2019年11月17日

子どもの頃に学ぶこと

先日、小学校6年生の娘の授業参観に行ってきた。

授業参観の内容は音楽で、先生が歌の脈絡や強弱を説明。「ここはどんな風に歌う?」という先生の質問に「優しく」「強く」「スムーズに」と子どもたちから思い思いの意見が出る。ひとつずつイメージして歌い、どれが一番いいかを決め、最後はそれを全員で歌う(発表する)という流れ。

6年生ともなると、恥ずかしさや声変わりが始まり、人前で歌を唄うことに抵抗感があるように思うのだが、娘のクラスはまったくそれがない。驚くぐらい大きな声でしっかり歌う。中には声変わりで低い音を出してしまう男の子もいるが、まったく気にせずに大きな声で唄う。しかも、とても楽しそうに。聞いている方もハッピーな気分になる。

参観後の保護者会で担任の先生がおっしゃった言葉が印象に残る。
「今まで何年も音楽を教えてきましたが(担任の先生は音楽専門)、こんなに声が出るクラスは初めてです。すごく上手で、少し語弊があるかもしれませんが、いい意味で恥ずかしさがないんです。とても『音』を楽しむことができる子たちです。だから今日は、そんな素晴らしい歌を聞いてほしくて授業参観に音楽を選びました」

隊長は音楽が苦手だ。彼は決して人前で唄わない。知り合ってから20年以上経つが、彼の歌はいまだに聞いたことがない。

「徳(あきら)のクラスがみんなの前で大きな声で歌が唄えるのは、お互いを信用しているからだよ。だから恥ずかしくないんだよ。
僕が小学生の時、僕のあまりの音痴さに先生が笑ったんだ。その時から僕は人前で歌を唄わなくなった。
徳のクラスはみんな仲がいいんだよ。だから声が出せるんだよ」

ありがたいことに、娘の学年(22人)は、保育園からこの年まで、いわゆる陰険なイジメの話しを聞いたことはない。もちろんケンカはある。チョッカイを出す子だっている。合う・合わないもあるし、好き・嫌いも出てくる。それは集団生活においてあって当たり前だし、そこから学ぶものだってある。それでも声をしっかり出して歌えるのは『信用』がベースにあり、その信用は互いの事をきちんと理解していることから成り立つ。

子どもらのそれは『相互理解』などという堅苦しいものじゃなく、もっとやわらかい感性で自分と違う人を受け止めているようにも思う。

小さい頃にこういったことを経験できるってすごいこと。これから競争社会の中に放り込まれ、あらゆる物事に優劣がつく事を目の当たりするだろう。小学校では計算や漢字を学ぶことは基本だが、それ以上に学ぶべき大切なことの基盤が幼少期からしっかりできていれば、本当の意味での未来を任せられる人になる。

大人になると知恵が付き、表には裏があることを知り、社会の仕組みが解るようになり、些細な見栄を張るようになる。更には自分と考えが異なる人は劣とみなす。平気で陰口を言い、自分が正しいと主張し、相手を責める。

この感覚が子どもらにパスされるから怖い。子どもは互いの違いを理解しているのに、親はそれを異種とする。親の言うことが正しいと思うと『異種』はやがて『ダメな人』となる。その子の話を聞いていれば、お家で(親が)話していることが露骨に見えてくる。


「お友達とは仲良くしなさい」
そんなことを涼しい顔で言う癖に、自分は仲良くしようとしない。せめても黙っていればいいものを口に出てしまうから始末が悪い。子どもは混乱するだけだ。
大人は『異種』と撥ねつけようとも、子ども同士の『理解』という感性を挫くようなことはしてはいけない。

自分の幼少期にもあったであろう『異なる事への理解』。親となった今こそ必要だということを思い起こさせてくれる授業参観であった。
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2019年11月08日

毒親のデトックス

最近よく目にする「毒親」。過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに支配したり、自分を優先して子どもを構わなかったりする親のことを言う。

毒親と言われる人たちは、自分に悪いことをしている意識はなく、我が子を思って、我が子をちゃんと、正しく、良い子に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう場合が多いという。

私は感情的になることが多い。映画や本でもすぐに泣いちゃうし、人の話を聞くと簡単に同調して泣いたり怒ったりするし、褒められると調子に乗っちゃうし、妄想でゲラゲラ笑ってるし。

感情にドタバタな起伏がある。この厄介な感情の一番の被害者は娘である。特に娘を叱った後、猛省をする時がある。「あの言い方はまずかったかな」とか「怒りすぎたかな」とか。で、落ち込む。
さっきまで怒りまくってたのに、今はドヨ~ンと落ち込む姿に、娘は理解に苦しむだろう。反省するなら言わなきゃいいのに、その場になるとどうにもコントロールができなくなってしまう。う~ん、私は結構な毒親なのかもしれない。

自分のやっていることが絶対とは思わない。時には間違っている。この叱り方は間違っているとわかっても、一度噴火したらなかなか鎮火しない。

感情をコントロールするのは難しい。泣いて、笑って、怒って、そしてまた泣いて。そんなコロコロと変わる感情を、きっと周囲は扱いにくいだろう。「お母さん、今日は不機嫌だね」「お母さん、今日はご機嫌だね」なんて。家族が私に変な気遣いしていると思うと、またもや不機嫌になるもんだから、厄介だ。あ~それじゃダメじゃん。



毒親は家庭での子育てのみならず、社会組織でも然り。部下や後輩は子どもではないから、上司(先輩)は毒親とは言わないにしても、毒親の定義である「自分に悪いことをしている意識はなく、部下(後輩)を思って、部下(後輩)をちゃんと、正しく、良い部下(後輩)に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう」は当てはまることもある。

新入生は知らないのが当然。一度言えばわかるだろう?は、言い方による。一度言ってわからない場合は自分の言い方を見直した方がいい。

叱るだけなら親や上司(先輩)じゃなくてもいい。でも叱った先にあるもの、上司(先輩)ならば指導だったり指示だったり、親であれば導きであったり、正しい方向を教えてあげなければ、それこそ毒親になってしまう。

子どもは間違いをしながら成長する。部下(後輩)の失敗も必要悪なのだ。失敗して学んでいくもの。自分もやってきた。だから親や上司には、そんな失敗や間違いを包み込む余裕がほしい。

感情が激しいのは悪いことだとも思わない。喜怒哀楽が豊かの方が、のっぺらぼうな人生よりも楽しい。だから自分の気持ちを大切にする。感情も大切にする。それと同様に子どもの気持ちも大切にする。子どもの感情も大切にする。そうやってデトックスしていけたらいいな。

あ、でも鬼軍曹の言動は必要悪であり、デトックスはできないと、この場は解釈しておきたい。


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2019年08月06日

「労働」は日本の義務ですが何か?

長い梅雨が明け、日本列島が猛暑に覆われた。熱中症で倒れたというニュースが各地から入る。ここ数年の夏の暑さは異常だ。

この暑さは、人の心から穏やかさを奪うのだろうか。

この町には、スーパーの駐車場に大型廃品回収ボックスが設置されている。ここに新聞紙、古紙、段ボールを持っていくと重さがポイントに換算される。ポイントにもなるし、リサイクルにもなるし、この便利なシステムを利用している人は少なくない。

ある昼間。風もなく、太陽の熱が直接肌に突き刺さり、何もしなくてもベットリした汗が出てくるこの日、新聞紙を持ってスーパーに行った。丁度そこに回収業者のお兄さんがボックスに溜まった廃品をトラックに移す作業をしていた。首に掛けたタオルで汗をぬぐいながら、中腰にしてトラックにバンバンと勢いよく古紙などを投げいれていた。

間が悪かった。移動作業が終わろうとする頃に私が来たのだ。ボックスの前に駐車した私の顔を見るなり、大きな舌打ちをし「マジか!」と不快感をMAXに表した。
私は何かものすごく悪いことをしたような気分になり
「後にします」と言ったら
「ちっ、いいっすよ、もう」と面倒なものを見るように私を睨みつける。
辞めようかと思ったが、そこで引くのもどうかと思い、ひとつにまとめた新聞紙をボックスに入れた。
「はぁ?これ?」誰に向かって言うでもないお兄さんの声は小さかったが、私に聞こえるほどであった。どうして新聞紙が気に障ったのか分からない。それでも
「すみません。よろしくお願いします」と言って、そこからさっさと離れた。
私の後ろには、他の車が順番を待っていた。この人もこれから嫌な想いをするのかなと思うと、なんだか気の毒に思えた。

あまりにも理不尽に感じて、この話しを隊長にしてみた。隊長は淡々と言う。
「自分の仕事に誇りがないんだろうね、そのお兄さん。結局は、やらされ仕事なんだよ。だから不満が募る。どんな仕事であれ、自分のやっていることに誇りを持てば、そんな態度はとらない」
なるほど。私たちは嫌な想いをするのはその瞬間だけど、お兄さんはずっと嫌な想いで仕事をしてるのかと思うと残念だ。しかも廃品回収は環境保護に貢献した大切な仕事だ。うんと誇りを持つべきである。が、この暑さじゃ外での肉体労働は不快が120%にもなるだろう。

しかし、同じく肉体労働をしている工事の人だって、交通誘導するガードマンだって同様な環境にいる。しかも廃品回収のお兄さんは、回収が終わればエアコンが効く車内に戻れるが、工事の人たちは外に出たままだ。その人たち全員が、賃金目的のやらされ仕事ではないだろう。住民のため、笑顔のため、安全のため、オリンピックを成功させるため、社会のため、未来のために猛暑の中、働いている人もいるはず。

日本において労働は義務になる。どうせは働かなくちゃいけないなら、賃金目的だけではなく、「○○のため」に働いたらどうか。その方が絶対に楽しいし、自分の存在価値も大きく思える。

あなたは何のために働いていますか?

呼吸すら困難な満員電車に運ばれ、夜遅くまで、休みも返上して、失敗を繰り返して、終わりも見えず、毎日クタクタになって…。それでも働くのは、その先にある「○○のため」があるから。だから人は頑張れる。

廃品回収のお兄さんにも、ぜひ「○○のため」を心に想ってほしい。そしたら終盤に新聞紙を持ってきた面倒なおばちゃんのことも、少しは許せる余裕ができるかもね。


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2019年03月20日

世界の車窓から ~今日は長野です~

隊長、列車の旅。

着替、シューズ、アドベンチャーグッズ類など、でっかいダッフルバッグに詰め込んで、かなりな重量で、いざ出発。
電車には手荷物超過料金が発生しないことが有難い。

さて、新幹線を2本乗継ぎ、在来線も2本乗継ぎ、長野県某所へ。

長い列車の旅は、仕事もやれるし、景色や駅弁も楽しめるし、本も読める。初春の車窓を楽しみながらウトウトするのも気持ちがいい。
ローカル線ならではの良さがある。
まるで「世界の車窓から」を思わせる。
いいな、いいな。在来線のゆっくりのんびり一人旅。


それなのに・・・・
嗚呼、それなのに・・・

やらかした。
またもや奴は、やらかした。

そろそろ到着しただろう思う時間に一本の電話。
「ダッフルバッグ、金網に置いたまま下車しちゃった。これから会議があるから、駅に電話して探しておいて」

バッグがないことに気が付いたのは、最終目的地について、しばらくしてからだそうな。

どこをどうやったら、あんだけ目立つ荷物を忘れる?
そもそも、あれだけ重い物が途中でなくなったということに、なぜ気が付かないのだろうか?

まぁ、あの巨大な荷物を持って行こうとするのも勇気がいるゆえ、盗まれてはいないだろう。逆に発見して金網から下す方が気の毒だ。

駅には直接電話できない。ゆえにJRの忘れ物センターさんに問い合わせるしかない。問合せ続ける事、2時間。ようやくダッフルが見つかった。しかもかなり手前の駅に預けられていることが判明。

「〇〇駅にあるって」と伝えたら、喜ぶどころか、返ってきた言葉が
「厄介な駅に行ってしまった感じ」

カチッ(スイッチオンの音)。
「あんたがこの厄介をやらかしたんだろーがーーーーー!!!!!」

というわけで、帰りに引き取りに行きましたとさ。

皆様、春です。桜の開花も間もなくです。社内に御忘れ物のないように。

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2019年03月14日

インフルエンザ

卒業式シーズンの今頃、水上小学校ではインフルエンザが蔓延し始めた。
ご多分に漏れず、娘もAをゲット。

一番近い町医者に行く。医師はおじいちゃん先生。水上地区に1軒しかない、町民に寄り添った病院だ。
以前はタミフルが特効薬だったが、今では1錠その場で服用するだけの新薬を処方してもらった。
「ここにも新薬があるんだ」
隊長と二人で少々驚いたものの、お蔭で娘の熱も翌日は引いた。

が、今度は私の体調に異変が!朝から脚や喉が痛く、頭がボーッとする。熱を測ると37.5。ありゃ、そこそこある。娘と同じ症状だし、熱の出方も同じ。うん、間違いない。インフルエンザAだ。

そう思って急いでおじいちゃん先生の病院へ。
「昨日、こどもがインフルでここにお世話になりました。私も映ったかもしれません。今朝から熱が出てるんです」
「インフルエンザってのは発熱してから24時間しないと反応しないよ。反応しないと薬出せないよ」と先生。
「でも、娘がキャリアなんだから間違いないですよぉ。絶対に陽性反応が出ます!」と胸を張って言い切ってみる。

結果、陰性。

先日よりワイドショーを賑わせている某俳優のコカイン使用は24時間で反応が消えるそうだ。なのに、なぜインフルエンザは24時間待たなくちゃいけないのよ!?インフルエンザの方が早急な対処が必要な人の方が世の中には数千倍いるはずだ!

「悔しいので夕方に来ます」と言って帰宅。もう立っていられない。布団に横たわる。
夕方、「そろそろ病院が閉まる時間だから、行っとく?」と隊長。
熱を測ると38.5度。ほ~ら、上がってきた。ともかく1錠で治る薬がほしい!
隊長に車を出してもらい、満を持しておじいちゃん先生のところへ。

受付窓口のお姉さんも面倒がらずににこやかに対応。診察室に入ると、おばあちゃん看護師さん(この人が、また優しいおばあちゃんなのだ)が「いらっしゃい」と言わんばかりに受け入れてくれる。

24時間以降だと言うのに、それ以前に足を運んで検査を受ける面倒な患者を嫌がらず、受け入れてくれるのは有難い。しかも、この患者(つまり私)、絶対にインフルだといって聞かないもの、まったく手間がかかる。

本日二度目のインフル検査。
陰性。

「いやいや、絶対にインフルですって!おっかしいなぁ~~~」
どうしても結果に納得がいかない。

「解熱剤出そうか?」とおじいちゃん先生。
「いえ。悔しいから明日、また来ます」

待合室で待っていた隊長は、私が首を横に振ったのを観てゲラゲラ笑いやがる。
ふん!
「I’ll be back」

その晩、熱は38.3度。よい具合に体がウイルスと闘っていた。
熱のせいか、頭痛がする。越えなくては。明日の朝には薬が飲める。痛みの中、一晩じっと耐えた。

そして翌朝、熱を測ったら37.3度。ん?熱、収まりつつある?あかん、あかん。新薬もらって速攻で治すんだもん。今、おちついたらあかんよ。

発熱してからしっかり24時間待った。午前中の診察が終わるギリギリ時間におじいちゃん先生のもとへ。病院はもう待っている患者さんはいなかった。
「一晩経ったね。出るかな」

三回目のインフル検査。

先生はそういって長い綿棒を鼻にググ~~~~。三回目だけど、やっぱり慣れないな、これ。液体に浸け、それを反応器材に置く。

反応が出るのに5分待たなくてはいけない。
他にはもう患者さんがいないから、別室でも待つ必要もなく、おじいちゃん先生と無言の5分。なんか気の利いた世間話でも・・・と思った時、暇を持て余したのか、先生は聴診器を耳にあてて「あ~ あ~」ってやりだした。これ、志村けんのコントで観たことあるけど、お医者さんって本当にやるんだ、としばし感動。

ふと検査器に目をやるとAの箇所にうっすら反応が!
「あ!!出てます、出てます!!」と、つい小躍り。
「これ、移動中ね。まだ5分経ってないよ」

移動中ってのは何なだろう?
インフルが「Aにしよっかな~ Bにしよっかな~」って、ココ壱カレーにしようか、吉野家牛丼にしようか迷っているようなもんなん???

結果、陰性。

「こりゃ風邪だね。お薬、出そうか?」
「・・・・。もう大丈夫です。・・・お薬要りません」

待合室にいた隊長は、ことの流れを把握していたようでゲラゲラ笑っていた。

けど、絶対にインフルエンザだったに違いない。
まぁ結果的に良かったのだろうが、なんだか悔しさが残る。

というわけで、今はお熱も下がり、食欲も出てきました。
明日、娘の治癒証明書を取りに行きます。そのとき、もし熱が出てたら、また検査してね。
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2019年01月25日

宝にするか、ガラクタにするか

少し前に目にしたニュース。
こちらは小学校2年生の算数のテスト。不正解の算数の回答の理由が難問すぎる、というので話題になっている。

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三角や四角形の描図が不正解。
不正解の理由は「線がずれているから」と「直角記号がないから」であった。ちなみに小学校2年生は「直角記号」はまだ習っていないらしい。

ぱっと見は正解とも思えるが、よほど厳格に正確性を要するテストだったのだろう。しかも未習内容がテストに出るとなれば、かなり前を行く学校とも見える。相当な進学校なのだろうか。不器用な私が、小学校2年生の時にこの先生に当たっていたら、かなり辛かっただろうなぁ。

もしかすると、この先生はテスト前に「線が少しでもずれたら、それは四角形でも三角形でもありません」と説明したのかもしれない。
でも、もしこの生徒が私くらい不器用であって、それでも精いっぱい丁寧に描いた図だとしたら?
先生はそこを評価してくれるだろうか。それとも厳粛な結果のみを評価するだろうか。

結果は大切だ。それは目標ともいえる。勉強であれ、スポーツであれ、仕事であれ、みんな目標(結果)に向かっている。ゆえに正しく描画すること、つまり結果はそれまでの集大成である。

しかし、本番でどうにもうまくいかない事もある。間違える時だってある。
ならば、せめても努力を評価する人が近くに一人いたとしたら…。どこが違って、どう正していけばいいのかを一緒に考えて、一緒に練習すれば…。
この生徒はきっと次は線をはみ出さずに図形を描くことができるだろう。

間違いは宝である。放っておけばカラクタになる。
間違いからたくさんの学びや気づきがある。奮起する糧でもある。そして、そこを正していく過程で絆や信頼が生まれることもある。言うなれば、子どもの間違いは、本人だけではなく、周囲の大人、特に親や教師にとっても宝である。宝にするかガラクタにするかは、大人次第でもある。

私もいくつかの宝をガラクタにしてしまった。間違いに気付いても、そこから逃げた。あの時、やってしまった間違いに目を背けなければ、もっと大切な友情が生まれていたのかもしれない。もっと信頼関係が築き上げられていたのかもしれない。もっと心の豊かな人になっていたかもしれない。

今からでも遅くない。自分がやってしまった間違いにひとつひとつ向き合い、反省し、ガラクタを宝に変えていこう。やがて娘にちゃんと渡せるように。



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2019年01月17日

まわるまわるよ、時代はまわる

来年度、イーストウインドには3人の若者がトレーニング生として入団する。それぞれが安定した職を持っているにも関わらず、どうしてもアドベンチャーレースをやりたいという熱い気持ちが煮えたぎったと言う。いいねぇ、その熱き血潮!

彼らは20代。私は実に彼らの親世代になる。
20代の頃は「新人類」と言われた私たちが親となるのだ。バブル全盛期、売り手市場だった新人類社会も、いまや景気回復もぐらつき、大手企業も経営を彷徨う時代。そんな時代だからこそ、安定した職業に就くのは、ある意味「勝ち組」(って言葉もすでに古いけど)なのかもしれない。

もしうちの娘が成人だとして、「どうしてもやりたい」と安定職を投げ捨ててまで身を投じる不安定な未来に向かうと言い出したら?

「やめておきなさい」「生活ができない」「収入なければオシャレするどころか、服も買えない」「貯金もできない」「旅行もできない」などなど。

う~ん、どんな事を言ったところで隊長と私じゃ説得力に欠けるなぁ。

まぁ、生きていくにはどうにかなるか。ならば、やりたいことをやりなさい。それが人様に喜んでもらえる事なら尚よし。若いうちは苦労をすることも特権だ。
と、言うような気がする。

「すべてを擲ってでもやりたいこと」が見つかるのは、本当はすごく幸せなことかもしれない。たとえそれが周囲に理解されず、誰が見ても「こっち方が絶対に得なのに」と思われても、それでも「これだ!」と思うことに巡り合えるのは、何百分の一の巡りあわせなのかもしれない。

私たち大人は自分の経験で物事を判断してしまいがちだ。もちろん経験に基づく判断はとても大切で、おそらく9割が正しい。そうやって私たちは先人の知恵を継承して安全に暮らしている。

しかし時代は変わる。環境も変わる。
バブリーでやりたい放題ではあった一方で、自分の足でその場に行き、直接人と会い、自分の目で物を観てきた私らの青年時代。
今は動かなくても端末を通して知らない人とチャットし、クリックひとつで欲しい物が手に入る。小さな端末の中に人も物も情報も選択肢が無限に詰まっている。

いうなれば自分の生き方も選択できる。良くも悪くも自分の気持ち次第で動ける時代なのだ。
こうして私たちは先人の知恵をその時の環境に適合させていきながら、生まれた時代を生きていく。

今私たちが経験していることも、やがては「先人の知恵」の一部となるのだろう。その中で、苦労から生まれてくる知恵はもっとも貴重な財産となる。

だから、娘よ。やればいい。苦労しながらも、尊い巡りあわせに感謝し、突き進むがいい。

私たち大人は若者たちにその機会を与えよう。「こうしなさい」と指示や命令するのではなく、道を間違えないように、人を傷つけないように、良い方向に導きながら、穏やかに見守っていこう。
その先にあるものが何かは、若者自身が発見し、意味を学んでいくだろう。大人が教えなくとも、自身が掴んでいくだろう。


そんな事を想う中、相方の「パワハラ上等!」男は、今日も除雪車に対抗し、パワハラ全開で雪掻きしております。



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2018年08月31日

暴力的指導

先日、実家に帰省した時に久しぶりに弟と酌み交わしながら、小・中学校の頃の話になった。

いい悪いは別として、私たちが子供のころは、暴力指導は当たり前にあった。特に力を入れている運動部のコーチや顧問教員は、弛んでいる(と思われた)生徒を張り倒している光景をよく目にした。

私も竹刀みたいなので叩かれた覚えがある。たしか、掃除をさぼって遊んでたとか、宿題を忘れたとか、そんな理由だったように思う。私ら生徒は文句言わず、痛みに耐えてたっけ。自分らが悪いというのを分かっていたし、叩かれるのは許される時代であった。

しかし、不思議なことに暴力を振るった先生の記憶はあまりない。確かに「よく殴ってたなぁ」とは思うものの、その程度の記憶だけだ。

それよりも、言葉や態度で傷をつけてきた先生の方がずっと記憶に残っている。

話は中学生のころ。そもそも運動が得意でもないのに、なぜだか私はバスケットボール部に入部した。いまだ、どうしてそれを選んだのか、まったく分からないし、覚えてもいない。かっこいい先輩がいたとか、仲良しの友達がいたとか、そんな記憶もない。
いつもの「なんとなく」だったのかもしれない。
面白いくらいに運動できないから、当然オミソ。3年間続けていたことすら不思議だ。

そんなバスケ部生活で3年生最後の活動は試合だった。うちの学校は負けていた。勝負は見えていた。最後の試合だし、それならと、顧問の先生は3年生を順番に試合に出した。

私以外の3年生全員を。

勝てる試合であれば理解できる。しかし、どうあがいても残りの時間に勝てる見込みはなかった。
その先生は意図としてそうしたのかもしれない。私を嫌いだったのかもしれない。私の存在を忘れたのかもしれない。いずれにせよ私はそこに居ながらも「いない存在」になった。

その先生とはその後一言も口をきいてない。卒業する日まで顔を見ないようにしていた。見れば「存在しない自分」が映し出されるから。

あれから30年以上も経つ。しかし、その顧問のことは今でも強烈に覚えている。憎しみとか悔しさとかではなく、ただ深い哀しみの記憶として。



さて、最近、新体操界でコーチによる暴力行為が話題になっている。

オリンピック有力候補の選手にコーチが暴力を振ったとか。暴力指導に賛同するわけではないが、熱が入るあまりつい手がでてしまったと思えば、わからなくもない。
未成年のその選手は、それでもそのコーチに指導を乞い、しかも擁護するくらいだから、愛情あっての行き過ぎた加熱指導だったとも思える。
一方で、その選手の話によれば、暴力を振るったコーチより、言葉で圧力をかけてきた強化担当者の方がパワハラ行為だとか。その強化担当者も言い分があるようだから、この件はしばらくは平行線だろう。


ただ大人として覚えておきたい。
言葉の暴力は、肉体の暴力と同じくらい、いや、ひょっとしたらそれ以上に子どもに傷を残すことになるかもしれない。私の心にいまだに哀しみの傷が残っているように。

「あなた(子ども)のためだから」は、本当に子どものためなのか。自分のためではないのか。何のための指導なのか。何のための教育なのか。体裁ではないか。見栄えではないか。その場の感情ではないか。

隊長も、いまや指導する側である。
某番組ではパワハラ全開キャラとされているが、殴り指導は後にも先にも陽希の1回きりだ(たぶん)。それまでの陽希の言動に業を煮やした隊長が「今からお前を殴る。歯を食いしばれ」と言ったら、陽希も陽希で「お願いします!」と直立不動になったと言う。わかっていたのだ、彼自身がやってしまった失態を。

あの二人には、師弟関係を越えた何とも強い絆を感じる。だからそんな行為ですら、安心感もあり、他人には入れないものがある(クラッチは慌てて止めに入ったけど)。
そんな揺るぎない師弟関係って、なんだか羨ましい。

あ、でも暴力はいけません。言葉の暴力もいけません。態度の暴力もダメです。

隊長のパワハラ発言は番組構成上のこと(だと思う)。そもそもアドベンチャーレースは信頼関係なくしてゴールできない。彼ら4人は、互いに敬意を払い、互いを支えあい、互いを信頼しているからこそ、あの過酷な状況を切り抜けることができたのだ。


だから私も娘には優しくします。できたことは褒めていきます。
隊長のレース後の洗濯物をトイレ便座シートと一緒に洗うのもやめます。
態度、改めます。





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2018年08月05日

素直に「ごめんなさい」と言っていますか?

異常な暑さの今夏。これまでクーラーは不要だった我が家。いよいよ購入を考える時がきた(こうして考えている間に秋がやってくるわけだけど)。

我慢しようと思えば我慢できるが、扇風機の風も生暖かく、嫌な温度で肌に絡みつく。う~むイライラする。

夏休み中の娘も、宿題しながらこの暑さに苛立つ。
いつもより長い時間一緒にいると、些細なことが気になり、つい口が出てしまう。この暑さが余分なストレスをもたらしているのは間違いない。

その言い争いは、ほんとに些細なことで始まる。だから、すぐに「ごめんなさい」と言えば終わる。しかし、その一言が出てこない。
「ありがとう」は言い易いが、「ごめんなさい」はなぜか言い難い。

自分が間違っていると薄々わかっていても、一所懸命に言い訳を探して、さも正しいのだと主張する。私たちは、そんなことばかりが得意になってきていて、素直に「ごめんなさい」と言えなくなってきている。

「どうしてそんなことをしたのか?」
この質問は言い訳を引き出している。

たとえば宿題を忘れた子どもにとって「どうして忘れたのか?」に深い理由はあまりない。しかも、忘れたことを責めているのであり、その理由なんてどうでもいい。当然、聞いたところで納得のいく回答はまず得られない。つまり、ハナから納得のいく回答を得ようなどと思ってない質問なのだ。

そもそも私が「ごめんなさい」と言えないんだから、娘だって言えるわけがない。結局、素直に謝る姿勢を娘に見せてないのだ。逆に娘に「お母さんだって・・・・」と責められることがある。こうなったら引くに引けない。


「正しいのは自分、悪いのは相手」
その考え方は人間だけだろうか。
相手の指摘に対してカチンとくるという事は、的を射ているという事。的を射ているからこそ、カバーを掛けて隠しておきたい。人は自分自身を守るため、言い訳で武装する。指摘を素直に受け入れることは、思った以上に難しいのだ。


問題となった某大学アメフト監督にせよ、言動がおかしいということは自分自身が一番分かっているはず。
自分がおかしいと思うことは素直に認めて「ごめんなさい」と言えるようになれば、世の中のヘンテコなパワハラはずいぶんと減少すると思うのだが。
なぜかプライドがそれを邪魔する。
やがては、そのプライドによってすべてを失うことを、その時気が付いていたら・・・。


自然と言い訳を探していないだろうか?
悪いと思ったことに対して素直に謝っているだろうか?



さて、5月に参戦したExpedition Africa(南アフリカ)のレースが間もなくテレビで放送される。今回も過酷な環境の中で、余分すぎるストレスに襲われながら、チームや自分自身と向き合って進む姿が映し出される。

どの国のどの選手も素直に受け入れることの難しさと戦いながら、このレースに挑んでいる。そして、その戦いは人を成長させる。そんな成長ぶりもひとつの見どころとして、ぜひ楽しんでほしい。


『クレイジージャーニー ゴールデンSP』
8月8日(水) 夜9時~
TBS系列にて全国放送


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2018年05月22日

Expedition Africa 2018

南アフリカのケープタウンで開催されているアドベンチャーレース「Expedition Africa」。イーストウインドはそのレースに出場し、今、まさに苦闘の真最中である。

この大会に出場するにあたり、海外レースが初めてなのはもちろん、国内のレースも出場経験もほとんどない安田光輝(キラリン)と米元瑛(ヨネ)を起用。
ここに紅一点の西井万智子(マチマチ)。今回はマチマチにリーダーを任せた。イーストウインド始まって初の隊長以外のキャプテンである。

実は今大会のメンバー編成にあたり、隊長と幾度も幾度も相談をした。

キラリンは昨年からトレーニング生としてカッパクラブにやってきた。正直、器用ではないが、真面目にコツコツと積み上げていくタイプだ。学生時代は山岳部だったキラリンだが、川の事は未経験。アドベンチャーレースをやりたくて、勤務していた会社を辞め、イチからリバーガイドの修行を始めた。海外レースに出るにはまだスキルが完全ではない。しかし、ともかくひた向きに頑張る。未来に向かって一所懸命だ。こういう青年はきっと伸びる。信頼もされる。

ヨネは今年4月に仕事を辞めてカッパクラブにやってきた。子どもの時からアドベンチャーレースで世界の舞台に立つことが夢だった。学生時代はレースラフティングをやっていたこともあり、川に関してはキラリンよりも経験がある。彼のことを何も知らない私たちにとっても、イチカバチカだ。面接に来た日に「5月に南アフリカのレースに行くから」と伝えた。子どもの頃の夢が目の前にある。驚いていたが、気合も入った。そこから一カ月半、日々トレーニングに励んだ。

そして今年4月にトレーニング生を卒業したマチマチ。初めて海外レースに出たときは自転車に乗りながら泣いていた。そこから幾度もレース経験を重ね、体力もメンタルもずいぶん強くなった。隊長から「今回はマチマチをリーダーにしたいと思う」と言われた時、少し驚いたが大賛成をした。最初は受け身だったが、今では積極性が出たマチマチ。リーダーとして人を引っ張る役割を担うことは、彼女を確固たるものへと導くはずだ。

今回、マチマチもキラリンもヨネも20代。そしてマチマチ以外はレース経験が皆無に等しい。しかし、誰でも「初めて」はある。タイミングを計っていたら、彼らにとっての好機を逃すかもしれない。彼らにチャンスをあげたい。


隊長は、アドベンチャーレースに出会い、熱意があれば人を動かすことができるという事を学んだ。今の科学を駆使してもコントロールできない自然の偉大さ・素晴らしさ・脅威を学んだ。エゴがむき出しになる人間関係から本当の自分・仲間との絆が生まれる瞬間を学んだ。今度はそれを伝えていく(その機会を与える)番だ。

隊長はよく言っている。
「アドベンチャーレースを始めた頃は体力や技術があれば勝てると思った。だから人一倍トレーニングをした。荒れた海にカヤックで出ても技術があれば乗り越えられると思った。でも体力があった最初の頃の方がリタイヤが多かった。
わかってなかった、自然の法則に従うことが大切だったってことを。
自然の力を利用していけるようになったらリタイヤしなくなった」

20代の3人もこれが解るには、もう少し時間がかかるかもしれない。時には痛い目に遭うこともあるだろう。今がまさにそのチャンスである。

大会は今日で3日目を迎える。他のチームもここまで不眠不休で進んでいる。そろそろ疲れが出てくる頃だ。そして一番厄介な睡魔とエゴが出始める。同じ年頃であれば互いに意見をぶつけやすい。ここからだよ、キミたちが最も尊い事を学ぶのは。

一回り大きくなって帰ってくることを期待している。

だから、がんばれ! 超がんばれ!!


posted by Sue at 11:18| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする