもある。疲れ果て、つい愚痴が出てしまうこともある。人を妬むことだってある。

それでも、ただ、せめても自分の周りにいる人だけでいいから。友達だけでも、家族だけでも、今この瞬間に傍にいてくれる人だけでもいいから。全力でハッピーにしよう。全力で笑顔にしよう。


今日、何回「ありがとう」を言った?
今日、何回「ありがとう」と言われた?

明日は今日よりもっと「ありがとう」を言い、「ありがとう」と言われるような事をしよう。



そんな事を思いながら、友人の冥福を心から祈る。
ありがとう、Duke。

posted by Sue at 19:09| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする
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