2015年03月30日

ナビゲーション講習会に想うこと

先日、ナビゲーション講習会を開催した。不定期ではあるが、隊長とナビゲーション(地図読み)講習会を始めて10余年になる。

とは言っても、私は事務作業担当ゆえ、当日はバタバタして講習をしっかり聴いたことはない。だから地図読みを私自身がどこまで理解しているかもよくわからない。それでも「継続は力なり」とはよく言ったもので、10年も関わっていると、ぼんやりと地図が解るようになってくる。そんなこともあり、数年前から娘とオリエンテーリングの大会に出場するようになった。結果はとても人に言えたものではないが、山中でフラッグ(目的地)を探す行程を楽しむことができるようになった。

さて、私は、隊長の講習を聞く度、ナビゲーションは人生に似ていると思うのである。

地図読みに正しい方法はない。そもそも地図が完全というわけではない。所詮、人が作成したものである。海外のアドベンチャーレースでは40年も前の地図が配布されることがある。いくら自然の中とは言え、現状とは異なる。当時はなかったであろう路も、今では獣や人が踏み慣らしたことで小径ができていたり、地磁気も永年変化している。地図は必需品ではあるが、最終的には自分のナビゲーションスキルが頼りになる。

人の生き方に正しい方法はない。社会のルールは守らねばならないが、それ以外の基準は個々の道徳意識に任せられる。与えられた環境(地図)に沿って歩いていても、その地図が決して正しいとは限らない。しかし環境(地図)は変えられない。自分の観点で地図の見方を変えるしかない。環境はひとつの指針ではあるが、結局は自身の意識が頼りになる。



アドベンチャーレースでは、必ず決まったチェックポイント(CP)を通過しなくてはならない。しかし特別規制がない限りCPとCPの間はどこを通っても良い。ルールはひとつ、必ずチームで行動すること。あるピークにCPがあるとすると、かなりの回り道としても安全な登山道を行く方法もあるし、距離は短いが濃い藪を突き抜ける方法もある。どちらを行くかはチームの選択だ。

時には選択を誤ることもある。あるはずの登山道が途中で消えていたり、反対に増えていたり。背丈の低い藪ルートも実はトゲだらけの植生であったり。

そんな想定外の時に発生するのがチーム内の不協和音である。

数時間ならまだしも、下手をすると丸一日も迷い続けることになる。その時のナビゲーターの焦りはいかほどのものか。自分のナビゲーション・ミスで長時間ロスし、チームメンバーに余計な体力を使わせている。プレッシャーが自責の念に変わる。やがてメンバーが苛立ち始める。

地図読みをしないメンバーも、ナビゲーターに任せているからと自覚しているうちはまだいい。しかし丸一日無駄に歩き続ければ、それが不満へと変わるのは当然。本当にそのルートチョイスは合っているのか?あとどのくらい進めばいいのか?いつ果てるのかもわからない山中をさまよい続けていると、ナビゲーターへの疑心、蓄積する疲労、そして他チームに対する焦りが重なり、ナビゲーターを責める事も少なくない。

「あの人がこういったから」。人の指図通りに行動するのは、案外、簡単なのかもしれない。しかし、それが思っていた方向と違ってきた時、不安と疑心が生じる。やがて完全に藪の中(困難極める状態)に入ってしまった時、「あの人」の責任にする。人が言った事を選択するもしないも自分自身であったはずなのだが、それを忘れて、人の責任にすることで自分を正当化する。もっともラクで、もっとも卑怯だ。結局、人は変わらない。環境も変わらない。変えられるのは自分自身だけなのだ。



「アドベンチャーレースでは、地図が読める方が断然面白い」と隊長は言う。ナビゲーターは、どのくらいで次のCPなのか、どこをどう行ったら負担が少ないのかなど、戦略が立てられる。しかし地図読みができなければ、ただついていくだけになる。それはアドベンチャーレースの楽しさを半減してしまうことになる。

後で人のせいにするくらいなら、最初から自分で地図を読んで、進むべき道を選び、自己責任を持って進んだ方が楽しいのかもしれない。その方が人生(アドベンチャーレース)の醍醐味を味わえるとも思うのだ。



コンパスは少し角度を変えただけで、進行方角が大きく変わっていく。コンパスの指す方向を見誤ると、取り返しのつかない事になりかねない。間違えた方角にどんどん進めば、やがて正規ルートから大きく離れてしまうことになる。尾根にいくはずが沢に落ちていってしまった、という話はよく耳にする。隊長は言う「間違ったルートに入っているのに、不思議と辺りの地形が地図通りに見えてくる。人は思い込みをする。これがとても怖い」。

私たちは、時に自分の進むべき方角を見誤る時がある。欲が絡めば尚更だ。ほんの数度、欲の方向に向いて歩き出せば、やがて欲の谷に陥り、取り返しのつかないことになりかねない。早期発見、方向修正が必要になるが、ひとつ欲が満たされれば自分の位置が正しいと思い込んでしまう。



アドベンチャーレースはゴールを目指す。CPはその過程である。しかしその過程をひとつでも飛ばすと、ゴールは成立しない。時にCPへのルートは極端に難易度が高かったり、地図と異なる場所に設置されていることもある(レースを主催しているのも、これまた人間。完璧ではない)。それでもCPは避けて通れない。そんな時こそ、支えとなるがチームメイトだ。励まし合い、信じ合えば、たどり着けないCPはない。

人生もゴールに行くには、困難なCPを通過しなくてはいけない時がある。どんなに遠回りしようと、そこは決して避けては通れない場所なのだ。だから進むしかない。しかし一人じゃない。絶対に心励ます人がいる。仲間がいる。



ならば私自身の向いている方向は正しいのだろうか?ペース配分は大丈夫なのか?ゴールまでどうやって行けばいいのだろう?

今はまだ自分のゴールに何があるか解らない。ただ、今、目の前にある「通るべきCP」に向かって、コンパスを合わせ、ブレないように進もうと思う。



ナビゲーションの醍醐味は自分自身で進路を決めるところだろう。人に頼っていては、自分の本来の夢を見失う。自分の中に在る地図とコンパスで、夢の方向に整置したなら、あとはそこに向かって突き進めばいい。


ONE PIECE・ルフィーのセリフを思い出す。
「宝がどこにあるかなんて聞きたくねぇ!宝があるかないかだって聞きたくねぇ!
何もわかんねぇけどみんなそうやって命懸けで海へ出てんだよっ!
ここでおっさんから何か教えて貰うんならおれは海賊やめる。
つまらねぇ冒険ならおれはしねぇ!!!」


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posted by Sue at 22:24| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月15日

巨大な宇宙の中のちっぽけな生命

娘の誕生祝いに、彼女のたっての願いであった少年科学館に行ってきた。そこでMitaka(天文学の様々な観測データや理論的モデルを見るためのソフトウェア)を使った天体解説があった。

科学はもとより、天文学などさっぱり興味がなかったが、娘に「いろんなことを知ると人生がより楽しくなる」と言っている建前上、「お母さんは星に興味ない」とは口が裂けても言えない。しかも観光協会主催『星の鑑賞会』のスタッフでもあるし(何か町に貢献しようと始めたのだが、星の説明など一切できず)、せっかくの機会だからと足を向けてみた。

子どもの頃に観たプラネタリウムは、すっかり忘れている。この数年、空を見上げる事がなくなった。ギリシャ神話も今の生活とはリンクしない。星の鑑賞会も誘導専門。だからだろうか、Mitakaはとても新鮮だった。

さほど大きくもないスクリーンに向かって、Mitakaは太陽を中心に地球を映し出した。そして月と地球の公転を映し出した。月と地球は、共通重心をまわりあう運動により、互いに重力や慣性の力の影響を受け合い続けている。その影響力は月に近い場所ほど強く、海水が月方向へ引き寄せられて海面が隆起したのが満潮であり、月の影響は私たちの目で見ることができる。

そして木星、土星…と次々に惑星が現れ、そして銀河、宇宙へと、Mitakaが映し出す画は、どんどんと広がっていく。地球の近傍だけでもすでに300個を超える系外惑星があり、太陽系が属している銀河系には、2,000億個もの恒星がある。さらに宇宙にはこのような銀河が数億個以上ある。もはや地球がどこにあるのかも分からない。この画の中のどこかにあるのは間違いないが、あまりにも小さくて判らない。

そのどこにあるかも判らない小さな小さな地球での最初の生命と言われるバクテリアは、太陽光で光合成を行い、大気中に含まれる二酸化炭素と水を使って、有機物や酸素を発生した。そして10億年間に爆発的に繁栄し、地球には酸素がたくさん蓄積されていき、酸素呼吸をする生物の生存を可能にする地球の環境が整っていった。

専門的なことはさて置き、宇宙の中心に太陽があり、その太陽によって私たちは創られた。とてつもなく大きな宇宙が、見えないくらい小さな私たち一人一人が生きていく上で必要なものを創り出した。宇宙において、私たちはあまりにも小さくて、弱々しい。それでも日々笑い、眠り、学び、成長し、老い、哀しみ、憎しみ、そして時に殺し合う。宇宙が与えてくれた命を、あまりにも簡単に。

ビックバンにより宇宙が生まれ、銀河系が生まれ、太陽系が生まれ、地球が生まれた。太陽が中心ならば、地球は常に脇にいる。そして太陽から生きる環境をもらっている。そんな脇にいる地球で人が生まれることは奇跡なのかもしれない。宇宙から見たらちっぽけな生命かもしれないが、それでも生命の誕生ほど尊いものはない。そんな尊い生命を傷つけることなど決して許されるものではない。

このいがみ合いが、どれほど小さいことか。この欲望が、どれほど小さいことか。中心でいたいことが、どれほど小さいことか。

宇宙が誕生して137億年と言われている(実際にはもっともっと前らしい)。それと比べたら、地球にいる私たち人間の寿命はたかが知れている。わざわざ殺し合わなくても、やがては寿命が尽きる。憎み合わなくても、やがては生を終える。

ならば、そんなわずかな期間くらい、せめても笑い合い、語り合い、労わり合い、譲り合い、支え合って生きてみたらどうだろう。

とてつもなく巨大な宇宙を映しだしたMitakaを観た後、隣にいる7歳の誕生日を迎えた娘に目をやると、なぜだか突然、『男はつらいよ』の寅さんのセリフを思い出した。

「俺には、むずかしいことはよく分からないけどね、あんたが幸せになってくれりゃいいと思ってるよ」


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posted by Sue at 09:30| Comment(0) | 干物女の行水 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする