2022年01月21日

病気治しはクセ治し

新型コロナウイルスの第6波が猛威を振るっている。
噂ではオミクロン株とデルタ株が合併したデルタオミクロン株が発生したとか。まるで人類の抵抗をあざ笑うかのように、ウイルスはしたたかに爪を立て続ける。

現に新型コロナウイルス感染症は、持病のある人が重症化する割合が高いと言われている。
人間だれにでも弱点はある。そんな弱点を狙って、病原体、がん細胞、ウイルスなどは入り込んでくる。ウイルスも生きてゆくために必死ということか。


常々思う、このウイルスは人の心に巣食う悪魔に近いと。
悪魔は人の心の隙間、心の弱い部分に巧妙に入り込んで引っ掻き回す。悪口を言い、嘘をつき、いじめをし、盗みをし、暴力をふるい、いつしか他人の心を殺す。
そんな心の隙を狙っている悪魔たちは身近に存在する。

悪口は口から出る蛇である。その悪口を聞いている人の腹の中に入り込み、卵を産み付ける。聞き手の腹に入った卵は孵化し、蛇となり、また悪口という蛇となって他の人の腹に卵を繁殖させる。

嘘も然り。小さな嘘を隠すためにまた嘘を言う。嘘はどんどん大きくなり、やがて周囲から最も大切なもの『信頼』を失う。時間を掛けて築き上げた『信頼』も崩れるのは一瞬だ。

保健婦だった義母は東洋医学を重んじている。同居者全員がインフルエンザにかかっても、義母だけはなぜか罹患しない。当然、予防接種も受けたことがない。
その義母がよく言っていた。
「病気治しはクセ治し」
病気にかかることで、今までの悪い習慣を見直すきっかけになる。つまりは、悪い習慣を治せば、病気は防げるという理屈だ。

義母に言わせたら、弱点とはむしろ身体よりも心であり、習慣は心のクセなのかもしれない。クセとは恐ろしいもので、自分ではなかなか気が付かない。
いや、本当は気付いていても、「これくらいは大丈夫」と自分の都合のいいように解釈しているのかもしれない。

これはマザーテレサの言葉。
『思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。』


私たち人間は心のどこかに隙間を持っている。
その隙間から悪魔が侵入しないように心を強く持つクセをつけたい。

人類は新型コロナウイルスとまだしばらく戦っていくことになる。
これが終息したところで悪魔は再び新たな刺客を送り込んでくるだろう。
どうか心よ、強くあれ。

私にとって夫と晩酌しながら娘の本日話を聞くのが至福であり、この時間が永遠に続くようにと強く願い、改めて悪魔から家族を守ろうと心に刻むのであります。
posted by Sue at 17:17| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2022年01月06日

勘違いのススメ

あっという間の冬休みも終わり、今日から娘は登校。
昨晩、学校の準備をしている最中に不安を煽るような声が!!
「あ~、この宿題やってない! ってか、こんなのあるって知らんかった~。明日(登校時の電車内で)やろ~っと」
先延ばしを好まない私は畳みかける。
「今、やっておきなよ。まだ時間あるでしょ!」
「どうせ一時間は乗ってないといけないんだから、その時にやればいいよ」
誰に似たのか、呑気な子である。

私と娘の性格は正反対の部分が多い。
私は心配性、娘は呑気。
私は朝型、娘は夜型。
私は感情的、娘は理論的。
私はネガティブ思考、娘はポジティブ思考。
そして私の心は弱く、娘の心は強い。

先日、娘に「どうしてそんなにハートが強いの?」と聞いてみると、娘はこう返した。
「世の中にはね、強い人も弱い人もいないんだよ。いるのは"強いと勘違いしている人"だけ。そういう意味では、私は自分自身を強いと勘違いしているんだと思う。

でもね、本当の私は強くも弱くもない。ただ、自分を強いと勘違いしているから周囲もそう勘違いしている。お母さんも私が強いって勘違いしてるんだよ。
だからね、お母さんも勘違いすればいいんだよ。"自分はめっちゃ美人だ!"とか、"私って強い!"とか。そしたら周りは勝手についてくるからさ」

どうしてそう思うのか?
娘はこんな話をし出した。

中学入学直後、数学が苦手だった。テストも平均点程度。しかしある時、ある難問がスルッと解けた事をきっかけに"私って数学が得意かも!?"と勘違いし始めたらしい。そこから数学が好きと勘違いし、今では数学において高得点をどうにか維持している。

中2の娘に励まされるダメな私。
「それが違うんだって!ダメ母と思ったら負け。"こんな風に励ましてくれる娘を育てた私はすごい!"と勘違いするんだよ」

うふふ。なんか面白そう。
うん、やってみる。
まずは「私なんか」を「私だからこそ」って言葉に変換してみる。


「私なんか、誰も評価してくれない」とか「私なんか、どうでもいいと思われてる」とか、その『なんか』を『だからこそ』に入れ替えてみる。
うん、やれそう。
「私だからこそ、やれることがある」「私だからこそ、解ってあげられる」「私だからこそ、この人を幸せにできる」
お、なんかいいかも!

あ、でも。
やっぱり宿題はやっておこう。
そして、平均点をかなり下回る理科においても勘違いすることを、母は静かにススメる。



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理論的な性格は父親似。子は親の背中を見て育つ。
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2021年09月10日

人は挑むことで自分を変えることができる

最近、娘からある本を薦められた。
中学受験に挑む小学生の物語で、親、本人(小6)、塾講師の3人からの視点で構成された小説だ。そんな娘も中学受験を経験したうちの一人である。

娘が挑んだ中学は、カッパCLUBの愛娘Aちゃんが通っていた学校で、Aちゃんのお誘いで文化祭を見に行った時、「ここに行きたい!」と強く思ったらしい。「絶対にこの学校に行くんだ!」と心に決めた瞬間だ。

それまで、自分から何かをやりたい、習いたいと言ったことのない娘だが、なぜかこの学校に関しては強い意志を持った。中学受験は親子受験とも聞く。普段やりたいことを意思表示しない娘が初めて主張してきたのだ。できる限りのことはやろうと思った。

しかし、緊張感は長く続かない。10年分の赤本を買ったものの、なかなか進まない。受験の時期が迫ると、娘の生活パターンとインフルエンザ対策に翻弄され、自分が受験するわけでもないのに、気持ちだけが焦燥していった。
「過去問もまだ残っているし、漢字だって間違っている。これじゃ落ちてしまう!!」
日々迫る焦りから娘との会話も小言ばかりになり、大切なことがすっぽりと抜け落ちた。
その大切なことを、この小説で思い出すこととなる。

受験を決めた少年の言葉だ。
「勉強を限界までがんばりたいから。限界まで頑張れは、見たことのない景色に出合うことができる。自分自身が想像もしなかった場所まで行けるって、うちのお父さんは言うんだ。飛行機が時速200キロ超のスピードで滑走路を走るといつしか空を飛んでいるように、人間だって限界まで走ればどこか違う場所に辿り着ける。生き方が変わるって、お父さんに教えられたんだ」

一方、自分の息子は今の志望校が無理だと決めつけた父親に対しての塾講師の言葉。
「もし息子さんが不合格になったら、あの子への信用を失くしますか?ダメなやつだと見損ないますか?二月の合格発表後には、積み重ねてきた努力だけが残ります。合格、不合格。そんな判定とは関係なく、あの子がここまで頑張ってきた時間が残るんです」

物語の主軸はたまたま中学校受験であるが、この塾講師には社会に馴染めない弟がいる。その弟への視点も交えて物語は進む。いわば、これは大人にも通じる話なのだ。


53歳の隊長はまだまだアスリートとして上を目指している。おこがましくもキングカズと同じだ。体力のある若い世代がどんどん出てくる中にいたら、いわゆる不合格=負という結果になるかもしれない。それでも挑み続けている。

「もし彼が負けたら、彼への信用を失くしますか?ダメなやつだと見損ないますか?大会後には、積み重ねてきた努力だけが残ります。勝ち、負け。そんな判定とは関係なく、彼がここまで頑張ってきた時間が残るんです」
塾講師の言葉を借りると、こうなるかな。


本の中に、受験を決めた子の同級生の言葉がある。
「中学受験なんて意味がない。勉強を頑張りたいなら、中学に入ってからでも遅くないってうちの父ちゃんが言ってたぞ」

なるほどね。私も言われたよ、そんな様なこと。
でもね、じゃぁどうしてこの子はサッカーをこんなに一所懸命にやるの?
サッカーは大人になってからもできるのに。

同級生の言葉に悩んだ少年に対して塾講師はこう言った。
「人は挑むことで自分を変えることができる。12歳でそんなことができるなんて、中学受験に意味のないわけがない」

すべてにおいてそうかもしれない。
人は挑戦することを止めてしまうとき、その理由を探す。そして自分に言い聞かす。
「〇〇をやるには早すぎる」「〇〇をやるには遅すぎる」「〇〇をやるのは大変だ」「〇〇をやるには高すぎる」「〇〇をやる時間がない」

なんでもいいじゃない。いつだっていいじゃない。
挑戦してみたいことが見つかったら、やれない理由なんか探さないで、目的地に向かって一直性に延びる滑走路を全速力でひたすら走ってみようよ。

周囲は自分の『ものさし』で測ろうとするかもしれない。でも、それはその人の『ものさし』。30センチの『ものさし』で滑走路なんて測れやしないよ。

そんなことを想いながら、この小説を読み終えた。

さて娘はこの本を通して、私に何を伝えたかったのだろうか?
それを聞いた時、娘はこういった。
「あ、まだそれ読んでないから、ネタバレやめてね」


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2021年08月21日

オトナの無視

先日、知り合いからLINEが届いた。
「職場で無視される」というのだ。しかも後輩から。
小中学生の頃は時々あったけど、まさかオトナになってもあるとは!

当然、世の中には気の合わない人や嫌いな人もいる。
しかし、“どんなに気に食わない人であっても、オトナであれば社交辞令的にあいさつはするでしょ” なんて思っていたのは私だけ?
「いやいや、よくあることよ」と後輩の態度に我慢をしている知り合い。
彼女の話を聞くうちに、なんだか現代社会において人間に備わるべき『人格』というものが、体内からどんどん消滅していくような感覚になる。

さて『無視』と言って思い出すのが娘の小学校時代の話。
(もうすっかり終わった事なので書きます)
「この問題、解る人いますか?」と先生。娘が手を挙げるも、先生は
「誰もいないの?」と、娘を無視。
それでも負けてない娘は、わざと大声で答えを言う。それを聞いた隣の子が
「答えは〇〇」と言うと、先生は「正解」と、その子を褒めた。隣の子は
「あきらちゃんが言ったんだけどな~」と言い返したが、先生はそれすらも無視。
先生の中では、娘は教室内に存在しなかった。

指してもらえない娘にも問題があったと思う。
無視されるには、それなりの理由もあろう。

しかし、娘に対する“気に食わない”という先生の態度はあからさまだった。
そんな先生の態度に対し、娘は一刀両断。
「オトナゲないなぁ」
もしかしたら、先生はきっとこういった娘の大人びた発言が気に食わなかったのかもしれない。
それにしても、相手は小学生である。
大人びた発言は親の責任でもある。
子どもを無視するよりも、親に言ってくれた方が助かったのだが・・・。
先生よ、気に食わない生徒だからって、もう少しうまくやってくれまいか。

幸い気の強い娘は先生の対応を気にもしなかったが、私が同じ立場だったら、その場で泣いていたかもしれない。
いやいや、不登校になったかもしれない。
いいか悪いかは別として、神経の太さが父親に似てよかった。


極太の神経を持つ娘はおいといて、『無視』は人がもっとも傷つく行為である。
ある本に『無視をするのは承認欲が強いから』とあった。
何事に対しても勝手に競争して、勝手に勝敗を決めている。
それはアスリートの『競技人生』ではなく、ひとりで他人と比較して優劣や善悪を決める『競争人生』なのだ。
結局のところ、その人の問題なのである。

こちらに非があるなら、しっかりと反省する。
無視する側は、おそらく話し合いの機会ですら嫌がるだろうから、まずは自分の言動を反省し、それから相手に歩み寄ればいい。
それでも相手が話すことすら拒否するようなのであれば、その人は逃げているだけ。
放っておけばいい。

こちらに思い当たる非がないなら、誰かを傷付けることを目的とした人間と関わること自体が無駄な時間と労力である。
人を傷つければ、いつかしっぺ返しが来るのが世の常。
放っておけばいい。

そこでやるべきことは、その人のご機嫌を伺って、その人に好かれる人生を生きることではない。
まずは自分のすべき仕事をきちんとして成果を出す。
そして自分を大切に思ってくれている人や、頼りにしてくれている人に対し、きちんと応える。
気持ちを向けるのは、自分を無視する相手ではなく、自分を大切に思ってくれる人だ。

オトナの世界にもある『無視』という稚拙な行為。
その行為をすることで何を勝ちとするのか?
強者(先生)が弱者(生徒)を無視することで、どんな利益があるのだろうか?
後輩が先輩を無視したところで、どんなメリットがあるのだろう?

今『無視』をされている知り合いよ。
問題があるのはキミではなく、無視する側である。
だからね、そんな人に神経を注ぐ必要はまったくないんだよ。
神経を注ぐべきはそこじゃなく、もっともっと大切な方だ。


さて、当時の先生の無視など意に介さなかった図太い神経を持った娘。
大好きな中学が夏休み明けに分散登校になることに神経を注ぎ、全員一緒に会えないことを悶え悲しんでいる。

私と言えば、冷蔵庫にずーっと保管されてる夏休みの自由研究品をどう片付けてやろうかに神経を注ぎ、デザート置き場のないことに悶え悲しんでいる。

冷蔵庫を占拠するこれらの研究品も無視できたらいいのに。


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2021年07月29日

東京オリンピック2020に想う

東京オリンピックが始まった。世界中に拡大した新型コロナウイルス感染症もワクチンが開発されたとは言え、舞台となる東京は日々感染者数が増えている。こんな状況下でも、この大会にすべてを賭けてきたアスリートたちのほとんどの選手が「ここまでこられた事に感謝している」と言う。

驚くはスケートボード女子ストリートで金メダルを獲得した西谷椛選手。なんと13歳!うちの愚娘と同年だ。銅メダルは16歳の中山楓奈選手。柔道も若手の活躍が目立つ。

一方で体操の内村選手、競泳の入江選手、ウェイトリフティングの三宅選、スラロームの羽根田選手など、期待のかかった有名選手が敗退している。新しい選手がどんどん下から突き上げてくる中で、勝ち続けることは容易ではない。

コロナ禍での開催は、そこに至るまでにたくさんの物議が醸し出された。組織内の大役の辞任、世論の開催反対の声、自治体によって異なる観客の受け入れ。情報が日毎に変わる。何が正しいのかもわからなくなる。

そんな中「マスクなんていつまでやるの?」などと平気で言っちゃう国のリーダーも出てくる始末。新しい政治家がどんどん下から突き上げてくる中で、現役であり続けることは思ったよりも簡単なのかもしれない。


先日、卓球混合ダブルスの決定戦を娘と観戦していた。20歳の伊藤選手がみまパンチを決める度、娘は「かっこい~~~」と絶賛。若い選手が活躍する姿に感動する娘。
一方、私の視点は32歳の水谷選手に行く。真実は分からないが、ミスの続く伊藤選手を経験のある水谷選手が支えているように見えた(ある種の妄想)。経験者のあるべき姿だと感心する私。


人は年を重ねる。どんなに抗っても皺は増えていく。その顔に刻まれた皺は経験に比例するのかもしれない。その皺をどう活かすのか。
(あくまでも私の妄想の中での)水谷選手みたく、自分の経験値を若い世代に押し付けるのではなく、彼らの言わんとすること、やらんとすることに気が付き、それを支えるのも、経験のひとつの活用法だ。


さて金メダルを取った水谷選手と伊藤選手。金メダルが決まった瞬間、うれしくて20歳の伊藤選手に抱き着いた32歳の水谷選手だが、「衝動的に喜びを表現したら、伊藤選手は拒否気味で『痛い』とはねのけられてしまった。ちょっとつらかった」と話す。ひょっとしたらこれもジェネレーションギャップかもしれない。


posted by Sue at 18:31| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2021年07月07日

自分の強みを活かせ

小学校時代、下級生よりも背が低く、運動も全然得意ではなかった娘は、中学に入ってバドミントン部に入部。先輩や経験のある同級生に指導してもらいながら、放課後の練習に明け暮れる日々だ。

2年生になり、身長も150センチを突破した。しかし体重はあまり増えず40㎏を満たさない。それでも元気に、毎日10㎏近い鞄を背負って通学している。
痩せっぽっちだけど体力あるところは父親似かな。
下っ腹に体力を蓄えている私に似なくて良かったと喜ぶべきか!?

さて先日、娘のバドミントンの県公式試合を見に行った。
娘はダブルスに出場。ペアを組むのは、これまた身長も体型も似たような女の子で、出番は大会開始から一時間ほど後になる。

娘の出場を待っている間、他の選手のプレイを見学。
コロナ感染防止の影響で大声は出せない。応援もできなければ、選手同士の掛け声もNG。それでもみんな一所懸命にシャトルを追う。
身体の大きい子はスマッシュが強い。なんと言ってもパワーがある。

さて娘たちの出番が来た。相手は二人とも身体がしっかりしている。ひょろっこい娘たちは見る限りに弱そうだ。試合が始まった。娘ペアはお世辞にも上手いとは言えない。相手ペアはバシバシとスマッシュを打ち込んでくる。こちらは拾うのに必死で、スマッシュを打ち返すどころではない。あ~こりゃ目も当てられん試合になるかも。

ん?  あれ?  不思議と打ち合いが続いている。
剛速球スマッシュを拾いに行ってるし。

大会前に娘が言っていたことをふと思い出した。
「私たちはスマッシュが打てない。相手がミスしない限り点数は取れない。だから拾いに行くの。自分たちの強みは“持久力”だからさ」

そう言えばこうも言っていた。
部活中、娘ペアは練習ではよく負けるけど、基礎体力造りのマラソンでは二人で常にトップ争いをしている。距離が長ければ長いほど、二人は強くなる。


そもそもが運動音痴。体力だってここ最近ついて来たところ。
人と同等な技術を持ってないなら、自分の強みを最大限に活かすことも策である。
娘は持久力が自分の強みだと言っていた。
なるほど、だから打ち合いが続くのか。

娘の試合を見ながら考える。
じゃ、私自身の強みって何? 

“人よりうまくなりたい”
運動であれ、勉強であれ、仕事であれ、家事であれ、芸事であれ、その気持ちは大切だと思う。自分を磨くモチベーションになるし、更には人生の目標にもなる。

が、そればかりに焦点が行き、『生来の強み』を置き去りにしていないだろうか。

多種目のアドベンチャーレースは、それがとても解りやすい。ウォーター系の強い選手、体力がある選手、ナビゲーションが得意な選手、自転車で引っ張れる選手。
そればかりではない。眠気に強かったり、痛みに強かったり、チームメイトへの配慮ができたり、雰囲気を作るのがうまかったり。
一人でも欠けてしまえば終わってしまうアドベンチャーレースは、一人一人の強みがとても重要になる。一人一人が自分の強みを活かしてチームを支えてこそ、結果がついてくる。


じゃ、私自身の強みって何?
しばし考えてみる。
・・・あかんわ~。思いつかない(涙)

ちょっと質問を変えてみる。
「人からどんな相談を受ける事が多い?」
自分の強みが何かを周りに教えられることもある。



さて、娘の公式試合に話を戻す。
結果は大敗。後から聞いたことだが、試合直前の打ち合い練習で足をくじいてしまった娘。ペアの女の子は、試合中にできる限り娘をかばってくれていたそうだ。
二人の強みを活かしながら、メンバーを想い合った一戦は、これからの彼女たちが進む道に何らかの影響を残すだろう。

残念ながら一回戦で二人の出番は終わってしまった。
でもね~、お母さんは観てたよ。二人とも打ち込まれるスマッシュを怖がらずに取りに行っていたこと。
すごかった。めっちゃかっこよかったよ。


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2021年06月26日

TJAR 太平洋を目指して

今年もトランスジャパンアルプスレース(TJAR)が始まる。日本で類のない過酷な山岳レースである。
コースは日本海から太平洋。ルートは日本アルプス。距離にして415㎞、標高差27000m。これを8日間で走り抜けろと言うんだから、尋常ではない。

私はこの大会の実行委員の一人である。
大会中に強風が吹こうものなら、山林や低木の中でひたすら耐え忍んでいる選手を想像し、自分は穏やかで涼しい部屋にいるのに心臓が騒ぐ。

「みんな十分にトレーニングをした人たちばかりだもん。きっと大丈夫」と自分に言い聞かせながらも、彼らの家族の顔が浮かび、気持ちが四分五裂になる。
アドベンチャーレーサーの妻としての経験から、家族の心配はよくわかる。

太平洋のゴールで選手を待つ家族や恋人。満身創痍になりながらもテープを切る選手と家族の笑顔を見る事は、実行委員としても最高の瞬間である。

この瞬間を目指し、出場を希望するアスリートたちは、超高ハードルの出場条件をクリアすべく2年間を費やす。

たった2年。そして特別な2年。

だから私たち実行委員も真剣だ。たった8日間のために2年もの時間を費やす。もちろん完全無償だ。
申込書を受理するのは私の役目。簡単な作業ではあるが、その重みは2年分だ。2年間の、人によっては4年間、6年間、10年間の想いが詰まった申込書である。
「拝受いたしました」
たった一言の返信ではあるが、文字通り拝受しているのだ。

残念ながら書類で不通過になった人もいる。ここまで来るのに、ずいぶんな時間やお金を費やしてきたことだろう。選考する側を責めたくなる気持ちもよく分かる。
私も出場チーム数制限をしているアドベンチャーレースへの出場権を得るため、技術証明書やチームのビデオクリップを作成して送る。新メンバーの経験不足や言葉の壁もあり、出場権を得るのは容易ではない。

選考をする側とされる側。双方の立場を経験する者として言えるのは「落とす事は簡単なことではない」と言うことだ。人を選抜することは本当に苦しいことなのだ。
言葉の壁のないTJARはなおさらである。そして実行委員は半分以上がレース経験者だ。この2年間どんな想いで準備してきたか、気持ちは痛いほどに分かる。

しかし我々は冷静に線を引く。上記に書いた「みんな十分にトレーニングをした人たちばかりだもん。きっと大丈夫」を「絶対に大丈夫」という確信にするために。

ある書類選考で不通過となった人からきた返信文が心に染みる。
「自分の甘さを改めて気付かされ、恥ずかしさとともに、心身を鍛えて出直します」

この人はきっとやるだろう。結果を謙虚に受け止めた事で課題がクリアできる。次回までに鍛錬を積んで、更に強くなって挑んでくるだろう。
大丈夫。山は逃げません。いつもそこに居ます。

間もなくTJAR2020実地選考会が始まる。
そして私たちも強い気持ちで真剣に選考する。
太平洋に辿り着いた時の笑顔を見る瞬間を心待ちにして。


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2021年05月20日

オトナの言うことを信じるな!

中学2年生になり、先輩と呼ばれることに少し慣れてきた娘。
通学に往復3時間。それでも、ともかく学校が楽しいらしく、朝はきちんと5時30分に起きて身支度をし、ササっと朝ごはんを食べて、6時16分発の電車に乗る。

学年が上がるに伴い、勉強も難しくなってくる。小学校の時は「ここ教えて」と言われれば教えられたものの、今では徐々に難易度が増してくる。英語や国語ならまだしも、数学や理科に至ってはお手上げだ。(はぁ~私の理数レベルは中学生かぁ)

「そう言えばさ・・・」
先日、ふと娘が小学校の時ことを話し出した。
理科だったか算数だったか。先生が最後に「質問のある人いますか」と言ったので娘は挙手。内容は覚えてないらしいのだが、その時に疑問に思ったことを聞いた。
その質問に対し、先生はこう回答したそうだ。

「そんなことは中学でやるから、今知らなくていいです」

どんな質問をしたのか覚えていないくせに、先生の回答はしっかり覚えているという。
先生は「今それを教えたら飽和状態になって混乱するかも」と思ったのかもしれない。
どんな返答だったにせよ、生徒の事を考えての回答だったと思いたい。


さて、何年か前の隊長が小学生対象に講演をさせて戴いた時のこと。
隊長はアドベンチャーレースの体験を通して、自然の猛威について話をした。
その中の一部を少しだけ紹介。

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今やネットでなんでも調べられるし、なんでも買うことができます。その場に行かなくても世界中を視る事だってできます。技術も発達し、身の回りに便利なものが増えました。たくさんの人の病気が治るようになりました。そして科学もどんどん発達し、今まで謎だったたくさんのことが解明されてきています。
しかし、そんな科学が進んだ地球でも、自然だけはコントロールできません。

その代表的なものに福島第一原子力発電所(原発)事故があります。2011年3月11日、大きな地震が東北を襲いました。絶対に安全だと言われて建設された原発は、この地震よって建物爆発が起き、放射性物質が外に漏れてしまったんです。この有害物質に染まってしまった地域の人たちは、家族を守るためにこの場所を離れました。

万が一に備え、たくさんのオトナたちが知恵を出し合い、何度も調査をし、十分すぎるほど頑丈に建てた原発。途轍もない時間をかけて安全性を確かめた原発。しかしオトナたちが絶対に安全であると言ってた物は、自然という猛威にいとも簡単に壊されてしまったのです。

だから君たちに言う。
“オトナの言うことを信じるな”
それが本当に正しいかどうかを自分たちで考えてください。たくさんたくさん考えてください。もしかしたら正解はないのかもしれない。でも何がベストなのかを一所懸命に考えてください。

自然は美しい。でも自然は驚異です。この先、君たちが自然とうまく付き合い、より豊かに暮らすため、自然をもっともっと知る必要があります。
それにはネットだけに頼らず、自分の足でたくさん外に出て、たくさん自然に触れ、たくさん勉強して、そして自分の頭でたくさん考えてください。

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娘の小学校時代に話を戻そう。
確かに娘の疑問は今知らなくていい事であっただろう。
では中学生になった今、この疑問の答えがわかったのだろうか。なんだか気になる。
(本人は質問の内容すら覚えてないくらいなんだから、大したことではないのだろうけど)

でも、もしあの時、先生が「なんでこうなるのかを一緒に考えてみよう」と言ってくれていたら・・・。
子どもはその瞬間に考える機会を逃さずに済んだのかもしれない。

答えを教えることだけがオトナの役目ではない。オトナだって知らないことはだってたくさんある。間違うことだってある。あの池上彰さんだって間違ったり知らなかったりすることがあるはず。・・・きっと。

それでいいのだ。大切なのは疑問を放置せず、そこから学ぶことを、考えることを子どもと一緒にやっていけばいいのだ。
“オトナの言うことを鵜呑みにせず、それが正しいかを自分でも考えてみよう” である。


中学校2年生の娘。今じゃ「ここ教えて~」という質問に対し、一所懸命に考えて答えると「え~ うそくさ~い」と言って信じてくれない。思惑と若干ズレてるものの実践している(泣)。
posted by Sue at 11:54| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2021年04月18日

継続は信用なり

私が初めてアドベンチャーレースと出会ったのは1997年のレイドゴロワーズ・レソト大会である。私はチームのアシスタントで相棒は新保政春(シンポくん)。選手は、後に夫となる主将・田中正人(隊長)、当時早稲田の大学生で後にテレビ朝日職員となる鈴木篤(あっちゃん)、カヤッカーの田島健司(ケンさん)、紅一点は、のちに一級建築士となる金子留美(るみちゃん)、そして海洋冒険家の白石康次郎(白石くん)。
あれから四半世紀近くの時を経てもなお、この人たちは私の大切な仲間である。


先日、隊長が神奈川県の某小学5年生を対象に講演をさせて頂く機会があった。縁あることに、そこは白石くんの出身校だった。
隊長が白石くんを「知っているか」と訊くと、みんな「知っている」と答えた。
そこで隊長は、急遽その講演テーマに白石くんの話を挿入した。

白石くんは、この講演があった日、世界一過酷なヨットレース『ヴァンデグローブ』にて海洋との戦いの真最中であった。

ヴァンデグローブとは、4年に1回行われ、単独無寄港で南半球一周(約48,152㎞)を100日程度かけて航海するヨットレースである。強風、荒波、悪天候の中を無補給、無援助で進む。完走率は半分程度。
たった一人で100日間。トラブルもすべて自分で対処しなくてはならない。孤独での戦いという意味ではアドベンチャーレースの何百倍も過酷だと思われる。

そんな強い白石くんも、レソトの陸地では隊長に引っ張りまくられた。足の裏がボロボロになり、痛みというにはあまりにも辛い。そんな白石くんの状況を知りながら、隊長は「みんな痛いのは同じだ」と尻を叩きまくった。

一歩踏み出す毎に激痛が走る。隊長の猛烈な煽りを受けながらも、白石くんはあきらめなかった。
「ちょっと待ってくれ」と口に出したものの、
「もう辞めたい」とは決して言わなかった。

そんな強い白石くんは、少年時代から抱き続けた『船で海を渡る』という夢を叶えた。
2016年に出場した『ヴァンデグローブ』は、レース中にマストが破損し、無念のリタイヤ。あんなに強い白石くんが涙を流した。
その悔し涙から4年。船を新たにして再挑戦。見事に完走を果たした。

さて、話は隊長の講演に戻そう。
少し生々しいけど、隊長は生徒たちにお金の話を切り出した。

「僕が挑戦する世界のアドベンチャーレースに1回出場するのにかかる費用は約300~400万円。
一方、白石くんは今回の新しい船にかかった費用だけで、なんと8億円!!!レースに出場するのにかかる費用を含めたら、とんでもない金額になる。
一所懸命に働いたって、それだけのお金はなかなか稼げない。

じゃ、どうやって稼いでるの?って思うよね。
これはね、すべて彼への『信用の代金』なんです。

信用しているからお金を出す。信用しているから応援をする。信用しているから支える。
これはね、彼がまっすぐに、じっくりと、しっかりと作り上げてきたものなんです。

僕は彼ほどの金額ではないけれど、それでも僕を信用してくれている人がいて、その信用で僕たちはレースに出場している。

もし君たちに夢があるなら、ぜひ『信用』を作り上げてください。
自分の夢に誠実に向き合い、ひたすら努力し続ければ、きっと応援してくれる人が現れる。どうかその人たちから信用を得てください」


今年54歳になる白石くんと隊長。
26歳で最年少単独無寄港世界一周の航海を成し遂げた白石くんと、同じく26歳でアドベンチャーレース日本人初完走を成し遂げた隊長。
人生の半分を夢に賭けた二人は、きっとまだこれからも夢を追い続けるのだろう。

以前、隊長は「アドベンチャーレースで一番大変なことって何ですか?」と聞かれてこう答えた。
「続けることです」
実は一番難しいのは、トレーニングでも資金集めでもなく、続けることなのだ。

途中、資金的にも精神的にも難関に見舞われた。それでも「辞めよう」と思わなかった隊長。きっと白石くんもそうであろう。大好きな事だから辛い事も耐えてきた。

夢に年齢制限はない。あるとしたら、それは自分で決めた限界線である。

一足先に白石くんは『ヴァンデグローブ完走』という大きな夢をひとつ果たした。
白石くんは「想い続ければ夢は必ず叶う」ということを教えてくれた。

改めて、ヴァンデグローブ完走、おめでとうございます!


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2021年03月12日

「どう生きるか」を選ぶのは自分

大切な友人の訃報が届いた。
まだ互いに若かりし頃、愛知県で国際平和教育の活動に共に汗を流した友人である。

当時、彼は大学生だった。なんだかボヤ~ンとしていて、年上の私たちからは、いつも「大丈夫か?」と心配されつつも可愛がられる弟的存在だった。

やがて彼は政治を学び、夢かなって国会議員になり、アフリカ支援に奔走した。会わなくて久しいが、彼の活動のベースには、共に経験をした国際平和教育活動があったのだと思う。彼に何が起きたのかはまだわからない。ただ最近では、様々な背景の中で激務に追われていたと聞く。

彼の訃報は「どう生きるか」を深く考えることとなる。


生けるものすべては、いつか必ずその命を全うする日がくる。
だからこそ、生まれてきた事を、生きる事を、そして生きている間の事を大切にしたい。

長い長い宇宙の歴史から見れば、人の人生なんてほんの一瞬だ。
そのわずかな時間をどう生きるか。
今生きている姿勢は、子ども達の手本となっているか。


欲に駆られ、愚痴や悪口でストレスを発散し、人の失敗をあざ笑う。そんな生き方がいいか、人の役に立ち、人に喜んでもらい、人の幸せを一緒に喜び、悲しみや辛さを悼む。そんな生き方がいいか。選ぶのは自分だ。


私たちは神様じゃない。だからすべての人をハッピーにすることなどできない。他人の行いが間違っていると思えば糾弾することもある。疲れ果て、つい愚痴が出てしまうこともある。人を妬むことだってある。

それでも、ただ、せめても自分の周りにいる人だけでいいから。友達だけでも、家族だけでも、今この瞬間に傍にいてくれる人だけでもいいから。全力でハッピーにしよう。全力で笑顔にしよう。


今日、何回「ありがとう」を言った?
今日、何回「ありがとう」と言われた?

明日は今日よりもっと「ありがとう」を言い、「ありがとう」と言われるような事をしよう。



そんな事を思いながら、友人の冥福を心から祈る。
ありがとう、Duke。

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2021年02月09日

理想の完璧な自分

観光地であるみなかみ町は首都圏からの来客が多い。しかし新型コロナ感染症対策として1都3県に緊急事態宣言が発令されてからは、町はすっかり静かになってしまった。

盆暮れ関係なく現場で戦う医療従事者の事を思えば当たり前ではある。しかし観光業も追い詰められているのが事実で、感染対策をしっかり行いながらもあの手この手で商売を続けようと必死になってきた。


私たちの仕事はアウトドアスポーツ関連事業であるが、これもまた新型コロナウイルス感染の拡大に大きく振り回されている。レース、イベント、取材、講演会、講習会は悉く中止。この惨事がいつ終わるのかわからないが、それでもメンバーはトレーニングに励んでいる。世界の舞台に再び立つ日がいつやってきてもいいように。


アドベンチャーレースでもこれだけしんどいのだから、オリンピック選手のしんどさはどれ程か。現時点で東京オリンピック関係のお偉い様方が開催すると言っているのだから、選手らはそれに向けて必死に練習している事だろう。

詮ずる所、みんな踏ん張っているのだ。医療従事者も、観光業者も、飲食店も、アスリートも。

レースも延期、講演や講習会の中止に加え、お手伝い先の蕎麦屋も人員縮小と、私自身の仕事も激減した。
「どうせしばらくは仕事ができないのだから、空いた時間を自分磨きに使おう」
長期化する自粛生活はある意味チャンスかもしれない。そこで娘の古いピアノ本を持ち出してみたり、凝った料理に挑戦したり、英語のブラッシュアップを始めたり。挙句の果てに「何かを極めよう」なんて思い始めたりして・・・。でも結局、続かない。

私は弱い、と改めて思う。ただの〝弱い″じゃない。〝めちゃくちゃ弱い″のだ。どうやったら隊長みたいな鉄の意志が持てるのだろうか。どうやったら「お金がなくてもどーにかなるさ」と割り切れるのだろうか。

知り合いは得意の料理スキルを使ってテイクアウトを始めた。マイナー競技のアスリート達はSNSを使ってセルフプロモーションをしている。オンライン授業を始めた友人もいる。それぞれが持ち前のスキルと軽いフットワークで、この苦境を乗り越えようとしている。それを目の当たりにすると、何もできていない自分に焦りを感じる。

それだけならまだしも、同年代のタレントがいつまでも若々しく美しかったり、センスが良かったり、ビジネスで大成功していたりすると「何やってるんだ、自分」と焦る。もうコロナ禍とか関係なく、いろんな事項を引っ張り出しては焦る自分がいる。

成功してる(見えてる?)人たちから刺激を受け、私にも何かできることがあるだろうかと考える。きっと何かある。誰にも負けない何かが。その何かを極めている理想の完璧な自分が、何もない今の自分を見下ろしている。

そんな事を思いながらも、時間だけが無駄に過ぎて行くように感じて、また焦る。

ん?なぜ焦るのか?私はいったい何に対して焦っているのか?

この焦りの原因は、常に誰かと比べている事にある。「自分はまだまだダメだ」「こうあるべきだ」「やらねばならぬのだ」と自分を鞭撻する。が、そもそも何をやるかが決まってないから、空っぽの鞭撻になってドーンと重い塊になる。

沈んでいく。しんどくなってきた。あ~もう比較は止めよう。
グイっと理想の完璧な自分を引きずり下ろし、今ここにいる自分がすべてであることを認識する。
いや、そもそも、最初から何ひとつ比較するような物はなかったかもしれない。

今ここにいる自分は「何ができるか」は言えない。でも「何が好きか」は言える。
あり得ない内容の韓国ドラマ、漬物と日本酒、大きな図書館、アロマディフューザー、散歩、足湯、娘との連弾、立ち読み…。
うふふ。なんだかワクワクしてきた。

引きずり下ろした理想の完璧な自分が「それでいいの?」と下から問いかける。
「いいの、いいの。結局何かを極めたところで、好きって気持ちには叶わないからね」
それこそが隊長を見ていて学んだことである。




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2021年01月10日

非を認めることは負けじゃない

24年前の1月。初めて南アフリカに行くために名古屋空港に向かった。アドベンチャーレースの世界最高峰『レイドゴロワーズ』にイーストウインドのアシスタントとして参加するためだった。正月が明けた日本は寒さが厳しく、まさに今日みたいな日だった。

当時、スポーツにまったく興味がなく、アドベンチャーレースの趣意やルールなど知りもせずに同行してしまった。目の当たりにしたのは厳しくて怖いチーム主将・田中正人隊長。レイドゴロワーズ南アフリカ大会は、隊長が鬼軍曹と化す端緒となったレースである。

チームメンバーのほとんどが隊長と同年齢で、アドベンチャーレース経験も同程度。ゆえにまだまだ手探り状態での出場だ。性格はそれぞれだが、メンバーは意見を言い合い、それぞれの主張をした。血気盛んな20代半ばの若者らは、時としてぶつかり合い、喧嘩に発展した。

例えば、どちらの方向に進むかで意見が対立したとする。どうにか話し合いや多数決で方向を決めて進む。しかし、そこには思いもよらない深い藪がある。反対意見だったメンバーは「ほらみろ。だから言ったじゃないか」と言い出す。

例えば、後でもう一方のルートを通ったチームに話を聞くと「長雨で地面がぬかるんでしまい、それが永遠と続いていてとても進めなかったよ」という返事。

つまり、どちらのルートも自然に阻まれていたわけだ。そういう意味では、どちらが正しいということもなく、それぞれのチームの特性を活かして通りやすい方が正解なのだろう。(ともあれ、それは後でわかったことであり、チームは常にその場での判断が必要とされる)

話はそこで終わればいい。しかし、多くの場合が、上記の「ほらみろ。だから言ったじゃないか」の後に、最も厄介な“感情”が出てくる。そして「何もわかってないじゃないか。だからお前はダメなんだ」などと人格否定が始まる。こうなってしまうと行くべきルートの選択そのものよりも、相反する意見を持つメンバーを屈服させようとする感情が強くなる。

そもそもメンバーは敵ではない。一緒にゴールをしなくてはいけない味方なのだ。大切な仲間である。そんな味方を屈服させる理由などひとつもないのだ。

自分が間違っていたら、きちんとその誤りを認めること。それは恥ずかしいことでもないし、ましてや屈服などではない。心理学者のアドラーは「人は自分の誤りを認めることが、負けを認めることと思ってしまう」と言う。

そもそもそんなことで勝ち負けを決めていたら、正しい選択などできやしない。ゴールなんてできる訳がない。


さて24年前の南アフリカでのレース。あの夜に大喧嘩したのは、言うまでもなく隊長と、今現在、荒れ狂う海に孤独に戦い続けている白石康次郎くんだ。足裏を痛めた康次郎くんのペースが極端に遅くなってしまったことが原因だ。

その時のチームに必要な議題は「どうしたらペースが上がるか」であったが、疲労困憊の上に睡眠不足が重なり、自然と感情が入ってしまった。
「ちょっとペースを落としてくれ」
「みんな足を痛めてる。それくらい我慢しろ」
そこから互いへの怒りが募った。そしてその夜、嵐のチームミーティングに・・・。
※続きは『アドベンチャーレースに生きる!』(山と渓谷社)をご覧ください。

さて次の朝。驚くことに二人は何事もなかったかのように靴紐を結び、次のポイントを目指す準備をしていた。
どこかスッキリした顔で「行ってきます!」と晴れやかにアシスタントポイントを出ていくイーストウインドの後ろ姿は何か達観したようにも見える。
その時のメンバーのひとりである金子(旧姓:北村)留美ちゃんのひとことが忘れられない。
「私たちで(田中)キャプテンをゴールさせる」
荒れはしたが、結局は白石くんも隊長も互いが敵ではなく、大切な仲間であることを解っていたのだ。


あれから24年(隊長がアドベンチャーレースを始めてからは26年)が経つ。当時のメンバーは、それぞれが今を送る。隊長は、うんと年下のメンバーと共にアドベンチャーレースを続けている。

当時、正論をぶんぶんと振りかざしていた隊長も、この24年の間にたくさん悩んできた。私にも常に悩みを話してくれた。リーダーシップやチームビルディングに関する書物も多く読んできた。そして自分の誤りをたくさんたくさん反省した。そんな紆余曲折を経て、今では昔のメンバーからは「ずいぶん穏やかになった」と言われる。

それでもまだまだ勉強段階。チーム全員が最高のパフォーマンスを出せるようにするにはどうしたらいいか、そのために自分は何をすべきかの答えを探す旅はまだ途中。

24年前の「キャプテンをゴールさせる」という留美ちゃんの言葉は、今では「チーム全員を最高の状態でゴールさせる」という隊長の言葉となっている。
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2020年12月20日

雪は温かい

新型コロナウイルスの感染者が最高数を記録した日、群馬最北端に位置するみなかみ町は全国一の積雪量を記録した。電車は終日運転見合わせ、学校は休校、お店は休業、道路は通行止めなど、日常生活をもマヒさせる災害級の大雪であった。

私は共同駐車場を利用するため、そこには何台もの車が停車している。大雪の日、車はすっぽりと雪に埋もれてしまった。まだまだ降り続く天候。放っておくと車が雪の重みで潰れてしまうため、車を掘り出すことに。

掘り出すのはいいが、そもそも車まで行くのが厄介。腰のあたりまで来る雪。ずんずんと踏み入るだけでも体力を使う。車へのアプローチ用に道を作る。そして掻いた雪の捨て場を選ぶ。そこからは無心に雪を掻く。

近くで同作業をしている人と互いに声を掛ける。
「大丈夫ですかー?」
「こっちに雪持ってきていいですよー」
互いに手伝いながら駐車スペースを作る。

雪壁で狭くなった道路を譲り合いながらすれ違う。
「止まってくれてありがとう」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
それぞれの車内から合図であいさつを交わす。

普段はあいさつ程度の間柄でも、この時ばかりは団結して雪掻きをする。
除雪車も24時間出動し続け、ライフラインを守る。
雪の大変さは住民みんなが知っているのだ。


みなかみ町は自然が豊かである。谷川岳、利根川源流域、18湯の温泉地などがあり、私たちは観光資源でもあるこの自然の恩恵を受けて暮らしている。
雪も然り。雪が溶けて水になる。農業用水として用いるのはもちろん、雪によって農産物は甘味を増やす。ラフティングやカヌーができるのも雪溶け水のお陰である。うまい日本酒も雪溶け水からできる地下水で作られる。雪は大変な面がある一方、とても大切な資源でもある。


「雪は温かい」というのを聞いたことがあるだろうか?
雪の日は分厚い雲が空を覆っているので、地表の熱が逃げにくいらしい。また、雨から雪になる間は熱が発生するらしい。

しかし温かいのは気象学的理由だけではなさそうだ。こうした地域の人たちの互いを思いやる温かい気持ちをも雪は運んでくれるのかもしれない。被害が大きければ大きいほど、互いを思いやる気持ちは温かさを増すように思う。こうして雪人は互いに感謝し、厳しい冬を乗り切る。

さて、今や地球規模の災害とも言える新型コロナウイルス。この瞬間もこのウイルスに苦しむ人が多くいる。医療現場は休むことなく、この見えない敵と戦っている。もう戦争や経済制裁などやっている場合ではない。保身に躍起になっている場合でもない。

一人一人が互いを思いやれば、いつかこの厳しい冬を乗り切ると信じる。

戦争も保身も一時休戦。今は、今だけは敵も味方もご破算にして団結して、新型コロナウイルスの終息を目指してみたらどうだろう。
頑張ろう、地球。



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2020年08月05日

アドベンチャーレースで得することある?

「アドベンチャーレースやってて、何か得することある?」
先日、娘に真顔で質問された。母は一点の曇りなく答えよう。
「ありません」

同様の質問を隊長に投げかけてみたところ、速攻回答。
「ないよ」
ほ~らね。得なんてないんだよ。

娘の質問は続く。
「得もないのにどうして続けてるの?」

一般的に至極当然の質問であるように思うが、アドベンチャーレースと共に育っていると言っても過言ではない、いわば生まれた頃から傍に猫ちゃんがいる的に、傍にアドベンチャーレースがある娘に対し、こういった疑問を持つことに親として安堵すべきだろう。

で、またもや隊長は即答。
「楽しいぢゃん!人生、楽し~♡」
ただ、そりゃ確かに、楽しいだろうよ。


最初は「楽しい」と思って始めた隊長。
その「楽しい」を追求し続け26年が経つ。経過途中には、さまざまなことがあった。

 出場に関する資金不足。
 多種目の装備を揃える資金不足。
 練習資金不足。
 メンバーが固定しない。
 シンプルなルールではあるにも関わらず、スケールの大きさに一般的に理解されにくい。
 観戦型のスポーツではないため、マスコミが追いにくい。

とはいえ、悪いことばかりではない。

 支援者、協力者が現れる。
 スポンサーが現れる。
 トレーニング生がやってくる。
 メンバーが固定する。
 レースに頻繁に出場できるようになる。
 興味を持つマスコミが現れる。
 人気番組に出られる。
 トレーニング生に力が付く。

陰には全面的にチームを支えてくれるカッパCLUBと、色物として取り上げるマスコミに左右されず、ひたすら応援し続けてくれる人たちの支えが大きい。


こうやって振り返ってみると、損得という小さなくくりではなく、次元が異なるもっと大きなもの、『得』ではなく『徳』に気が付く。私たちは『得』はなくとも、そこに『徳』があり、それにとても助けられている。



娘よ、お母さんは思うのだよ。
お父さんは、26年もの長い間、アドベンチャーレースを続けてきたことで、とても大切なことをひとつ作り上げた。それこそが『得』、つまり『得た』もの、《信頼》。金銭をいくら積んでも得ることのできない宝。

ひたむきに、真摯に、一所懸命にやり続けてきたことで得られたのは、人と人のつながりの中でなにより大切な《信頼》だと思うのだよ。これを作り上げるのはとてつもなく難しい。でも崩すのは一瞬。いわば《信頼》は、ひどく脆弱であり、飛び切り強靭でもある。

偶々ソフトが「アドベンチャーレース」だった。楽しいという気持ちが根本にあるから続けられた。お父さんに合ったんだね。
人はそれぞれ、自分に合ったソフトを通して生きていく。その根本に大切にしている何かがあれば、きっと続く。がんばって続けていれば、きっと理解者が現れる。理解をしてくれる人のためにも一所懸命に打ち込めば、それがいつしか《信頼》になる。

もちろん、途中には何度も《信頼》を崩されそうになる外圧も出てきた。「やるべきか、断るべきか」を悩む事も少なくない。でも、どちらに転んだにせよ、失敗したにせよ、真面目に続けれている限り、応援してくれる人はいる。田中正人という人をちゃんと見ていてくれる人がいる。《信頼》してくれる人は必ず、いるのだよ。

得にはならない。
でも、積み重ねてきた26年で、謀らずともとても大切なことを得てきた、と私は思っている。
だからきっと、これからも得にならないことを続けていくと思うよ。
困ったもんだけどさ(笑)


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2020年06月21日

キャラ柱たち

中学校に進学した娘。新型コロナウイルスの感染拡大防止により2カ月間もの休校が余儀なくされたが、やっと分散登校が開始された。
学校の方針で置き勉(置き勉強道具の略語で、資料や教科書を学校に置いていくこと)はNGのため、毎回10~15㎏もの教科書にお弁当と水筒を背負い、1時間半かけて登校。どこかの山に遠征に行くのかと思うほどだ。それも徐々に慣れ、友達とおしゃべりしながら学校に行くのも楽しいらしい。

娘の学校は中高一貫で、県内全域から生徒が集まっている。分散登校となった今は、クラス内を半分にし、一日おきの授業となる。ゆえに、まだ半分のクラスメイトとしか会っていない。それでもすでにクラスメイトとは仲良くなり、毎日がとても楽しいと言う。
「個性的な子が多いクラス」と言う娘。他の子から見たら娘も個性的なんだろうけど。
登校も公共交通機関を使い、校内には時計もチャイムもないため、時間管理はすべて生徒の自主性に任せているため、早め早めに動く子、ギリギリまで動かない子、要領のいい子、真面目を絵に描いたような子・・・。娘にとって授業も出会う人たちすべても新鮮で、帰宅後はマシンガントークで学校であったことを話す。

あるとき、クラスメイトがどれほど個性的かという話をしていたので、ふと気になって聞いてみた。
「個性が豊かであるということは、それだけ性格が合わない子もいるということ?」
これに対し、娘はぴしゃりと言った。
「性格が合うとか合わないとか、そういう次元じゃなくて、すべての子がキャラ立ちしてるってことだよ。鬼滅の刃で言う『柱』だよ。それぞれの個性を『柱』とするから、みんながそれを認めてるんだよ」

「も~〇〇ちゃんは、真面目なんだからぁ(笑) 真面目ゆえに宿題を教えて~~~~」と、キャラを認め、受け入れ、敬っている。決して非難するののではなく、愛おしく思っているのだ。
だのに私は人間関係は複雑なものだと決め込んでいた。なんという愚かな質問をしてしまったのだろう。


先日、プロ野球楽天のオコエ瑠偉選手がツイッターで、保育園で先生が「醜いアヒルの子」の絵本を読んでいると、他の園児が自分を見ながら笑っていたという経験に触れ、「俺が周りとは違うと初めて認識させられた出来事だった」と明かした。 親の似顔絵を描く際に、だいだい色をした「肌色」のクレヨンしかなかったのが悔しくて、涙ながらに茶色のクレヨンで描いたという。
「家のベランダから外を眺めながら、ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかなとか、考えてた」という。幼い子供がそこまで追いつめられることがあっていいのだろうか。
小学生以降も、上級生に肌の色をあざ笑われたり、「外人なんて高校野球で使うんじゃ無いだの、甲子園には黒人はでるな」という心無い言葉を浴びせられたりしたと言う。

今でこそ人種の異なる人たちは多く見るが、当時の日本はまだ少なかったのかもしれない。だからだろうか、自分らと違うことを嫌うようにも見える。
自分らと考えが違う人、好みが違う人、やり方が違う人、服のセンスが違う人、自分と違う生き方をしている人・・・なにかにつけて『違う人』を排除したがる。アメリカで黒人男性が白人警察官によって首を押さえつけられて死亡した事件も、根底にはそういった『違う人』を排除したがる意識があったのではないだろうか。


これから多くの『違う人』に出会うであろう中学校1年生の諸君。すべての人が『違う人』であり、その『違う人』が持つ違う部分こそが、自分にない素晴らしいものなのです。だから『違うこと』を受け入れて、むしろ評価してください。
「だって、みんながキャラ柱なんだよ」


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2020年05月09日

自粛ポリス・ストーリー

新型コロナウイルスの影響により、世界が危機に陥っている。
財政・経済も冷え込み、各国のGDPの成長率はマイナス。パンデミックが更なる不安を煽り、根拠のない噂からトイレットペーパーなど生活用品が店内から消えたことも。

感染恐怖と経済的不安の上に半ば強引な自粛でストレスが溜まり、私たちの心を蝕み始めた。
そこに現れたのが『自粛ポリス』。
感染者への誹謗中傷、県外ナンバーへの攻撃、営業している店舗への投石など、いささか度を越した他罰をする人たちが出てきたのだ。

ネットで専門家が「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」と言っていた。
もちろん人が集まる場所では自粛する必要がある。しかし感染者は誰一人として感染を望んでいた人はいないはず。お店にしても、止む無く営業しているところもある。今の状況はそれぞれが悩みに悩んだ結果の行動だとしたら?

以下、同専門家インタビューからの引用。
「生活への不安や欲求不満で、攻撃性が高まるんですね。みんな、イライラをぶつける相手を探している。それが家族への八つ当たりだったり、県外ナンバー車の監視だったり、お店や役所への文句なんでしょうね。ある意味、私たちの中にある防衛本能でもあるんです。不安が高まれば、自分を守りたくなる。それが『よそ者』への攻撃に向かっていくんです」

それが真実ならば、人の心は感染より恐ろしい。

営業し続けるには、きっとそれぞれ理由があるのだろう。勝手に想像して物語を作るとしたら、家族の生活を維持するため、人々のストレスを緩和するため、生活必需品を販売するため、大切な誰かと「命続く限り店を開ける」と約束したため、とか。
他人が知らない深い理由が、そこにはあるのかもしれない。


記事を読んでいて、ふと思う。
自粛ポリスは一般社会に似ている。

例えばオトナと子ども。
子どもがやることには意味がある。生まれたばかりの赤ちゃんにも、幼子にも、ティーンにも、それぞれに意味がある。オトナから見たら、それは必ずしも正しいものではないかもしれない。しかし、子どもは子どもなりに考えて行った行為である。

「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」
オトナは自分の意見が正義と思うから、堂々と子どもを諭そうとする。諭すだけならまだしも、叱りつけることで恐怖感を持たせ、子どもそのものをコントロールしようとする。
しかし、それは本当に正しい意見なのだろうか?
感情任せになってないだろうか?
自分の都合を押し付けてないか?

子どもはオトナの所有物ではない。子ども自身「個」である。もちろん成熟してない分、オトナが手を取り導いていくのだが、それでもオトナが知らないうちに子ども達は、それぞれが感じ、考え、吸収している。やがてオトナの言うことに疑問を持つようになる。それが「感情」や「都合」で発言されていれば尚更だ。


例えばアドベンチャーレース。
何日間も不眠不休で歩き続け、身体はボロボロ。力も出ない。関門時間が迫っていることは重々承知だ。時間がない。しかし、もう脚が前に出ないのだ。
体力が残るメンバーは先に進む。
「少しだけ休憩させてほしい」意を決して声に出す。
「俺だって脚が痛いんだから、お前ももっとがんばれ。制限時間が迫っている」苛立つチームメイト。
「ここで休んだ方がパフォーマンスがあがる」
「ならば、何分間休んだら前に進めるのか?」
「そんな問題じゃない。少しは相手の気持ちも考えてくれ」
どちらも自分なりの『正義』を主張する。相手の言っていることも理解しているのだが、引くに引けない。そうなると、ただ単に互いに自分の感情をぶつけ合っているだけである。
目指すは今ここでの感情の正当性ではなく、ずっと先にあるゴールテープなのに。


結局『何が正しいか』は、それぞれの環境や経験をベースに構成された思考に過ぎないのではないだろうか。


他人に誹謗中傷を撒き散らしたり、上から物事を言ったり、無視や投石や監視をしたって、事は思い通りになりゃしない。
目指すは休業や自粛ではなく、コロナを撲滅することにあるはずなのに。

ならば相手(たとえば子どもやチームメイト)の環境、経験、気持ち、痛み、考えなどを正しく聞いた上で、自分の考えを話すこともアリかと思う。それを相手が納得すれば、自粛をしてくれるかもしれない。少なくとも、どうしたらいいかを一緒に考えられるかもしれない。


さて、我が家にも3か月目の休業に入るティーンがいる。念願叶って合格した中高一貫校の制服は、まだ数回しか着ていない。新しい制服を着て登校できる日を待ち焦がれながら、親である私は生活ポリスにならないように意識したい。

でも、隊長が勝手に冷蔵庫のスイーツを食べてしまうことは、できる限り厳しく取り締まる冷蔵庫ポリスを意識していかねば。

posted by Sue at 14:36| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2020年03月26日

最後の試練

コロナウイルスの影響で小学校の休校が始まったのが3月2日。卒業式を縮小して執り行うという知らせがあったのも同日。

卒業式を控えた娘。
先生に依頼されていた卒業生の歌のピアノ伴奏を引受けたのが3月6日。卒業式まで残り20日のことだった。

とは言え、ピアノレッスンは9ヶ月前から辞めている。すでに学校はお休みだし、教えてくれる人はいない。歌と合わせることもできない。20日間でどこまでできるだろうか。
卒業を賭けた娘の最後の試練が始まった。

引受けた以上は全力で取り組む。
久しぶりに見る音符。指を慣らすために時間を見つけてはピアノに向かった。

学校が休みでは、歌と合わせることもできない。仕方ないのでネットでその歌の合唱を流し、それに合わせてタイミングやスピードの練習を繰り返す。

卒業式前日、数時間ぶっ通しで練習。卒業式は発表会ではない。6年生みんなの式であり、その親たちの、そして先生たちの式である。ミスは許されない。

たかが伴奏。されど伴奏。それを引き受けたことの責任を、小さな身体でひしひしと受け止めていたのを、隊長と私は感じていた。

ー 卒業式当日

朝少し練習したものの、証書授与もほぼぶっつけ。が、そうとは思えないほど、つつがなく進む。校長先生、来賓のお話があり、最後に卒業生の歌。

娘がピアノの前に座った。一息おいて、静かに前奏が始まる。

伴奏は脇役である。その脇役がしっかりしなければ、主役の歌が台無しになってしまう。

隊長と私はずっと見ていた。つまづいた箇所を何度も何度も弾いて指に覚え込ませたことを。合唱と呼吸を合わせるため、何度もネットで歌を聞いて、間を計っていたことを。「練習あるのみ」

力強い歌が体育館に鳴り響く。
わずか22人の1クラスだけの卒業式。美しく逞しい歌声。そしてそれを支えるピアノ伴奏。
やがて歌もピアノの静かに終わった。

色々あった六年間。これが娘の最後の努力と粘り強さの集大成とし、水上小学校を卒業する。

来月からは高崎まで通うこととなる。新たな第一歩を踏み出す。

若栗こども園、水上小学校、クラスメイト、先生、通学中に声掛けしてくれたおじちゃんらやおばちゃんら。
本当にお世話になりました。

ありがとうございました!!!

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2020年01月09日

顔のシワ

SNSなどに出てくる自動広告のワードが“美容”“若返り”“シミ”“シワ”・・・。
「あたしに対する挑戦か! しかもコスメの広告よりサプリの広告が多いってのは、どういうことよ!?」
と、怒りながらも、正直、気にはなる。顔にコンプレックスがアリアリなのは認める。

ふと顔にコンプレックスを抱えた少年の映画を思い出す。
『ワンダー君は太陽』だ。遺伝子疾患で人と顔が違って生まれてきた男の子の話。見た目を気にしてずっと自宅学習してきた彼が10歳になった時、両親はこの子を学校に通わせる。本人はもちろん、家族もかなり勇気の要る決断だ。初めて触れる家族以外の社会の中で、様々なことを学び、成長していく話。

最初は奇異の目に晒される。近づくと病気がうつるとすら言われ、いじめられる。なかなか友達もできず、半ベソで帰宅する我が子に、お母さんがこういうのだ。
「心は未来を映す地図。顔は過去を映す地図」
自分の顔にもシワがあり、このシワはこの時のもの、このシワはあの時のもの、と説明する。

なるほど。口元にある“ほうれい線”なるものを凝視。これらは笑っている時にできたもの。
生まれてきてから何度大笑いしただろう。友達と、家族と、仲間と。学校で、会社で、キャンプで、旅行先で。

目尻のシワも笑いと涙から。
であるなら、私の顔にできたシワは私の歴史であり、辿ってきた道で創られた地図なのだ。ひとつひとつに深い想いがある。涙したことも、今にして思えば通るべき道だったのかもしれない。

だからさ、若返りだの、シワ取りだのってあまり言わないでおくれよ、自動広告よ。あなたがどんなに効果があると勧める医薬(部外)品でも、それなりに愛着と思い出がある私の辿った地図は消せないのだよ。しかもシワの出方によっては、その人の人生の味になる。

ならばぜひとも、優しいおばあちゃんに見えるシワがいい。いつか隊長と暖かい縁側でお茶でも飲みながら、ゆっくりと二人で辿ってきた地図の話しをして楽しみたい。



とは言いつつも、やっぱり「若いね」と言われると小躍りしちゃう残念な私。今年も年相応に精進していきます。


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2019年12月18日

桜と母娘

昨日の新聞の片隅にあったニュースが目を引いた。

『某公園で、近くのサービス付き高齢者住宅に住む女性(88)が血を流して倒れているのを通行人が見つけ、110番した。同居する娘(70)は自宅で上半身から血を流した状態で見つかった。2人は搬送先の病院で死亡が確認された。娘は重病のため寝たきりで、遺体には外傷があった。警察署は、介護に悩んだ母親が娘を殺害して、無理心中を図ったとみて調べている。署によると、母親の持ち物や自宅からは「ご迷惑をおかけします。自殺します」などと書かれた遺書が見つかった。母親は約1カ月前から、施設関係者に「介護を続けるのが大変で将来が不安。金銭面も心配だ」と相談していたという』

小さな記事だが訴えかけるものは大きい。
人生の終盤を迎える年齢で、我が子を手に掛ける心情を思うといたたまれない気持ちになる。70年間も寄り添っていた母娘は、他の選択肢はなかっただろうか。

生まれた時は天使がやってきたと思ったことだろう。
初めて食べる甘いお菓子に喜んだ日。友達とケンカしたと落ち込んだ日。いい成績を取って喜んだ日。背伸びしてオシャレした日。熱で寝込んだ日。突然の嘔吐にあたふたした真夜中。些細なことで言い争った日。一緒に買い物に行った日。レストランで食事した日。桜の下で迎えた入園式、入学式、卒業式。
娘と過ごしたいろんな日はどれも、そこにいてくれるだけで幸せと思えたはずなのに。
どうしてこうなってしまったのか。

老老介護や認認介護は今や社会問題である。ゆえに各行政でも対策を施しているし、介護サービスに携わる人たちも日々頑張っている。

新聞は、こんな風に締めくくられている。
『署や施設関係者によると、施設では寝たきりの利用者に対し、定期的に体位変換やおむつ替えを実施。この日の早朝も看護師が2人の部屋を訪れたが異変はなかったという。この件でスタッフもショックを受けている』

体位変換やおむつ替えを実施していた施設スタッフ。この母娘のことを一番見ていたのは身近で世話をしていた彼らであろう。老老介護の大変さも充分すぎるほど解っているはず。この結末に対するショックはいかばかりか。

生命あるものは、必ずいつかそれを閉じる時を迎える。しかし人は人生の最期をそんな形で迎えてはいけない。後悔も反省も含め、最期は幸せな人生であったことを感じて天国に昇るべきだ。


直接は何もできないとしても、それでもこういった行き場を失った人たちに使ってもらうためにも、私たちは税金を出す。税は本当に必要としている人たちに使ってもらうものであると私は思っている。行政からなら弱い立場の人も遠慮なく使えるしね。

一介の田舎の主婦の私には、5500万円もの税金で開催する「桜を見る会」とかよくわからない。きっと偉い人たちがやってることだから、それなりに(先生方にとっての)意味はあるのだろう。

でもね、各界の功績はなかったとしても、あの母娘にも最期の公園では涙じゃなくて桜を見てほしかったなぁと思うわけよ。

集めた税金の使い方は、結局のところ国会議員が決める。「桜を見る会」にいくら使うか、老老介護にいくら使うか、もすべて。
ならば愛する人を手に掛けなければいけない社会にならないように、誰もが幸せな最期を迎えられるように使ってほしい。


この日、母娘のニュースの横には同じくらい小さく70代夫婦の介護疲れ心中のことが、そして上にはその何倍も大きくプレサンスコーポレーション(不動産屋さん)の21億円横領のことが出ていた。なんだか皮肉に感じるなぁ。

posted by Sue at 17:05| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年12月06日

親はこどもに何を教えるべき?

先日、ある人に「親はこどもに何を教えるべきだと思う?」と聞かれた。しばし考え込んだが、結局は「これです!」という明確な回答ができなかった。

そんな事のあった夜。何気にパソコンにある動画の整理をしていたら、9月に行った娘の小学校運動会の画が出てきたので、その動画を見ながら当時のことを思い出していた。

運動会の見せ場のひとつに高学年による組体操がある。児童の少ない娘の小学校は5年生と6年生合せても40名程度。夏休み明けから練習が始まるため、本番までは約2週間しかない。定番の扇、倒立、肩車、ピラミッドから大技タワーに至るまで、日々練習に励んだ。

身体の小さい娘は身体の小さい子たちと組む。倒立は2人組。娘は倒立をする役で家でも練習をした。ペアとなった脚を支える役の女の子も身体が小さく、あまり力が強い方ではないらしい。初めのうち、娘は何度も転んだ。支え役の友達も何度も娘の脚が顔に当たった。やがて娘は脚を預けることに、そして支え役の友達自身も娘の脚を受けることに自信を失い、娘は倒立が恐怖になっていった。

しかし運動会はやってくる。ペアの交代もない。そこで二人で「どうやったらうまくいくか」を話し合ったそうだ。その時、娘はあることに気が付いた。その友達は、どんなに娘の脚が顔に当たっても果敢に脚を受け取りに行く。彼女は受け取ることはできるが、支える力が弱くて離してしまうのだ。それに気が付いた娘は「〇〇ちゃんは絶対に脚を取ってくれる。だから大丈夫。後は私がしっかり脚を上げればいい」と思えるようになったと言う。
不思議なことに、支え役の友達にその話しをしたら、その時から二人の息が合うようになり、成功率が高くなったそうだ。
どうやら「あなたを信頼している」という気持ちが互いに伝わったようだ。

肩車はペアが交代する。娘は肩に乗る側となる。乗せる側の子も、娘よりは大きいものの、これまた身体の小さい子だ。力はある。しかし慣れない肩車は当然グラつく。それでも載せる側の子はしっかりと踏ん張って、何があっても娘を落とさないようにするそうだ。
「あきらちゃん、グラついたら遠慮しないで私の頭を持って!」と言ってくれたそうだ。本番まで、あーでもない、こーでもないと二人でベストな方法を模索していったらしい。

そして迎えた運動会。娘たちにとって、この運動場での最後の運動会になる。
児童数100余名の小さな小学校の運動会はつつがなく進行し、いよいよ組体操となった。
太鼓の合図で高学年が勢いよく運動場の真ん中目指して走ってくる。まずは個人種目。V字バランスやブリッジなど。続いてペア種目。いよいよ倒立だ。

今までの事を知っているだけに親の方が心配になる。ペアが互いに向き合う。緊張が走る。そして「倒立」の合図で娘が地面を手に付け、勢いよく脚を上げた。取った!友達は娘の脚をガシッと全身で受け取った。できた!
後でビデオを見てみると、顔を下にした娘が一瞬ニコッとしたのがわかる。脚をおろし、二人が向かい合った時、支え側の友達と娘とが顔を見合わせて、一瞬笑ったのもしっかりと映っていた。

肩車もグラつきなく成功。乗せる側の子は娘にガシッと頭を持たれながらも、しっかりと確実に立った。

そして最後の大技。運動会前日の予行演習ではうまく行かず、先生の厳しい指導が入っていた。これを外すわけにはいかない。小学生生活最後の大技だ。5年生6年生全員が中央に集まる。
すると低学年から「がんばれ~、がんばれ~」と大きな声援が飛び出した。予行演習でうまく行かなかったのを見ていたのだ。演技こそしないにせよ、高学年と気持ちが一緒になっている。みんなが見守る中、高学年の子どもたちは順に重なり合い、見事な4重の塔『名胡桃城』を造った。
実に立派な演技だった。


「子どもに何を教えるべきか」という質問に話は戻る。教えるべきことは山ほどある。しかし逆に私たち大人が子どもたちに教えてもらうことも同じくらいある。大人が教えずとも、子ども自身で学んでいることも少なくない。

小学校生活最後の運動会。わずか10分そこそこの組体操だったが、そこで感じた友情、信頼、そして成功体験は、きっとあの子たちのかけがえのない学びになったことだろう。

posted by Sue at 15:35| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする
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