2020年08月05日

アドベンチャーレースで得することある?

「アドベンチャーレースやってて、何か得することある?」
先日、娘に真顔で質問された。母は一点の曇りなく答えよう。
「ありません」

同様の質問を隊長に投げかけてみたところ、速攻回答。
「ないよ」
ほ~らね。得なんてないんだよ。

娘の質問は続く。
「得もないのにどうして続けてるの?」

一般的に至極当然の質問であるように思うが、アドベンチャーレースと共に育っていると言っても過言ではない、いわば生まれた頃から傍に猫ちゃんがいる的に、傍にアドベンチャーレースがある娘に対し、こういった疑問を持つことに親として安堵すべきだろう。

で、またもや隊長は即答。
「楽しいぢゃん!人生、楽し~♡」
ただ、そりゃ確かに、楽しいだろうよ。


最初は「楽しい」と思って始めた隊長。
その「楽しい」を追求し続け26年が経つ。経過途中には、さまざまなことがあった。

 出場に関する資金不足。
 多種目の装備を揃える資金不足。
 練習資金不足。
 メンバーが固定しない。
 シンプルなルールではあるにも関わらず、スケールの大きさに一般的に理解されにくい。
 観戦型のスポーツではないため、マスコミが追いにくい。

とはいえ、悪いことばかりではない。

 支援者、協力者が現れる。
 スポンサーが現れる。
 トレーニング生がやってくる。
 メンバーが固定する。
 レースに頻繁に出場できるようになる。
 興味を持つマスコミが現れる。
 人気番組に出られる。
 トレーニング生に力が付く。

陰には全面的にチームを支えてくれるカッパCLUBと、色物として取り上げるマスコミに左右されず、ひたすら応援し続けてくれる人たちの支えが大きい。


こうやって振り返ってみると、損得という小さなくくりではなく、次元が異なるもっと大きなもの、『得』ではなく『徳』に気が付く。私たちは『得』はなくとも、そこに『徳』があり、それにとても助けられている。



娘よ、お母さんは思うのだよ。
お父さんは、26年もの長い間、アドベンチャーレースを続けてきたことで、とても大切なことをひとつ作り上げた。それこそが『得』、つまり『得た』もの、《信頼》。金銭をいくら積んでも得ることのできない宝。

ひたむきに、真摯に、一所懸命にやり続けてきたことで得られたのは、人と人のつながりの中でなにより大切な《信頼》だと思うのだよ。これを作り上げるのはとてつもなく難しい。でも崩すのは一瞬。いわば《信頼》は、ひどく脆弱であり、飛び切り強靭でもある。

偶々ソフトが「アドベンチャーレース」だった。楽しいという気持ちが根本にあるから続けられた。お父さんに合ったんだね。
人はそれぞれ、自分に合ったソフトを通して生きていく。その根本に大切にしている何かがあれば、きっと続く。がんばって続けていれば、きっと理解者が現れる。理解をしてくれる人のためにも一所懸命に打ち込めば、それがいつしか《信頼》になる。

もちろん、途中には何度も《信頼》を崩されそうになる外圧も出てきた。「やるべきか、断るべきか」を悩む事も少なくない。でも、どちらに転んだにせよ、失敗したにせよ、真面目に続けれている限り、応援してくれる人はいる。田中正人という人をちゃんと見ていてくれる人がいる。《信頼》してくれる人は必ず、いるのだよ。

得にはならない。
でも、積み重ねてきた26年で、謀らずともとても大切なことを得てきた、と私は思っている。
だからきっと、これからも得にならないことを続けていくと思うよ。
困ったもんだけどさ(笑)


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2020年06月21日

キャラ柱たち

中学校に進学した娘。新型コロナウイルスの感染拡大防止により2カ月間もの休校が余儀なくされたが、やっと分散登校が開始された。
学校の方針で置き勉(置き勉強道具の略語で、資料や教科書を学校に置いていくこと)はNGのため、毎回10~15㎏もの教科書にお弁当と水筒を背負い、1時間半かけて登校。どこかの山に遠征に行くのかと思うほどだ。それも徐々に慣れ、友達とおしゃべりしながら学校に行くのも楽しいらしい。

娘の学校は中高一貫で、県内全域から生徒が集まっている。分散登校となった今は、クラス内を半分にし、一日おきの授業となる。ゆえに、まだ半分のクラスメイトとしか会っていない。それでもすでにクラスメイトとは仲良くなり、毎日がとても楽しいと言う。
「個性的な子が多いクラス」と言う娘。他の子から見たら娘も個性的なんだろうけど。
登校も公共交通機関を使い、校内には時計もチャイムもないため、時間管理はすべて生徒の自主性に任せているため、早め早めに動く子、ギリギリまで動かない子、要領のいい子、真面目を絵に描いたような子・・・。娘にとって授業も出会う人たちすべても新鮮で、帰宅後はマシンガントークで学校であったことを話す。

あるとき、クラスメイトがどれほど個性的かという話をしていたので、ふと気になって聞いてみた。
「個性が豊かであるということは、それだけ性格が合わない子もいるということ?」
これに対し、娘はぴしゃりと言った。
「性格が合うとか合わないとか、そういう次元じゃなくて、すべての子がキャラ立ちしてるってことだよ。鬼滅の刃で言う『柱』だよ。それぞれの個性を『柱』とするから、みんながそれを認めてるんだよ」

「も~〇〇ちゃんは、真面目なんだからぁ(笑) 真面目ゆえに宿題を教えて~~~~」と、キャラを認め、受け入れ、敬っている。決して非難するののではなく、愛おしく思っているのだ。
だのに私は人間関係は複雑なものだと決め込んでいた。なんという愚かな質問をしてしまったのだろう。


先日、プロ野球楽天のオコエ瑠偉選手がツイッターで、保育園で先生が「醜いアヒルの子」の絵本を読んでいると、他の園児が自分を見ながら笑っていたという経験に触れ、「俺が周りとは違うと初めて認識させられた出来事だった」と明かした。 親の似顔絵を描く際に、だいだい色をした「肌色」のクレヨンしかなかったのが悔しくて、涙ながらに茶色のクレヨンで描いたという。
「家のベランダから外を眺めながら、ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかなとか、考えてた」という。幼い子供がそこまで追いつめられることがあっていいのだろうか。
小学生以降も、上級生に肌の色をあざ笑われたり、「外人なんて高校野球で使うんじゃ無いだの、甲子園には黒人はでるな」という心無い言葉を浴びせられたりしたと言う。

今でこそ人種の異なる人たちは多く見るが、当時の日本はまだ少なかったのかもしれない。だからだろうか、自分らと違うことを嫌うようにも見える。
自分らと考えが違う人、好みが違う人、やり方が違う人、服のセンスが違う人、自分と違う生き方をしている人・・・なにかにつけて『違う人』を排除したがる。アメリカで黒人男性が白人警察官によって首を押さえつけられて死亡した事件も、根底にはそういった『違う人』を排除したがる意識があったのではないだろうか。


これから多くの『違う人』に出会うであろう中学校1年生の諸君。すべての人が『違う人』であり、その『違う人』が持つ違う部分こそが、自分にない素晴らしいものなのです。だから『違うこと』を受け入れて、むしろ評価してください。
「だって、みんながキャラ柱なんだよ」


posted by Sue at 14:31| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2020年05月09日

自粛ポリス・ストーリー

新型コロナウイルスの影響により、世界が危機に陥っている。
財政・経済も冷え込み、各国のGDPの成長率はマイナス。パンデミックが更なる不安を煽り、根拠のない噂からトイレットペーパーなど生活用品が店内から消えたことも。

感染恐怖と経済的不安の上に半ば強引な自粛でストレスが溜まり、私たちの心を蝕み始めた。
そこに現れたのが『自粛ポリス』。
感染者への誹謗中傷、県外ナンバーへの攻撃、営業している店舗への投石など、いささか度を越した他罰をする人たちが出てきたのだ。

ネットで専門家が「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」と言っていた。
もちろん人が集まる場所では自粛する必要がある。しかし感染者は誰一人として感染を望んでいた人はいないはず。お店にしても、止む無く営業しているところもある。今の状況はそれぞれが悩みに悩んだ結果の行動だとしたら?

以下、同専門家インタビューからの引用。
「生活への不安や欲求不満で、攻撃性が高まるんですね。みんな、イライラをぶつける相手を探している。それが家族への八つ当たりだったり、県外ナンバー車の監視だったり、お店や役所への文句なんでしょうね。ある意味、私たちの中にある防衛本能でもあるんです。不安が高まれば、自分を守りたくなる。それが『よそ者』への攻撃に向かっていくんです」

それが真実ならば、人の心は感染より恐ろしい。

営業し続けるには、きっとそれぞれ理由があるのだろう。勝手に想像して物語を作るとしたら、家族の生活を維持するため、人々のストレスを緩和するため、生活必需品を販売するため、大切な誰かと「命続く限り店を開ける」と約束したため、とか。
他人が知らない深い理由が、そこにはあるのかもしれない。


記事を読んでいて、ふと思う。
自粛ポリスは一般社会に似ている。

例えばオトナと子ども。
子どもがやることには意味がある。生まれたばかりの赤ちゃんにも、幼子にも、ティーンにも、それぞれに意味がある。オトナから見たら、それは必ずしも正しいものではないかもしれない。しかし、子どもは子どもなりに考えて行った行為である。

「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」
オトナは自分の意見が正義と思うから、堂々と子どもを諭そうとする。諭すだけならまだしも、叱りつけることで恐怖感を持たせ、子どもそのものをコントロールしようとする。
しかし、それは本当に正しい意見なのだろうか?
感情任せになってないだろうか?
自分の都合を押し付けてないか?

子どもはオトナの所有物ではない。子ども自身「個」である。もちろん成熟してない分、オトナが手を取り導いていくのだが、それでもオトナが知らないうちに子ども達は、それぞれが感じ、考え、吸収している。やがてオトナの言うことに疑問を持つようになる。それが「感情」や「都合」で発言されていれば尚更だ。


例えばアドベンチャーレース。
何日間も不眠不休で歩き続け、身体はボロボロ。力も出ない。関門時間が迫っていることは重々承知だ。時間がない。しかし、もう脚が前に出ないのだ。
体力が残るメンバーは先に進む。
「少しだけ休憩させてほしい」意を決して声に出す。
「俺だって脚が痛いんだから、お前ももっとがんばれ。制限時間が迫っている」苛立つチームメイト。
「ここで休んだ方がパフォーマンスがあがる」
「ならば、何分間休んだら前に進めるのか?」
「そんな問題じゃない。少しは相手の気持ちも考えてくれ」
どちらも自分なりの『正義』を主張する。相手の言っていることも理解しているのだが、引くに引けない。そうなると、ただ単に互いに自分の感情をぶつけ合っているだけである。
目指すは今ここでの感情の正当性ではなく、ずっと先にあるゴールテープなのに。


結局『何が正しいか』は、それぞれの環境や経験をベースに構成された思考に過ぎないのではないだろうか。


他人に誹謗中傷を撒き散らしたり、上から物事を言ったり、無視や投石や監視をしたって、事は思い通りになりゃしない。
目指すは休業や自粛ではなく、コロナを撲滅することにあるはずなのに。

ならば相手(たとえば子どもやチームメイト)の環境、経験、気持ち、痛み、考えなどを正しく聞いた上で、自分の考えを話すこともアリかと思う。それを相手が納得すれば、自粛をしてくれるかもしれない。少なくとも、どうしたらいいかを一緒に考えられるかもしれない。


さて、我が家にも3か月目の休業に入るティーンがいる。念願叶って合格した中高一貫校の制服は、まだ数回しか着ていない。新しい制服を着て登校できる日を待ち焦がれながら、親である私は生活ポリスにならないように意識したい。

でも、隊長が勝手に冷蔵庫のスイーツを食べてしまうことは、できる限り厳しく取り締まる冷蔵庫ポリスを意識していかねば。

posted by Sue at 14:36| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2020年03月26日

最後の試練

コロナウイルスの影響で小学校の休校が始まったのが3月2日。卒業式を縮小して執り行うという知らせがあったのも同日。

卒業式を控えた娘。
先生に依頼されていた卒業生の歌のピアノ伴奏を引受けたのが3月6日。卒業式まで残り20日のことだった。

とは言え、ピアノレッスンは9ヶ月前から辞めている。すでに学校はお休みだし、教えてくれる人はいない。歌と合わせることもできない。20日間でどこまでできるだろうか。
卒業を賭けた娘の最後の試練が始まった。

引受けた以上は全力で取り組む。
久しぶりに見る音符。指を慣らすために時間を見つけてはピアノに向かった。

学校が休みでは、歌と合わせることもできない。仕方ないのでネットでその歌の合唱を流し、それに合わせてタイミングやスピードの練習を繰り返す。

卒業式前日、数時間ぶっ通しで練習。卒業式は発表会ではない。6年生みんなの式であり、その親たちの、そして先生たちの式である。ミスは許されない。

たかが伴奏。されど伴奏。それを引き受けたことの責任を、小さな身体でひしひしと受け止めていたのを、隊長と私は感じていた。

ー 卒業式当日

朝少し練習したものの、証書授与もほぼぶっつけ。が、そうとは思えないほど、つつがなく進む。校長先生、来賓のお話があり、最後に卒業生の歌。

娘がピアノの前に座った。一息おいて、静かに前奏が始まる。

伴奏は脇役である。その脇役がしっかりしなければ、主役の歌が台無しになってしまう。

隊長と私はずっと見ていた。つまづいた箇所を何度も何度も弾いて指に覚え込ませたことを。合唱と呼吸を合わせるため、何度もネットで歌を聞いて、間を計っていたことを。「練習あるのみ」

力強い歌が体育館に鳴り響く。
わずか22人の1クラスだけの卒業式。美しく逞しい歌声。そしてそれを支えるピアノ伴奏。
やがて歌もピアノの静かに終わった。

色々あった六年間。これが娘の最後の努力と粘り強さの集大成とし、水上小学校を卒業する。

来月からは高崎まで通うこととなる。新たな第一歩を踏み出す。

若栗こども園、水上小学校、クラスメイト、先生、通学中に声掛けしてくれたおじちゃんらやおばちゃんら。
本当にお世話になりました。

ありがとうございました!!!

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2020年01月09日

顔のシワ

SNSなどに出てくる自動広告のワードが“美容”“若返り”“シミ”“シワ”・・・。
「あたしに対する挑戦か! しかもコスメの広告よりサプリの広告が多いってのは、どういうことよ!?」
と、怒りながらも、正直、気にはなる。顔にコンプレックスがアリアリなのは認める。

ふと顔にコンプレックスを抱えた少年の映画を思い出す。
『ワンダー君は太陽』だ。遺伝子疾患で人と顔が違って生まれてきた男の子の話。見た目を気にしてずっと自宅学習してきた彼が10歳になった時、両親はこの子を学校に通わせる。本人はもちろん、家族もかなり勇気の要る決断だ。初めて触れる家族以外の社会の中で、様々なことを学び、成長していく話。

最初は奇異の目に晒される。近づくと病気がうつるとすら言われ、いじめられる。なかなか友達もできず、半ベソで帰宅する我が子に、お母さんがこういうのだ。
「心は未来を映す地図。顔は過去を映す地図」
自分の顔にもシワがあり、このシワはこの時のもの、このシワはあの時のもの、と説明する。

なるほど。口元にある“ほうれい線”なるものを凝視。これらは笑っている時にできたもの。
生まれてきてから何度大笑いしただろう。友達と、家族と、仲間と。学校で、会社で、キャンプで、旅行先で。

目尻のシワも笑いと涙から。
であるなら、私の顔にできたシワは私の歴史であり、辿ってきた道で創られた地図なのだ。ひとつひとつに深い想いがある。涙したことも、今にして思えば通るべき道だったのかもしれない。

だからさ、若返りだの、シワ取りだのってあまり言わないでおくれよ、自動広告よ。あなたがどんなに効果があると勧める医薬(部外)品でも、それなりに愛着と思い出がある私の辿った地図は消せないのだよ。しかもシワの出方によっては、その人の人生の味になる。

ならばぜひとも、優しいおばあちゃんに見えるシワがいい。いつか隊長と暖かい縁側でお茶でも飲みながら、ゆっくりと二人で辿ってきた地図の話しをして楽しみたい。



とは言いつつも、やっぱり「若いね」と言われると小躍りしちゃう残念な私。今年も年相応に精進していきます。


posted by Sue at 11:51| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年12月18日

桜と母娘

昨日の新聞の片隅にあったニュースが目を引いた。

『某公園で、近くのサービス付き高齢者住宅に住む女性(88)が血を流して倒れているのを通行人が見つけ、110番した。同居する娘(70)は自宅で上半身から血を流した状態で見つかった。2人は搬送先の病院で死亡が確認された。娘は重病のため寝たきりで、遺体には外傷があった。警察署は、介護に悩んだ母親が娘を殺害して、無理心中を図ったとみて調べている。署によると、母親の持ち物や自宅からは「ご迷惑をおかけします。自殺します」などと書かれた遺書が見つかった。母親は約1カ月前から、施設関係者に「介護を続けるのが大変で将来が不安。金銭面も心配だ」と相談していたという』

小さな記事だが訴えかけるものは大きい。
人生の終盤を迎える年齢で、我が子を手に掛ける心情を思うといたたまれない気持ちになる。70年間も寄り添っていた母娘は、他の選択肢はなかっただろうか。

生まれた時は天使がやってきたと思ったことだろう。
初めて食べる甘いお菓子に喜んだ日。友達とケンカしたと落ち込んだ日。いい成績を取って喜んだ日。背伸びしてオシャレした日。熱で寝込んだ日。突然の嘔吐にあたふたした真夜中。些細なことで言い争った日。一緒に買い物に行った日。レストランで食事した日。桜の下で迎えた入園式、入学式、卒業式。
娘と過ごしたいろんな日はどれも、そこにいてくれるだけで幸せと思えたはずなのに。
どうしてこうなってしまったのか。

老老介護や認認介護は今や社会問題である。ゆえに各行政でも対策を施しているし、介護サービスに携わる人たちも日々頑張っている。

新聞は、こんな風に締めくくられている。
『署や施設関係者によると、施設では寝たきりの利用者に対し、定期的に体位変換やおむつ替えを実施。この日の早朝も看護師が2人の部屋を訪れたが異変はなかったという。この件でスタッフもショックを受けている』

体位変換やおむつ替えを実施していた施設スタッフ。この母娘のことを一番見ていたのは身近で世話をしていた彼らであろう。老老介護の大変さも充分すぎるほど解っているはず。この結末に対するショックはいかばかりか。

生命あるものは、必ずいつかそれを閉じる時を迎える。しかし人は人生の最期をそんな形で迎えてはいけない。後悔も反省も含め、最期は幸せな人生であったことを感じて天国に昇るべきだ。


直接は何もできないとしても、それでもこういった行き場を失った人たちに使ってもらうためにも、私たちは税金を出す。税は本当に必要としている人たちに使ってもらうものであると私は思っている。行政からなら弱い立場の人も遠慮なく使えるしね。

一介の田舎の主婦の私には、5500万円もの税金で開催する「桜を見る会」とかよくわからない。きっと偉い人たちがやってることだから、それなりに(先生方にとっての)意味はあるのだろう。

でもね、各界の功績はなかったとしても、あの母娘にも最期の公園では涙じゃなくて桜を見てほしかったなぁと思うわけよ。

集めた税金の使い方は、結局のところ国会議員が決める。「桜を見る会」にいくら使うか、老老介護にいくら使うか、もすべて。
ならば愛する人を手に掛けなければいけない社会にならないように、誰もが幸せな最期を迎えられるように使ってほしい。


この日、母娘のニュースの横には同じくらい小さく70代夫婦の介護疲れ心中のことが、そして上にはその何倍も大きくプレサンスコーポレーション(不動産屋さん)の21億円横領のことが出ていた。なんだか皮肉に感じるなぁ。

posted by Sue at 17:05| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年12月06日

親はこどもに何を教えるべき?

先日、ある人に「親はこどもに何を教えるべきだと思う?」と聞かれた。しばし考え込んだが、結局は「これです!」という明確な回答ができなかった。

そんな事のあった夜。何気にパソコンにある動画の整理をしていたら、9月に行った娘の小学校運動会の画が出てきたので、その動画を見ながら当時のことを思い出していた。

運動会の見せ場のひとつに高学年による組体操がある。児童の少ない娘の小学校は5年生と6年生合せても40名程度。夏休み明けから練習が始まるため、本番までは約2週間しかない。定番の扇、倒立、肩車、ピラミッドから大技タワーに至るまで、日々練習に励んだ。

身体の小さい娘は身体の小さい子たちと組む。倒立は2人組。娘は倒立をする役で家でも練習をした。ペアとなった脚を支える役の女の子も身体が小さく、あまり力が強い方ではないらしい。初めのうち、娘は何度も転んだ。支え役の友達も何度も娘の脚が顔に当たった。やがて娘は脚を預けることに、そして支え役の友達自身も娘の脚を受けることに自信を失い、娘は倒立が恐怖になっていった。

しかし運動会はやってくる。ペアの交代もない。そこで二人で「どうやったらうまくいくか」を話し合ったそうだ。その時、娘はあることに気が付いた。その友達は、どんなに娘の脚が顔に当たっても果敢に脚を受け取りに行く。彼女は受け取ることはできるが、支える力が弱くて離してしまうのだ。それに気が付いた娘は「〇〇ちゃんは絶対に脚を取ってくれる。だから大丈夫。後は私がしっかり脚を上げればいい」と思えるようになったと言う。
不思議なことに、支え役の友達にその話しをしたら、その時から二人の息が合うようになり、成功率が高くなったそうだ。
どうやら「あなたを信頼している」という気持ちが互いに伝わったようだ。

肩車はペアが交代する。娘は肩に乗る側となる。乗せる側の子も、娘よりは大きいものの、これまた身体の小さい子だ。力はある。しかし慣れない肩車は当然グラつく。それでも載せる側の子はしっかりと踏ん張って、何があっても娘を落とさないようにするそうだ。
「あきらちゃん、グラついたら遠慮しないで私の頭を持って!」と言ってくれたそうだ。本番まで、あーでもない、こーでもないと二人でベストな方法を模索していったらしい。

そして迎えた運動会。娘たちにとって、この運動場での最後の運動会になる。
児童数100余名の小さな小学校の運動会はつつがなく進行し、いよいよ組体操となった。
太鼓の合図で高学年が勢いよく運動場の真ん中目指して走ってくる。まずは個人種目。V字バランスやブリッジなど。続いてペア種目。いよいよ倒立だ。

今までの事を知っているだけに親の方が心配になる。ペアが互いに向き合う。緊張が走る。そして「倒立」の合図で娘が地面を手に付け、勢いよく脚を上げた。取った!友達は娘の脚をガシッと全身で受け取った。できた!
後でビデオを見てみると、顔を下にした娘が一瞬ニコッとしたのがわかる。脚をおろし、二人が向かい合った時、支え側の友達と娘とが顔を見合わせて、一瞬笑ったのもしっかりと映っていた。

肩車もグラつきなく成功。乗せる側の子は娘にガシッと頭を持たれながらも、しっかりと確実に立った。

そして最後の大技。運動会前日の予行演習ではうまく行かず、先生の厳しい指導が入っていた。これを外すわけにはいかない。小学生生活最後の大技だ。5年生6年生全員が中央に集まる。
すると低学年から「がんばれ~、がんばれ~」と大きな声援が飛び出した。予行演習でうまく行かなかったのを見ていたのだ。演技こそしないにせよ、高学年と気持ちが一緒になっている。みんなが見守る中、高学年の子どもたちは順に重なり合い、見事な4重の塔『名胡桃城』を造った。
実に立派な演技だった。


「子どもに何を教えるべきか」という質問に話は戻る。教えるべきことは山ほどある。しかし逆に私たち大人が子どもたちに教えてもらうことも同じくらいある。大人が教えずとも、子ども自身で学んでいることも少なくない。

小学校生活最後の運動会。わずか10分そこそこの組体操だったが、そこで感じた友情、信頼、そして成功体験は、きっとあの子たちのかけがえのない学びになったことだろう。

posted by Sue at 15:35| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年11月17日

子どもの頃に学ぶこと

先日、小学校6年生の娘の授業参観に行ってきた。

授業参観の内容は音楽で、先生が歌の脈絡や強弱を説明。「ここはどんな風に歌う?」という先生の質問に「優しく」「強く」「スムーズに」と子どもたちから思い思いの意見が出る。ひとつずつイメージして歌い、どれが一番いいかを決め、最後はそれを全員で歌う(発表する)という流れ。

6年生ともなると、恥ずかしさや声変わりが始まり、人前で歌を唄うことに抵抗感があるように思うのだが、娘のクラスはまったくそれがない。驚くぐらい大きな声でしっかり歌う。中には声変わりで低い音を出してしまう男の子もいるが、まったく気にせずに大きな声で唄う。しかも、とても楽しそうに。聞いている方もハッピーな気分になる。

参観後の保護者会で担任の先生がおっしゃった言葉が印象に残る。
「今まで何年も音楽を教えてきましたが(担任の先生は音楽専門)、こんなに声が出るクラスは初めてです。すごく上手で、少し語弊があるかもしれませんが、いい意味で恥ずかしさがないんです。とても『音』を楽しむことができる子たちです。だから今日は、そんな素晴らしい歌を聞いてほしくて授業参観に音楽を選びました」

隊長は音楽が苦手だ。彼は決して人前で唄わない。知り合ってから20年以上経つが、彼の歌はいまだに聞いたことがない。

「徳(あきら)のクラスがみんなの前で大きな声で歌が唄えるのは、お互いを信用しているからだよ。だから恥ずかしくないんだよ。
僕が小学生の時、僕のあまりの音痴さに先生が笑ったんだ。その時から僕は人前で歌を唄わなくなった。
徳のクラスはみんな仲がいいんだよ。だから声が出せるんだよ」

ありがたいことに、娘の学年(22人)は、保育園からこの年まで、いわゆる陰険なイジメの話しを聞いたことはない。もちろんケンカはある。チョッカイを出す子だっている。合う・合わないもあるし、好き・嫌いも出てくる。それは集団生活においてあって当たり前だし、そこから学ぶものだってある。それでも声をしっかり出して歌えるのは『信用』がベースにあり、その信用は互いの事をきちんと理解していることから成り立つ。

子どもらのそれは『相互理解』などという堅苦しいものじゃなく、もっとやわらかい感性で自分と違う人を受け止めているようにも思う。

小さい頃にこういったことを経験できるってすごいこと。これから競争社会の中に放り込まれ、あらゆる物事に優劣がつく事を目の当たりするだろう。小学校では計算や漢字を学ぶことは基本だが、それ以上に学ぶべき大切なことの基盤が幼少期からしっかりできていれば、本当の意味での未来を任せられる人になる。

大人になると知恵が付き、表には裏があることを知り、社会の仕組みが解るようになり、些細な見栄を張るようになる。更には自分と考えが異なる人は劣とみなす。平気で陰口を言い、自分が正しいと主張し、相手を責める。

この感覚が子どもらにパスされるから怖い。子どもは互いの違いを理解しているのに、親はそれを異種とする。親の言うことが正しいと思うと『異種』はやがて『ダメな人』となる。その子の話を聞いていれば、お家で(親が)話していることが露骨に見えてくる。


「お友達とは仲良くしなさい」
そんなことを涼しい顔で言う癖に、自分は仲良くしようとしない。せめても黙っていればいいものを口に出てしまうから始末が悪い。子どもは混乱するだけだ。
大人は『異種』と撥ねつけようとも、子ども同士の『理解』という感性を挫くようなことはしてはいけない。

自分の幼少期にもあったであろう『異なる事への理解』。親となった今こそ必要だということを思い起こさせてくれる授業参観であった。
posted by Sue at 16:28| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年11月08日

毒親のデトックス

最近よく目にする「毒親」。過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに支配したり、自分を優先して子どもを構わなかったりする親のことを言う。

毒親と言われる人たちは、自分に悪いことをしている意識はなく、我が子を思って、我が子をちゃんと、正しく、良い子に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう場合が多いという。

私は感情的になることが多い。映画や本でもすぐに泣いちゃうし、人の話を聞くと簡単に同調して泣いたり怒ったりするし、褒められると調子に乗っちゃうし、妄想でゲラゲラ笑ってるし。

感情にドタバタな起伏がある。この厄介な感情の一番の被害者は娘である。特に娘を叱った後、猛省をする時がある。「あの言い方はまずかったかな」とか「怒りすぎたかな」とか。で、落ち込む。
さっきまで怒りまくってたのに、今はドヨ~ンと落ち込む姿に、娘は理解に苦しむだろう。反省するなら言わなきゃいいのに、その場になるとどうにもコントロールができなくなってしまう。う~ん、私は結構な毒親なのかもしれない。

自分のやっていることが絶対とは思わない。時には間違っている。この叱り方は間違っているとわかっても、一度噴火したらなかなか鎮火しない。

感情をコントロールするのは難しい。泣いて、笑って、怒って、そしてまた泣いて。そんなコロコロと変わる感情を、きっと周囲は扱いにくいだろう。「お母さん、今日は不機嫌だね」「お母さん、今日はご機嫌だね」なんて。家族が私に変な気遣いしていると思うと、またもや不機嫌になるもんだから、厄介だ。あ~それじゃダメじゃん。



毒親は家庭での子育てのみならず、社会組織でも然り。部下や後輩は子どもではないから、上司(先輩)は毒親とは言わないにしても、毒親の定義である「自分に悪いことをしている意識はなく、部下(後輩)を思って、部下(後輩)をちゃんと、正しく、良い部下(後輩)に育てようと思うからこそ、そのような接し方になってしまう」は当てはまることもある。

新入生は知らないのが当然。一度言えばわかるだろう?は、言い方による。一度言ってわからない場合は自分の言い方を見直した方がいい。

叱るだけなら親や上司(先輩)じゃなくてもいい。でも叱った先にあるもの、上司(先輩)ならば指導だったり指示だったり、親であれば導きであったり、正しい方向を教えてあげなければ、それこそ毒親になってしまう。

子どもは間違いをしながら成長する。部下(後輩)の失敗も必要悪なのだ。失敗して学んでいくもの。自分もやってきた。だから親や上司には、そんな失敗や間違いを包み込む余裕がほしい。

感情が激しいのは悪いことだとも思わない。喜怒哀楽が豊かの方が、のっぺらぼうな人生よりも楽しい。だから自分の気持ちを大切にする。感情も大切にする。それと同様に子どもの気持ちも大切にする。子どもの感情も大切にする。そうやってデトックスしていけたらいいな。

あ、でも鬼軍曹の言動は必要悪であり、デトックスはできないと、この場は解釈しておきたい。


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2019年08月06日

「労働」は日本の義務ですが何か?

長い梅雨が明け、日本列島が猛暑に覆われた。熱中症で倒れたというニュースが各地から入る。ここ数年の夏の暑さは異常だ。

この暑さは、人の心から穏やかさを奪うのだろうか。

この町には、スーパーの駐車場に大型廃品回収ボックスが設置されている。ここに新聞紙、古紙、段ボールを持っていくと重さがポイントに換算される。ポイントにもなるし、リサイクルにもなるし、この便利なシステムを利用している人は少なくない。

ある昼間。風もなく、太陽の熱が直接肌に突き刺さり、何もしなくてもベットリした汗が出てくるこの日、新聞紙を持ってスーパーに行った。丁度そこに回収業者のお兄さんがボックスに溜まった廃品をトラックに移す作業をしていた。首に掛けたタオルで汗をぬぐいながら、中腰にしてトラックにバンバンと勢いよく古紙などを投げいれていた。

間が悪かった。移動作業が終わろうとする頃に私が来たのだ。ボックスの前に駐車した私の顔を見るなり、大きな舌打ちをし「マジか!」と不快感をMAXに表した。
私は何かものすごく悪いことをしたような気分になり
「後にします」と言ったら
「ちっ、いいっすよ、もう」と面倒なものを見るように私を睨みつける。
辞めようかと思ったが、そこで引くのもどうかと思い、ひとつにまとめた新聞紙をボックスに入れた。
「はぁ?これ?」誰に向かって言うでもないお兄さんの声は小さかったが、私に聞こえるほどであった。どうして新聞紙が気に障ったのか分からない。それでも
「すみません。よろしくお願いします」と言って、そこからさっさと離れた。
私の後ろには、他の車が順番を待っていた。この人もこれから嫌な想いをするのかなと思うと、なんだか気の毒に思えた。

あまりにも理不尽に感じて、この話しを隊長にしてみた。隊長は淡々と言う。
「自分の仕事に誇りがないんだろうね、そのお兄さん。結局は、やらされ仕事なんだよ。だから不満が募る。どんな仕事であれ、自分のやっていることに誇りを持てば、そんな態度はとらない」
なるほど。私たちは嫌な想いをするのはその瞬間だけど、お兄さんはずっと嫌な想いで仕事をしてるのかと思うと残念だ。しかも廃品回収は環境保護に貢献した大切な仕事だ。うんと誇りを持つべきである。が、この暑さじゃ外での肉体労働は不快が120%にもなるだろう。

しかし、同じく肉体労働をしている工事の人だって、交通誘導するガードマンだって同様な環境にいる。しかも廃品回収のお兄さんは、回収が終わればエアコンが効く車内に戻れるが、工事の人たちは外に出たままだ。その人たち全員が、賃金目的のやらされ仕事ではないだろう。住民のため、笑顔のため、安全のため、オリンピックを成功させるため、社会のため、未来のために猛暑の中、働いている人もいるはず。

日本において労働は義務になる。どうせは働かなくちゃいけないなら、賃金目的だけではなく、「○○のため」に働いたらどうか。その方が絶対に楽しいし、自分の存在価値も大きく思える。

あなたは何のために働いていますか?

呼吸すら困難な満員電車に運ばれ、夜遅くまで、休みも返上して、失敗を繰り返して、終わりも見えず、毎日クタクタになって…。それでも働くのは、その先にある「○○のため」があるから。だから人は頑張れる。

廃品回収のお兄さんにも、ぜひ「○○のため」を心に想ってほしい。そしたら終盤に新聞紙を持ってきた面倒なおばちゃんのことも、少しは許せる余裕ができるかもね。


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2019年03月20日

世界の車窓から ~今日は長野です~

隊長、列車の旅。

着替、シューズ、アドベンチャーグッズ類など、でっかいダッフルバッグに詰め込んで、かなりな重量で、いざ出発。
電車には手荷物超過料金が発生しないことが有難い。

さて、新幹線を2本乗継ぎ、在来線も2本乗継ぎ、長野県某所へ。

長い列車の旅は、仕事もやれるし、景色や駅弁も楽しめるし、本も読める。初春の車窓を楽しみながらウトウトするのも気持ちがいい。
ローカル線ならではの良さがある。
まるで「世界の車窓から」を思わせる。
いいな、いいな。在来線のゆっくりのんびり一人旅。


それなのに・・・・
嗚呼、それなのに・・・

やらかした。
またもや奴は、やらかした。

そろそろ到着しただろう思う時間に一本の電話。
「ダッフルバッグ、金網に置いたまま下車しちゃった。これから会議があるから、駅に電話して探しておいて」

バッグがないことに気が付いたのは、最終目的地について、しばらくしてからだそうな。

どこをどうやったら、あんだけ目立つ荷物を忘れる?
そもそも、あれだけ重い物が途中でなくなったということに、なぜ気が付かないのだろうか?

まぁ、あの巨大な荷物を持って行こうとするのも勇気がいるゆえ、盗まれてはいないだろう。逆に発見して金網から下す方が気の毒だ。

駅には直接電話できない。ゆえにJRの忘れ物センターさんに問い合わせるしかない。問合せ続ける事、2時間。ようやくダッフルが見つかった。しかもかなり手前の駅に預けられていることが判明。

「〇〇駅にあるって」と伝えたら、喜ぶどころか、返ってきた言葉が
「厄介な駅に行ってしまった感じ」

カチッ(スイッチオンの音)。
「あんたがこの厄介をやらかしたんだろーがーーーーー!!!!!」

というわけで、帰りに引き取りに行きましたとさ。

皆様、春です。桜の開花も間もなくです。社内に御忘れ物のないように。

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2019年03月14日

インフルエンザ

卒業式シーズンの今頃、水上小学校ではインフルエンザが蔓延し始めた。
ご多分に漏れず、娘もAをゲット。

一番近い町医者に行く。医師はおじいちゃん先生。水上地区に1軒しかない、町民に寄り添った病院だ。
以前はタミフルが特効薬だったが、今では1錠その場で服用するだけの新薬を処方してもらった。
「ここにも新薬があるんだ」
隊長と二人で少々驚いたものの、お蔭で娘の熱も翌日は引いた。

が、今度は私の体調に異変が!朝から脚や喉が痛く、頭がボーッとする。熱を測ると37.5。ありゃ、そこそこある。娘と同じ症状だし、熱の出方も同じ。うん、間違いない。インフルエンザAだ。

そう思って急いでおじいちゃん先生の病院へ。
「昨日、こどもがインフルでここにお世話になりました。私も映ったかもしれません。今朝から熱が出てるんです」
「インフルエンザってのは発熱してから24時間しないと反応しないよ。反応しないと薬出せないよ」と先生。
「でも、娘がキャリアなんだから間違いないですよぉ。絶対に陽性反応が出ます!」と胸を張って言い切ってみる。

結果、陰性。

先日よりワイドショーを賑わせている某俳優のコカイン使用は24時間で反応が消えるそうだ。なのに、なぜインフルエンザは24時間待たなくちゃいけないのよ!?インフルエンザの方が早急な対処が必要な人の方が世の中には数千倍いるはずだ!

「悔しいので夕方に来ます」と言って帰宅。もう立っていられない。布団に横たわる。
夕方、「そろそろ病院が閉まる時間だから、行っとく?」と隊長。
熱を測ると38.5度。ほ~ら、上がってきた。ともかく1錠で治る薬がほしい!
隊長に車を出してもらい、満を持しておじいちゃん先生のところへ。

受付窓口のお姉さんも面倒がらずににこやかに対応。診察室に入ると、おばあちゃん看護師さん(この人が、また優しいおばあちゃんなのだ)が「いらっしゃい」と言わんばかりに受け入れてくれる。

24時間以降だと言うのに、それ以前に足を運んで検査を受ける面倒な患者を嫌がらず、受け入れてくれるのは有難い。しかも、この患者(つまり私)、絶対にインフルだといって聞かないもの、まったく手間がかかる。

本日二度目のインフル検査。
陰性。

「いやいや、絶対にインフルですって!おっかしいなぁ~~~」
どうしても結果に納得がいかない。

「解熱剤出そうか?」とおじいちゃん先生。
「いえ。悔しいから明日、また来ます」

待合室で待っていた隊長は、私が首を横に振ったのを観てゲラゲラ笑いやがる。
ふん!
「I’ll be back」

その晩、熱は38.3度。よい具合に体がウイルスと闘っていた。
熱のせいか、頭痛がする。越えなくては。明日の朝には薬が飲める。痛みの中、一晩じっと耐えた。

そして翌朝、熱を測ったら37.3度。ん?熱、収まりつつある?あかん、あかん。新薬もらって速攻で治すんだもん。今、おちついたらあかんよ。

発熱してからしっかり24時間待った。午前中の診察が終わるギリギリ時間におじいちゃん先生のもとへ。病院はもう待っている患者さんはいなかった。
「一晩経ったね。出るかな」

三回目のインフル検査。

先生はそういって長い綿棒を鼻にググ~~~~。三回目だけど、やっぱり慣れないな、これ。液体に浸け、それを反応器材に置く。

反応が出るのに5分待たなくてはいけない。
他にはもう患者さんがいないから、別室でも待つ必要もなく、おじいちゃん先生と無言の5分。なんか気の利いた世間話でも・・・と思った時、暇を持て余したのか、先生は聴診器を耳にあてて「あ~ あ~」ってやりだした。これ、志村けんのコントで観たことあるけど、お医者さんって本当にやるんだ、としばし感動。

ふと検査器に目をやるとAの箇所にうっすら反応が!
「あ!!出てます、出てます!!」と、つい小躍り。
「これ、移動中ね。まだ5分経ってないよ」

移動中ってのは何なだろう?
インフルが「Aにしよっかな~ Bにしよっかな~」って、ココ壱カレーにしようか、吉野家牛丼にしようか迷っているようなもんなん???

結果、陰性。

「こりゃ風邪だね。お薬、出そうか?」
「・・・・。もう大丈夫です。・・・お薬要りません」

待合室にいた隊長は、ことの流れを把握していたようでゲラゲラ笑っていた。

けど、絶対にインフルエンザだったに違いない。
まぁ結果的に良かったのだろうが、なんだか悔しさが残る。

というわけで、今はお熱も下がり、食欲も出てきました。
明日、娘の治癒証明書を取りに行きます。そのとき、もし熱が出てたら、また検査してね。
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2019年01月25日

宝にするか、ガラクタにするか

少し前に目にしたニュース。
こちらは小学校2年生の算数のテスト。不正解の算数の回答の理由が難問すぎる、というので話題になっている。

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三角や四角形の描図が不正解。
不正解の理由は「線がずれているから」と「直角記号がないから」であった。ちなみに小学校2年生は「直角記号」はまだ習っていないらしい。

ぱっと見は正解とも思えるが、よほど厳格に正確性を要するテストだったのだろう。しかも未習内容がテストに出るとなれば、かなり前を行く学校とも見える。相当な進学校なのだろうか。不器用な私が、小学校2年生の時にこの先生に当たっていたら、かなり辛かっただろうなぁ。

もしかすると、この先生はテスト前に「線が少しでもずれたら、それは四角形でも三角形でもありません」と説明したのかもしれない。
でも、もしこの生徒が私くらい不器用であって、それでも精いっぱい丁寧に描いた図だとしたら?
先生はそこを評価してくれるだろうか。それとも厳粛な結果のみを評価するだろうか。

結果は大切だ。それは目標ともいえる。勉強であれ、スポーツであれ、仕事であれ、みんな目標(結果)に向かっている。ゆえに正しく描画すること、つまり結果はそれまでの集大成である。

しかし、本番でどうにもうまくいかない事もある。間違える時だってある。
ならば、せめても努力を評価する人が近くに一人いたとしたら…。どこが違って、どう正していけばいいのかを一緒に考えて、一緒に練習すれば…。
この生徒はきっと次は線をはみ出さずに図形を描くことができるだろう。

間違いは宝である。放っておけばカラクタになる。
間違いからたくさんの学びや気づきがある。奮起する糧でもある。そして、そこを正していく過程で絆や信頼が生まれることもある。言うなれば、子どもの間違いは、本人だけではなく、周囲の大人、特に親や教師にとっても宝である。宝にするかガラクタにするかは、大人次第でもある。

私もいくつかの宝をガラクタにしてしまった。間違いに気付いても、そこから逃げた。あの時、やってしまった間違いに目を背けなければ、もっと大切な友情が生まれていたのかもしれない。もっと信頼関係が築き上げられていたのかもしれない。もっと心の豊かな人になっていたかもしれない。

今からでも遅くない。自分がやってしまった間違いにひとつひとつ向き合い、反省し、ガラクタを宝に変えていこう。やがて娘にちゃんと渡せるように。



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2019年01月17日

まわるまわるよ、時代はまわる

来年度、イーストウインドには3人の若者がトレーニング生として入団する。それぞれが安定した職を持っているにも関わらず、どうしてもアドベンチャーレースをやりたいという熱い気持ちが煮えたぎったと言う。いいねぇ、その熱き血潮!

彼らは20代。私は実に彼らの親世代になる。
20代の頃は「新人類」と言われた私たちが親となるのだ。バブル全盛期、売り手市場だった新人類社会も、いまや景気回復もぐらつき、大手企業も経営を彷徨う時代。そんな時代だからこそ、安定した職業に就くのは、ある意味「勝ち組」(って言葉もすでに古いけど)なのかもしれない。

もしうちの娘が成人だとして、「どうしてもやりたい」と安定職を投げ捨ててまで身を投じる不安定な未来に向かうと言い出したら?

「やめておきなさい」「生活ができない」「収入なければオシャレするどころか、服も買えない」「貯金もできない」「旅行もできない」などなど。

う~ん、どんな事を言ったところで隊長と私じゃ説得力に欠けるなぁ。

まぁ、生きていくにはどうにかなるか。ならば、やりたいことをやりなさい。それが人様に喜んでもらえる事なら尚よし。若いうちは苦労をすることも特権だ。
と、言うような気がする。

「すべてを擲ってでもやりたいこと」が見つかるのは、本当はすごく幸せなことかもしれない。たとえそれが周囲に理解されず、誰が見ても「こっち方が絶対に得なのに」と思われても、それでも「これだ!」と思うことに巡り合えるのは、何百分の一の巡りあわせなのかもしれない。

私たち大人は自分の経験で物事を判断してしまいがちだ。もちろん経験に基づく判断はとても大切で、おそらく9割が正しい。そうやって私たちは先人の知恵を継承して安全に暮らしている。

しかし時代は変わる。環境も変わる。
バブリーでやりたい放題ではあった一方で、自分の足でその場に行き、直接人と会い、自分の目で物を観てきた私らの青年時代。
今は動かなくても端末を通して知らない人とチャットし、クリックひとつで欲しい物が手に入る。小さな端末の中に人も物も情報も選択肢が無限に詰まっている。

いうなれば自分の生き方も選択できる。良くも悪くも自分の気持ち次第で動ける時代なのだ。
こうして私たちは先人の知恵をその時の環境に適合させていきながら、生まれた時代を生きていく。

今私たちが経験していることも、やがては「先人の知恵」の一部となるのだろう。その中で、苦労から生まれてくる知恵はもっとも貴重な財産となる。

だから、娘よ。やればいい。苦労しながらも、尊い巡りあわせに感謝し、突き進むがいい。

私たち大人は若者たちにその機会を与えよう。「こうしなさい」と指示や命令するのではなく、道を間違えないように、人を傷つけないように、良い方向に導きながら、穏やかに見守っていこう。
その先にあるものが何かは、若者自身が発見し、意味を学んでいくだろう。大人が教えなくとも、自身が掴んでいくだろう。


そんな事を想う中、相方の「パワハラ上等!」男は、今日も除雪車に対抗し、パワハラ全開で雪掻きしております。



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2018年08月31日

暴力的指導

先日、実家に帰省した時に久しぶりに弟と酌み交わしながら、小・中学校の頃の話になった。

いい悪いは別として、私たちが子供のころは、暴力指導は当たり前にあった。特に力を入れている運動部のコーチや顧問教員は、弛んでいる(と思われた)生徒を張り倒している光景をよく目にした。

私も竹刀みたいなので叩かれた覚えがある。たしか、掃除をさぼって遊んでたとか、宿題を忘れたとか、そんな理由だったように思う。私ら生徒は文句言わず、痛みに耐えてたっけ。自分らが悪いというのを分かっていたし、叩かれるのは許される時代であった。

しかし、不思議なことに暴力を振るった先生の記憶はあまりない。確かに「よく殴ってたなぁ」とは思うものの、その程度の記憶だけだ。

それよりも、言葉や態度で傷をつけてきた先生の方がずっと記憶に残っている。

話は中学生のころ。そもそも運動が得意でもないのに、なぜだか私はバスケットボール部に入部した。いまだ、どうしてそれを選んだのか、まったく分からないし、覚えてもいない。かっこいい先輩がいたとか、仲良しの友達がいたとか、そんな記憶もない。
いつもの「なんとなく」だったのかもしれない。
面白いくらいに運動できないから、当然オミソ。3年間続けていたことすら不思議だ。

そんなバスケ部生活で3年生最後の活動は試合だった。うちの学校は負けていた。勝負は見えていた。最後の試合だし、それならと、顧問の先生は3年生を順番に試合に出した。

私以外の3年生全員を。

勝てる試合であれば理解できる。しかし、どうあがいても残りの時間に勝てる見込みはなかった。
その先生は意図としてそうしたのかもしれない。私を嫌いだったのかもしれない。私の存在を忘れたのかもしれない。いずれにせよ私はそこに居ながらも「いない存在」になった。

その先生とはその後一言も口をきいてない。卒業する日まで顔を見ないようにしていた。見れば「存在しない自分」が映し出されるから。

あれから30年以上も経つ。しかし、その顧問のことは今でも強烈に覚えている。憎しみとか悔しさとかではなく、ただ深い哀しみの記憶として。



さて、最近、新体操界でコーチによる暴力行為が話題になっている。

オリンピック有力候補の選手にコーチが暴力を振ったとか。暴力指導に賛同するわけではないが、熱が入るあまりつい手がでてしまったと思えば、わからなくもない。
未成年のその選手は、それでもそのコーチに指導を乞い、しかも擁護するくらいだから、愛情あっての行き過ぎた加熱指導だったとも思える。
一方で、その選手の話によれば、暴力を振るったコーチより、言葉で圧力をかけてきた強化担当者の方がパワハラ行為だとか。その強化担当者も言い分があるようだから、この件はしばらくは平行線だろう。


ただ大人として覚えておきたい。
言葉の暴力は、肉体の暴力と同じくらい、いや、ひょっとしたらそれ以上に子どもに傷を残すことになるかもしれない。私の心にいまだに哀しみの傷が残っているように。

「あなた(子ども)のためだから」は、本当に子どものためなのか。自分のためではないのか。何のための指導なのか。何のための教育なのか。体裁ではないか。見栄えではないか。その場の感情ではないか。

隊長も、いまや指導する側である。
某番組ではパワハラ全開キャラとされているが、殴り指導は後にも先にも陽希の1回きりだ(たぶん)。それまでの陽希の言動に業を煮やした隊長が「今からお前を殴る。歯を食いしばれ」と言ったら、陽希も陽希で「お願いします!」と直立不動になったと言う。わかっていたのだ、彼自身がやってしまった失態を。

あの二人には、師弟関係を越えた何とも強い絆を感じる。だからそんな行為ですら、安心感もあり、他人には入れないものがある(クラッチは慌てて止めに入ったけど)。
そんな揺るぎない師弟関係って、なんだか羨ましい。

あ、でも暴力はいけません。言葉の暴力もいけません。態度の暴力もダメです。

隊長のパワハラ発言は番組構成上のこと(だと思う)。そもそもアドベンチャーレースは信頼関係なくしてゴールできない。彼ら4人は、互いに敬意を払い、互いを支えあい、互いを信頼しているからこそ、あの過酷な状況を切り抜けることができたのだ。


だから私も娘には優しくします。できたことは褒めていきます。
隊長のレース後の洗濯物をトイレ便座シートと一緒に洗うのもやめます。
態度、改めます。





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2018年08月05日

素直に「ごめんなさい」と言っていますか?

異常な暑さの今夏。これまでクーラーは不要だった我が家。いよいよ購入を考える時がきた(こうして考えている間に秋がやってくるわけだけど)。

我慢しようと思えば我慢できるが、扇風機の風も生暖かく、嫌な温度で肌に絡みつく。う~むイライラする。

夏休み中の娘も、宿題しながらこの暑さに苛立つ。
いつもより長い時間一緒にいると、些細なことが気になり、つい口が出てしまう。この暑さが余分なストレスをもたらしているのは間違いない。

その言い争いは、ほんとに些細なことで始まる。だから、すぐに「ごめんなさい」と言えば終わる。しかし、その一言が出てこない。
「ありがとう」は言い易いが、「ごめんなさい」はなぜか言い難い。

自分が間違っていると薄々わかっていても、一所懸命に言い訳を探して、さも正しいのだと主張する。私たちは、そんなことばかりが得意になってきていて、素直に「ごめんなさい」と言えなくなってきている。

「どうしてそんなことをしたのか?」
この質問は言い訳を引き出している。

たとえば宿題を忘れた子どもにとって「どうして忘れたのか?」に深い理由はあまりない。しかも、忘れたことを責めているのであり、その理由なんてどうでもいい。当然、聞いたところで納得のいく回答はまず得られない。つまり、ハナから納得のいく回答を得ようなどと思ってない質問なのだ。

そもそも私が「ごめんなさい」と言えないんだから、娘だって言えるわけがない。結局、素直に謝る姿勢を娘に見せてないのだ。逆に娘に「お母さんだって・・・・」と責められることがある。こうなったら引くに引けない。


「正しいのは自分、悪いのは相手」
その考え方は人間だけだろうか。
相手の指摘に対してカチンとくるという事は、的を射ているという事。的を射ているからこそ、カバーを掛けて隠しておきたい。人は自分自身を守るため、言い訳で武装する。指摘を素直に受け入れることは、思った以上に難しいのだ。


問題となった某大学アメフト監督にせよ、言動がおかしいということは自分自身が一番分かっているはず。
自分がおかしいと思うことは素直に認めて「ごめんなさい」と言えるようになれば、世の中のヘンテコなパワハラはずいぶんと減少すると思うのだが。
なぜかプライドがそれを邪魔する。
やがては、そのプライドによってすべてを失うことを、その時気が付いていたら・・・。


自然と言い訳を探していないだろうか?
悪いと思ったことに対して素直に謝っているだろうか?



さて、5月に参戦したExpedition Africa(南アフリカ)のレースが間もなくテレビで放送される。今回も過酷な環境の中で、余分すぎるストレスに襲われながら、チームや自分自身と向き合って進む姿が映し出される。

どの国のどの選手も素直に受け入れることの難しさと戦いながら、このレースに挑んでいる。そして、その戦いは人を成長させる。そんな成長ぶりもひとつの見どころとして、ぜひ楽しんでほしい。


『クレイジージャーニー ゴールデンSP』
8月8日(水) 夜9時~
TBS系列にて全国放送


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2018年05月22日

Expedition Africa 2018

南アフリカのケープタウンで開催されているアドベンチャーレース「Expedition Africa」。イーストウインドはそのレースに出場し、今、まさに苦闘の真最中である。

この大会に出場するにあたり、海外レースが初めてなのはもちろん、国内のレースも出場経験もほとんどない安田光輝(キラリン)と米元瑛(ヨネ)を起用。
ここに紅一点の西井万智子(マチマチ)。今回はマチマチにリーダーを任せた。イーストウインド始まって初の隊長以外のキャプテンである。

実は今大会のメンバー編成にあたり、隊長と幾度も幾度も相談をした。

キラリンは昨年からトレーニング生としてカッパクラブにやってきた。正直、器用ではないが、真面目にコツコツと積み上げていくタイプだ。学生時代は山岳部だったキラリンだが、川の事は未経験。アドベンチャーレースをやりたくて、勤務していた会社を辞め、イチからリバーガイドの修行を始めた。海外レースに出るにはまだスキルが完全ではない。しかし、ともかくひた向きに頑張る。未来に向かって一所懸命だ。こういう青年はきっと伸びる。信頼もされる。

ヨネは今年4月に仕事を辞めてカッパクラブにやってきた。子どもの時からアドベンチャーレースで世界の舞台に立つことが夢だった。学生時代はレースラフティングをやっていたこともあり、川に関してはキラリンよりも経験がある。彼のことを何も知らない私たちにとっても、イチカバチカだ。面接に来た日に「5月に南アフリカのレースに行くから」と伝えた。子どもの頃の夢が目の前にある。驚いていたが、気合も入った。そこから一カ月半、日々トレーニングに励んだ。

そして今年4月にトレーニング生を卒業したマチマチ。初めて海外レースに出たときは自転車に乗りながら泣いていた。そこから幾度もレース経験を重ね、体力もメンタルもずいぶん強くなった。隊長から「今回はマチマチをリーダーにしたいと思う」と言われた時、少し驚いたが大賛成をした。最初は受け身だったが、今では積極性が出たマチマチ。リーダーとして人を引っ張る役割を担うことは、彼女を確固たるものへと導くはずだ。

今回、マチマチもキラリンもヨネも20代。そしてマチマチ以外はレース経験が皆無に等しい。しかし、誰でも「初めて」はある。タイミングを計っていたら、彼らにとっての好機を逃すかもしれない。彼らにチャンスをあげたい。


隊長は、アドベンチャーレースに出会い、熱意があれば人を動かすことができるという事を学んだ。今の科学を駆使してもコントロールできない自然の偉大さ・素晴らしさ・脅威を学んだ。エゴがむき出しになる人間関係から本当の自分・仲間との絆が生まれる瞬間を学んだ。今度はそれを伝えていく(その機会を与える)番だ。

隊長はよく言っている。
「アドベンチャーレースを始めた頃は体力や技術があれば勝てると思った。だから人一倍トレーニングをした。荒れた海にカヤックで出ても技術があれば乗り越えられると思った。でも体力があった最初の頃の方がリタイヤが多かった。
わかってなかった、自然の法則に従うことが大切だったってことを。
自然の力を利用していけるようになったらリタイヤしなくなった」

20代の3人もこれが解るには、もう少し時間がかかるかもしれない。時には痛い目に遭うこともあるだろう。今がまさにそのチャンスである。

大会は今日で3日目を迎える。他のチームもここまで不眠不休で進んでいる。そろそろ疲れが出てくる頃だ。そして一番厄介な睡魔とエゴが出始める。同じ年頃であれば互いに意見をぶつけやすい。ここからだよ、キミたちが最も尊い事を学ぶのは。

一回り大きくなって帰ってくることを期待している。

だから、がんばれ! 超がんばれ!!


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2018年03月03日

教えることの試練

卒業シーズン。先日、娘の小学校の6年生歓送会に行った。娘はまだ4年生なので在校だが、この1年間一所懸命に練習してきた金管クラブの発表会が歓送会終盤にあるというので、彼女たちの1年間の集大成を観に行った。

とはいっても、そこは田舎の小学校。4~6年生で編成される金管クラブは20名強と少ない。卒業する6年生も20名そこそこ。全校生徒が集まっても、広い体育館の三分の一を占める程度。全校生徒が互いの顔を知る。みんな大らかで素直。在校生は精いっぱい出し物を演技し、卒業生は、それを見てたくさん笑う。雪の降るこの日の水上小学校体育館は、いつもより温かかった。

この1年、娘はクラブ活動に勤しんできた。4年生になって初めて触る金管楽器。娘に与えられた楽器はアルトホルン。しかし予算に限界があるのだろう。渡されたのは至る所に傷がある古い物だった。他の子たちも同様で、新品の楽器はない。音が外れていたり、どこか壊れていたり、傷があったり…。それでも初めて自分だけに渡された楽器は特別だったようだ。

娘の小学校は金管クラブに力を入れている。朝30分、放課後1時間の練習が毎日続いた。発表する機会も多々あり、そのたびに夏休みも週末も返上して練習した。先生の指導も厳しかったようだ。うまく演奏できなかったり、熱の入った先生の指導に涙が出てしまった子もいると聞く。

思えば先生、楽器を触ったこともない子供たちに教えるのは大変だったことだろう。子供たちは性格も違うし、練習に温度差もある。それでも金管はひとりひとりの演奏が大きく響く。一音間違えれば、全体に違和感が生じる。間違えは許されないのだ。先生自身に熱が入ってしまう分、つい強い口調になってしまうこともあっただろう。文科省から定められた教科書プログラムを教えることも難しいが、和を感じて音を生み出すことを教えるのもそれと同じくらい、いや、もしくはそれ以上に難しいのかもしれない。

教えることの難しさ。最近、これをしみじみと感じる。娘の勉強も徐々にハードルが上がってくる。
「お母さん、これ、どういう意味?」
ひとまず教える。それでも理解できない娘にイラつき、ついキツい言葉を返してしまう。

「なんでわかんないの?」

このイラつき発言は負のスパイラルへの入り口だ。なんでわかんないかって言われても、解らないものは解らない。理由なんてない。ただ、解らないのだ。頭ではわかっているのに感情が先走り、「なんで」と理由を聞く言葉で娘を攻める。攻められた娘も感情的になる。互いに感情がぶつかり合い、負のスパイラルにどんどんはまる。この後、いつも反省するのだが、また同じことをやってしまう。成長ないなぁ、私。

確定申告の季節。私の場合、仕訳に頭を抱えることが多々ある。ネットで検索してみるものの、専門語が陳列されると余計に混乱する。
「だから結局は何費になるのよ!?」
パソコンに向かって悪態をつく。きっとパソコンは思っているだろう。
「なんでわかんないの?」

同じ内容を検索してみると、その仕訳も含め税金全体について分かりやすい言葉で説明されているサイトもある。数字に弱い私でも理解できる説明だ。
教えるということは、自分がいかにできるか・知っているかを誇示する場ではなく、いかに相手が理解するかを示す場である。相手が理解できないのは、教える側にも原因があるかもしれない。

経験を重ねると、教わる立場から教える立場と変わる。これから私も少なからず教えていく事が増えていく。もし相手が「解らない」といえば、それは相手が劣っているのではなく、自分の説明が悪いということを理解しなければいけない。

経験者が未経験者に教える。子どもによって算数が得意だったり、国語が得意だったり、体育が得意だったり、音楽が得意だったりと、必ず差がある。同じ教科の中にも、細かい差がある。
算数が不得意の人に対し、得意な人が教えることが、実は一番難しいのだと思う。親として、指導者として試される時だ。“教えること”は、親も指導者も成長するチャンスである。

さて、娘の金管クラブ。時には涙も流れた練習だったが、それでもみんな、最後までよく頑張った。でもって送迎する我々家族も頑張った。そんなすべての頑張った先日の集大成演奏は、とてもとてもよかった。本当によかった。演奏を終えた子供たちの誇らしい顔がすべてを締めくくっている。

先生、1年間熱血ご指導をありがとうございました。

posted by Sue at 10:41| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2018年01月13日

重なっていくモノ

新しい年を迎えた。
ということは、またひとつ年を取るということ。
めでたくもあり、めでたくもなし。

どの時代も世の流れは若者が中心である。
ファッション、ヘアスタイル、家電、レストラン、フード、人気タレント、街で流れる歌…挙げればキリがない。

今の若者たちは「ゆとり世代」と言われるが、私の頃は「新人類」と呼ばれた。そんな新人類の私たちも、今となっては年を重ね、ゆとり世代の流行についていかねばならない。

どんどん生活に新しいモノが入ってくるため、それについていかなければ生活に支障を来す。たとえばテレビもブラウン管からリモコンを経て地デジへ、そして今や携帯で見る。もはやブラウン管テレビは姿を消し、カセットテープなんかは再生器すらない。モノは更に軽く、コンパクトに、スピーディーに、快適になっていった。

モノは減っているのではなく、増えている。言わば「ないものがない」のだ。寒い時は暖かく、暑い時は涼しくできる。ひとり1台の電話。プライベートも保たれる。すべてに快適だ。

こうして私たちが長年世話になったブラウン管テレビやカセットデッキやレコードは、骨董品となっていった。

モノが増え続ける一方、人は年を重ねると失うものが多くなる。
体力が落ち、筋骨がもろくなり、髪も薄くなり、見た目はしぼむか垂れるか。

ハリ! ツヤ! 活力! パワー! 食欲! どんなに食べても太らない筋力!
あ~あ、無くなっていくものが多いこと!
増えるはシワ、シミ、贅肉・・・

他に増えていくものはないだろうか…

新人類と呼ばれた頃の自分と比べてみるべく、あたりをぐるりと見渡してみる。
フムフム。ある、ある。

主として守るべき家庭という居場所ができた。
心の底から語り合い、笑い合う人ができた。
一緒に泣いてくれる人ができた。
自分の意見を押し通そうとしない柔和な気持ちが生まれた。
人の考えを聞く耳ができた。

メラメラと燃えていた若い時の炎は、感情が向き出た「焔」であった。
しかし年を重ねていくごとに、火の勢いは弱くなる。と、同時に大きくて、しっかりとした、周囲全体を暖める暖炉になる。

哀しい出来事や嬉しい出来事を重ね、やがて自分を受け入れ、相手を受け入れ、感謝することで、恨みや嫉みが薄くなっていく。そして事ある度に静かに想うようになった。
「これでいいんだ」

笑いが増えた。涙が増えた。感謝が増えた。
目の周りにあったハリは、しぼんだのではなく、穏やかに柔らかくなったのだ。

年を取ることは確実に温かいモノが増えていく。それは目に見えないモノ。
「焔」から「暖炉」になる。
年を取ることって、案外と心地いいかも。


あ~、でもやっぱりハリやツヤは欲しいっ!!!

posted by Sue at 08:18| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

10年ぶりの講演

 先日、町内の友人Hさんよりみなかみ町での講演のお話をいただいた。平日の昼間ということで、私も聴講に行った。

 産後は仕事で外出することが減った。子供が小学校に入ってからは、更にその機会が減っていった。時折レースの報告会はお手伝いに行くこともあるが、きちんと講演を聞くのはまさに10年ぶりになる。

 さて10年前の彼の講演と先日の講演。アドベンチャーレースをテーマにしている事には変わりないが、コンテンツが少し変わっていることに気が付いた。

 10年前は主にアドベンチャーレースの醍醐味や過酷さ、そして自然の中の自己管理をメインに講演していた。しかし月日が流れると共に、経験が重なり、環境も変わってきた。自然やアドベンチャーレース自体は変わらないが、そこで起きるトラブルや人間関係の話が厚みを出してきているのだ。

 この10年、隊長にいろんな事が起きた。若手・後輩としばし起きる軋轢と、それを乗り越えてきた道程。親子ほどの年齢差の女子メンバーとは、感覚のあまりの違いに戸惑い、悩み、もがいてきた。そして加齢とともに落ちていく体力。自身も父親となったこと。大切な友を失ったこと、…。

 思えば、普段の私たちの生活とさほど離れていない。一般社会の中で50歳に差し掛かると、部下や後輩の扱いに戸惑う。殊に娘くらいの年齢差の女子社員との距離感を縮めるのは難しい。環境は非日常的なアドベンチャーレースではあるが、誰もが出くわす難題に隊長も当たっている。

 スポーツの場合、勝つことが目的である。会社であれば利益を出すことが目的である。しかし、そこまで持って行くのが非常に難しい。「勝利」が目的とは言え、1位が勝利なのか、3位じゃダメなのか?利益はいくら出せば「利」と言えるのか?個人的にライバルに勝てばいいのか?勝ち組になればいいのか?
 結局のところ、目的はそれぞれ。ゆえに目的が異なれば衝突するのは当然だ。

 しかし目的と目標は違う。目標は組織(チーム)で決める。目標に向かうベクトルがひとつになれば、気持ちがぶれた時、そこに立ち戻れば「今自分はその目標のために何をすべきか」が自ずと見えてくる。会社組織はもちろん、家族という更に小さい組織の中にも集中すべきベクトルは存在する。己の目的を達するために目標があり、目標を達成するために手段がある。

 時に目標に辿り着くための考え方や手段が異なり、トラブルも起きる。しかしトラブルは人が成長するチャンスである。また思いがけない絆が生まれる機会でもある。個々がどう成長するか、絆がどう編み出されるのか。きっと過去に起きたトラブルや困難のうちいくつかは、何らかの絆を生み出しているのではないだろうか。

 10年間に起きたトラブルは様々だ。しかし、そこに生まれた絆の強度はテンションがかかった分だけ強くなっている気もする。隊長の講演を聞いていると、彼自身もチームや家族だけではなく、周囲との信頼関係も強くなっているのを感じる。

 これからも何が起きるかわからない。しかし、起こったことには必ず意味があり、絆を更に強くしてくれるだろう。だから面倒くさがらずに、私自身の目的を達成するための目標に向かっていこうと思う。

posted by Sue at 16:25| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする