2019年11月17日

子どもの頃に学ぶこと

先日、小学校6年生の娘の授業参観に行ってきた。

授業参観の内容は音楽で、先生が歌の脈絡や強弱を説明。「ここはどんな風に歌う?」という先生の質問に「優しく」「強く」「スムーズに」と子どもたちから思い思いの意見が出る。ひとつずつイメージして歌い、どれが一番いいかを決め、最後はそれを全員で歌う(発表する)という流れ。

6年生ともなると、恥ずかしさや声変わりが始まり、人前で歌を唄うことに抵抗感があるように思うのだが、娘のクラスはまったくそれがない。驚くぐらい大きな声でしっかり歌う。中には声変わりで低い音を出してしまう男の子もいるが、まったく気にせずに大きな声で唄う。しかも、とても楽しそうに。聞いている方もハッピーな気分になる。

参観後の保護者会で担任の先生がおっしゃった言葉が印象に残る。
「今まで何年も音楽を教えてきましたが(担任の先生は音楽専門)、こんなに声が出るクラスは初めてです。すごく上手で、少し語弊があるかもしれませんが、いい意味で恥ずかしさがないんです。とても『音』を楽しむことができる子たちです。だから今日は、そんな素晴らしい歌を聞いてほしくて授業参観に音楽を選びました」

隊長は音楽が苦手だ。彼は決して人前で唄わない。知り合ってから20年以上経つが、彼の歌はいまだに聞いたことがない。

「徳(あきら)のクラスがみんなの前で大きな声で歌が唄えるのは、お互いを信用しているからだよ。だから恥ずかしくないんだよ。
僕が小学生の時、僕のあまりの音痴さに先生が笑ったんだ。その時から僕は人前で歌を唄わなくなった。
徳のクラスはみんな仲がいいんだよ。だから声が出せるんだよ」

ありがたいことに、娘の学年(22人)は、保育園からこの年まで、いわゆる陰険なイジメの話しを聞いたことはない。もちろんケンカはある。チョッカイを出す子だっている。合う・合わないもあるし、好き・嫌いも出てくる。それは集団生活においてあって当たり前だし、そこから学ぶものだってある。それでも声をしっかり出して歌えるのは『信用』がベースにあり、その信用は互いの事をきちんと理解していることから成り立つ。

子どもらのそれは『相互理解』などという堅苦しいものじゃなく、もっとやわらかい感性で自分と違う人を受け止めているようにも思う。

小さい頃にこういったことを経験できるってすごいこと。これから競争社会の中に放り込まれ、あらゆる物事に優劣がつく事を目の当たりするだろう。小学校では計算や漢字を学ぶことは基本だが、それ以上に学ぶべき大切なことの基盤が幼少期からしっかりできていれば、本当の意味での未来を任せられる人になる。

大人になると知恵が付き、表には裏があることを知り、社会の仕組みが解るようになり、些細な見栄を張るようになる。更には自分と考えが異なる人は劣とみなす。平気で陰口を言い、自分が正しいと主張し、相手を責める。

この感覚が子どもらにパスされるから怖い。子どもは互いの違いを理解しているのに、親はそれを異種とする。親の言うことが正しいと思うと『異種』はやがて『ダメな人』となる。その子の話を聞いていれば、お家で(親が)話していることが露骨に見えてくる。


「お友達とは仲良くしなさい」
そんなことを涼しい顔で言う癖に、自分は仲良くしようとしない。せめても黙っていればいいものを口に出てしまうから始末が悪い。子どもは混乱するだけだ。
大人は『異種』と撥ねつけようとも、子ども同士の『理解』という感性を挫くようなことはしてはいけない。

自分の幼少期にもあったであろう『異なる事への理解』。親となった今こそ必要だということを思い起こさせてくれる授業参観であった。
posted by Sue at 16:28| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年11月08日

毒親のデトックス

最近よく目にする「毒親」。過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに支配したり、自分を優先して子どもを構わなかったりする親のことを言う。

毒親と言われる人たちは、自分に悪いことをしている意識はなく、我が子を思って、我が子をちゃんと、正しく、良い子に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう場合が多いという。

私は感情的になることが多い。映画や本でもすぐに泣いちゃうし、人の話を聞くと簡単に同調して泣いたり怒ったりするし、褒められると調子に乗っちゃうし、妄想でゲラゲラ笑ってるし。

感情にドタバタな起伏がある。この厄介な感情の一番の被害者は娘である。特に娘を叱った後、猛省をする時がある。「あの言い方はまずかったかな」とか「怒りすぎたかな」とか。で、落ち込む。
さっきまで怒りまくってたのに、今はドヨ~ンと落ち込む姿に、娘は理解に苦しむだろう。反省するなら言わなきゃいいのに、その場になるとどうにもコントロールができなくなってしまう。う~ん、私は結構な毒親なのかもしれない。

自分のやっていることが絶対とは思わない。時には間違っている。この叱り方は間違っているとわかっても、一度噴火したらなかなか鎮火しない。

感情をコントロールするのは難しい。泣いて、笑って、怒って、そしてまた泣いて。そんなコロコロと変わる感情を、きっと周囲は扱いにくいだろう。「お母さん、今日は不機嫌だね」「お母さん、今日はご機嫌だね」なんて。家族が私に変な気遣いしていると思うと、またもや不機嫌になるもんだから、厄介だ。あ~それじゃダメじゃん。



毒親は家庭での子育てのみならず、社会組織でも然り。部下や後輩は子どもではないから、上司(先輩)は毒親とは言わないにしても、毒親の定義である「自分に悪いことをしている意識はなく、部下(後輩)を思って、部下(後輩)をちゃんと、正しく、良い部下(後輩)に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう」は当てはまることもある。

新入生は知らないのが当然。一度言えばわかるだろう?は、言い方による。一度言ってわからない場合は自分の言い方を見直した方がいい。

叱るだけなら親や上司(先輩)じゃなくてもいい。でも叱った先にあるもの、上司(先輩)ならば指導だったり指示だったり、親であれば導きであったり、正しい方向を教えてあげなければ、それこそ毒親になってしまう。

子どもは間違いをしながら成長する。部下(後輩)の失敗も必要悪なのだ。失敗して学んでいくもの。自分もやってきた。だから親や上司には、そんな失敗や間違いを包み込む余裕がほしい。

感情が激しいのは悪いことだとも思わない。喜怒哀楽が豊かの方が、のっぺらぼうな人生よりも楽しい。だから自分の気持ちを大切にする。感情も大切にする。それと同様に子どもの気持ちも大切にする。子どもの感情も大切にする。そうやってデトックスしていけたらいいな。

あ、でも鬼軍曹の言動は必要悪であり、デトックスはできないと、この場は解釈しておきたい。


posted by Sue at 18:12| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする