2020年06月21日

キャラ柱たち

中学校に進学した娘。新型コロナウイルスの感染拡大防止により2カ月間もの休校が余儀なくされたが、やっと分散登校が開始された。
学校の方針で置き勉(置き勉強道具の略語で、資料や教科書を学校に置いていくこと)はNGのため、毎回10~15㎏もの教科書にお弁当と水筒を背負い、1時間半かけて登校。どこかの山に遠征に行くのかと思うほどだ。それも徐々に慣れ、友達とおしゃべりしながら学校に行くのも楽しいらしい。

娘の学校は中高一貫で、県内全域から生徒が集まっている。分散登校となった今は、クラス内を半分にし、一日おきの授業となる。ゆえに、まだ半分のクラスメイトとしか会っていない。それでもすでにクラスメイトとは仲良くなり、毎日がとても楽しいと言う。
「個性的な子が多いクラス」と言う娘。他の子から見たら娘も個性的なんだろうけど。
登校も公共交通機関を使い、校内には時計もチャイムもないため、時間管理はすべて生徒の自主性に任せているため、早め早めに動く子、ギリギリまで動かない子、要領のいい子、真面目を絵に描いたような子・・・。娘にとって授業も出会う人たちすべても新鮮で、帰宅後はマシンガントークで学校であったことを話す。

あるとき、クラスメイトがどれほど個性的かという話をしていたので、ふと気になって聞いてみた。
「個性が豊かであるということは、それだけ性格が合わない子もいるということ?」
これに対し、娘はぴしゃりと言った。
「性格が合うとか合わないとか、そういう次元じゃなくて、すべての子がキャラ立ちしてるってことだよ。鬼滅の刃で言う『柱』だよ。それぞれの個性を『柱』とするから、みんながそれを認めてるんだよ」

「も~〇〇ちゃんは、真面目なんだからぁ(笑) 真面目ゆえに宿題を教えて~~~~」と、キャラを認め、受け入れ、敬っている。決して非難するののではなく、愛おしく思っているのだ。
だのに私は人間関係は複雑なものだと決め込んでいた。なんという愚かな質問をしてしまったのだろう。


先日、プロ野球楽天のオコエ瑠偉選手がツイッターで、保育園で先生が「醜いアヒルの子」の絵本を読んでいると、他の園児が自分を見ながら笑っていたという経験に触れ、「俺が周りとは違うと初めて認識させられた出来事だった」と明かした。 親の似顔絵を描く際に、だいだい色をした「肌色」のクレヨンしかなかったのが悔しくて、涙ながらに茶色のクレヨンで描いたという。
「家のベランダから外を眺めながら、ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかなとか、考えてた」という。幼い子供がそこまで追いつめられることがあっていいのだろうか。
小学生以降も、上級生に肌の色をあざ笑われたり、「外人なんて高校野球で使うんじゃ無いだの、甲子園には黒人はでるな」という心無い言葉を浴びせられたりしたと言う。

今でこそ人種の異なる人たちは多く見るが、当時の日本はまだ少なかったのかもしれない。だからだろうか、自分らと違うことを嫌うようにも見える。
自分らと考えが違う人、好みが違う人、やり方が違う人、服のセンスが違う人、自分と違う生き方をしている人・・・なにかにつけて『違う人』を排除したがる。アメリカで黒人男性が白人警察官によって首を押さえつけられて死亡した事件も、根底にはそういった『違う人』を排除したがる意識があったのではないだろうか。


これから多くの『違う人』に出会うであろう中学校1年生の諸君。すべての人が『違う人』であり、その『違う人』が持つ違う部分こそが、自分にない素晴らしいものなのです。だから『違うこと』を受け入れて、むしろ評価してください。
「だって、みんながキャラ柱なんだよ」


posted by Sue at 14:31| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする