2017年06月24日

俯瞰的観点からの現在地

 親というのは欲張りなもので、つい子どもに過剰な期待をしてしまう。私が子どもの時も、(こんなデキの悪い私ですら)おそらく親は期待をしただろうが、時にはその期待が鬱陶しく思えた。

 にも関わらず!親となった今、同じことを子どもに強いているような気がする。だとしたら、子どもはあの時の私と同じように、今の私を鬱陶しいと思っているのかもしれない。いや、思っているに違いない。結局のところ、親にやられて嫌だなと感じたことを、そのまま子どもにやっている。いかん、いかん。

 子どもへの期待は大切だ。時には本人に見せることで、子どものやる気度アップにつながる。しかし、一歩見せ方を間違えると、やる気度を潰しかねない。難しいなぁと思うコノゴロだ。

 しかし、残念ながら、出来ない部分ほど目についてしまうのだ。大人になった今だから出来る事が、自分が娘と同じくらいの時は、もっと不器用だったし、もっとできない事が多かった。なのに、比べているのは今の自分と今の娘。大人になり「もっとやっておけばよかった」と思うものの、つい、その反省を子どもに背負わそうとする。人の反省を押し付けられるんだから、鬱陶しくもなる。
 
 先日、隊長は雑誌の企画で地図読み講習会の講師役を務めた。生徒さんは若い女性だった。その時の印象を、隊長はこい言っていた。
「彼女は地図を俯瞰的に観ることができる。目の前に広がる地形を真上から見るとどう見えるのかが地図と照らし合わせて解るんだ。彼女、ちゃんと読図を勉強すれば、きっとすごいナビゲーターに化けるよ」
 物事を俯瞰的に観る、か・・・。言葉では簡単だが、自分はできているだろうか。目の前の事で手一杯になり、物事を大きく捉える余裕を失ってないだろうか。

 目の前の課題も重要ではある。面倒でもこなさなくてはいけないこともある。しかし、その目の前のことも、俯瞰的に観れば、もっと大きな事に繋がっているのだ。現在地ばかり見ていればと、自分が全体のどこにいて、どこに向かっているのかが分からなくなる。

 子どもへの期待もそれと同じ。できない事ばかりにこだわっていては、どこに向かっているのか、今はどこにいるのかが分からなくなってしまう。
 現在地が地図のどの位置にあるのか。そしてどこに向かおうとしているのか。大きく捉えなければ見落とすこともある。通過すべきポイントのひとつひとつには意味があり、そこがあってこそ進むべき方向を改めて整地することができる。ここはひとつ、地図も子育ても俯瞰的に観ようかと思う。

 隊長は言う。
「地図読みで一番いいのは迷うこと。迷い方にも人それぞれクセがある。迷うことで自分のクセを把握できる。失敗することで改善点を見出すことができる。だから失敗は大切。失敗を恐れず、挑んでください」

 子ども自身も、自分が間違っていることを分かればよいが、大人ほど気が付かない(大人でも自分の間違いに気が付かない人もいるけど)。だからこそ、大人がそれを教えてやるのだ。
しかし、単なるダメ出しは、そこを通過してきた人であれば誰でもできる。なぜダメなのか、どこが違うのかを相手に分かるように教えることが大切だ。

 そして、なぜ今これをやるのか、それはどこに繋がるのかを、本人が納得のいくように説明をする必要がある。ただ「今やっておかないと大人になって困るよ」では、子どもは、ちっともわからないし、叱ったところで、その場しのぎで「わかった」と答えるだけ。
「どうして分からないの!?」の理由はひとつ。教え方が悪いのだ。

 これは子どもだけではない。一般社会においても同じこと。「見て学べ」の職人業ならまだしも、そうでないなら、きちんと教えていくことが大切。相手の覚えが悪いと責め立てるよりも、相手が分かるように説明しないことにも責任があることを自覚したい。
 ことさら会社であれば目標が明確だ。企業として、団体として、人として社会に対してどんな貢献をしているのか、何が目的なのか、俯瞰的観点からの現在地を今一度教える側も把握しておきたい。


 な〜んてエラそうに言いながら、もう数年前に隊長が「必要だから」とポチッて買ったお花模様の一輪車に対し、いまだにネチネチ言う日々である。

 体幹トレーニングとでも言いたいのだろうか?脚力アップとでも言いたいのだろうか?どちらにせよ、どうしても一輪車だけは俯瞰的に観られません!


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2017年05月09日

努力は嘘をつかない

 ゴールデンウィークも過ぎ、新入生・新入社員も新たな環境に慣れてきた頃だろう。イーストウインドの母体でもあるアウトドアツアー会社「カッパクラブ」にも三人の新入社員が加わり、雰囲気も一層華やかになった。

 その中の一人がイーストウインドの新トレーニング生K。カッパクラブに来る前は登山用品店に勤め、更に前の大学時代はワンゲル部の主将を務めた、文字通り山男である。いくらイーストウインドの正規メンバーになるにはリバーガイドになることが義務付けられているとはいえ、山男が川で仕事をするのには、当然、不安もあっただろう。

 案の定、Kは苦労している。純粋にリバーガイドになりたくてやってきた二人とは、そもそもの動機が異なる。過去には「こんなはずじゃなかった」とイーストウインドのトレ生を去った人も幾人かいる。去っていった人たちを責めているわけではない。アドベンチャーレースに出るという夢とリバーガイドになるという現実にギャップがあっただけである。新入社員も然りで、夢を抱えて入社したが、実際は雑用業務ばかりという現実にギャップが生じて悩むことも解かる。
 でも、忘れないでほしい。どんな仕事であろうと、どんなに雑用であろうと、それは必ず身になる。そして、それが人の役に立ち、延いては自分の役に立つ。必ず。

 時には上から叱責されることもある。しかし川の上では、楽しさを伝えるのも、命を預かるのもリバーガイドの役目。些細なことを怠ることで命を落とす危険も考えられる。大変なことがたくさんあるし、慣れないこともしなくちゃいけないが、どんな些細なことでも疎かにせずにやっていってほしいと願う。

 カッパクラブは他社に比べてリバーガイドになる基準が厳しいと言う。それだけリバーガイドに求められるスキルは高度だ。また、リバーガイドにならなければお給料がもらえない。だから早くリバーガイドにならなくてはいけない。そのために、新入社員たちは日々努力を重ねる。
 思えば、今までも、カッパのリバーガイドになるために苦労に苦労を重ねたガイドは少なくない。そしてそんなガイドほど、しっかりとしたスキルを身につけている。それが不思議なことにガイドスキルだけではなく、人との接し方、瞬発力、推進力、環境適応力などなど様々な力が自然と身についているのだ。

 現在、リバーガイドになるために努力をしているK。「今が踏ん張り時。頑張ります!」と言う。思っていたこととは違うだろう。どうしても他の新入社員と比べてしまう事もあるだろう。
 でもね、Kくん。キミが今、しっかり受け止めて、逃げずに立ち向かっている事は、やがてあなたの支えとなり、力となる。そして何より、その努力の先にあるものは、キミが抱いている夢という「現実」だ。

 今回は南アに旅立つイーストウインドを見送る立場にいたけれど、この努力の先には、見送られるメンバーにキミがいる。

努力は嘘をつかない。それを信じて強くあれ。


カッパクラブのホームページ
http://www.kappa-club.com/

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2017年01月19日

プラス・マイナス・ゼロの法則

 先日、久しぶりに結婚式に参列した。始終ニコニコ顔の花嫁さんと、始終泣き顔のお婿さん。とても良い結婚式だった。

 隊長と私は、このお婿さんにとてもお世話になっていて、言葉では言い尽くせないほど感謝をしている。彼は私たちが関係するイベントのGPSトラッキングの表示システムをプログラムしてくれている。
「ここをもっとこうしたい」
「ここをもっと見やすくしたい」
私たちのわがままな要求に対し、
「はいよ〜」
と、いとも簡単にやってしまう。ゆえに、ITに疎い私は、とんでもない勘違いをしてしまっていた。このプログラムってそんなに大変なことじゃないんだって。

 ところが、だ。

 このプログラムを普通に企業に依頼をすれば、とんでもない金額になるというのを後で知った。しかも、ここまでのプログラムを開発するには、恐ろしいほど時間と資金が必要となる。それを、このお婿さんは「はいは〜い」と、なんとも気軽にこなしてしまっていたのだ。
 レーススタート前に完璧に設定してくれたので準備万端!ところが、レースが始まってすぐに表示が動かなくなり、選手の動向を管理するポジションにいる私は大パニック!スタッフは全員選手を送り出しに出払っているし、真夜中ともあり、サーバー関係者は電話に出ない。私ではどうにもならない。そこですぐさま彼に電話をし(と言っても、この作業は彼の範疇ではなかった)、泣きついて相談をした。
「う〜ん、仕方ないから、こっちでやりますね」
と、速攻で新しくサイトを作ってくれたのだ。こうしてレースは無事に開催できた。
この時、「このシステム、こんな短時間で変更できるんだから、そんなに大変じゃないんだろう」と思い込んでいたおバカは私。まったくその逆で、これだけのことを、そんな時間でやることが、どれだけすごいことなのかを、その時は全く気が付かなかった。
 彼の気前の良さにすっかり甘えていたが、よく考えれば、彼は才能が秀でているだけではなく、人にそう思わせるほど、大きな器の人なのである。

 そんな彼は2010年にIT会社を起業した。簡単に「起業」とはいうものの、そこまでの道のりは、とんでもない苦労を重ねたようだ。前が見えない闇の中。苦しみのスパイラルに嵌り、もがけばもがくほど、クモの巣のように絡みつく。
 そこに現れたのが、花嫁さんだった。祝辞からは、彼女の行動はプランなしの様に言っていたが、彼女は「なんとかなる」ではなく、「なんとかする」人だというのもよく分かった。それは、その時の彼にとって極めて必要な起爆剤だったのだろう。前向きな彼女の原動力が支えとなり、凛とした会社に育てあげたことは、祝辞や参列名簿(肩書き)を観ればよく分かる。
 二人で越えてきた。我慢して、堪えて、そして、それをも楽しんできたようだ。

 祝辞を聞く中で、なんだったかの本に書かれていた言葉を思い出した。
「人生はプラス・マイナス・ゼロの法則で成り立っている」
自然界には朝があれば夜もある。太陽も昇れば月も昇る。光もあれば陰もある。人も自然界の一部だから、その法則に従えば良い事もあれば、同じだけ悪いこともある。仏教でいう布施は、先に辛さ(マイナス)を支払うことで、後にくる幸(プラス)を待つことを意味すると、その本にあった。

 その法則に従うならば、私たちはマイナスを受け入れなくてはならない。今、辛いことがあったとしたら、それはきっと、次に来るプラスのためのもの。時にはじっと耐えなければいけない。時には必死にあがくことを求められる。でも、必要な時に必要な人は現れる。支えてくれる人が現れる。その時こそ、物事がプラスの方向に動き始める時なのかもしれない。

 その日の花婿さんと花嫁さんは、強いプラスに作用していた。あまりにも強すぎて、周囲にいる私たちも、そのプラス波及を受ける。なんとも幸せな一日だった。
 彼らには、これからもプラスマイナスが起きるだろう。それでも、支え合う人がいることで、マイナスの苦しみは分散され、プラスの喜びは倍増していくのだろう。

 この日、たくさん泣いていたお婿さん。
「長い間、待たせてしまいました」
花嫁さんへの気持ちが、その言葉にすべてあるように思えた。シンプルだけれど、二人が抱えてきた事の凝縮された言葉。
 私たちもシンプルな言葉でしか表現できないけど、それでも精一杯の気持ちを込めて伝えたい。

「本当におめでとう」


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2016年11月21日

タスキの輝き

 「お母さん、これ出ようと思う」
10月の半ば、娘が学校から持って帰ってきたのは、町の駅伝大会の要項だった。カテゴリーは小学生男・女、一般男・女、混合。各チーム5人。
「クラスの女子で出たいの!」
自発的に挑戦したいと思う気持ちは、何より歓迎だ。翌日から娘のメンバー探しが始まった。

 まずは足の速い子で結成するのがベストだと思い、マラソン大会で上位だったクラスメイトに声掛けをしたらしい。しかし期待した通りの返事はもらえなかった。その上、その話が独り歩きし、出場したい子が増えてきた。誰が出るとか出ないとかで先生を巻き込んだ揉め事に発展。ふむふむ。これは私でも想定内。こういった揉め事には親が出てはいけない。子ども同士でちゃんと話し合って解決すべし。
「みんなが納得いくような解決法を話し合ったら?」
「う〜ん、どうしたらいいかなぁ。明日、またみんなに聞いてみる」
翌日、結論が出た。
「この話はなかったことになった」
どうやら一人の子が出ないと言ったら、次々に出場辞退が出たそうな。なるほど。親としては残念であるが、それが彼女たちの決めた解決方法なら尊重しよう。

 ところが、またその翌日。
「Tちゃんが駅伝出たいって。だから新たにチームを組むことにした!」
顔を赤らめて興奮気味に帰ってきた娘が言った。もう駅伝出場は無理だと思っていた娘にとって嬉しい情報だ。
 Tちゃんはクラスでも足が速い方ではない(そう言う娘だって速い方ではないけど)。マラソン大会も娘より後ろだった。そんなTちゃんの口からでたのは、まさかの出場希望発表だった。そこから事態は動いた。
「私も出てみたい」と、またもや出場希望少女Kちゃんが現れた。そこにクラスで一番足の速いSちゃんも「やりたい」と申し出てくれた。俄然やる気になった娘。募るメンバーは後1人。そこで4人で相談し、町内の他校に通う同学年のお友達Rちゃんに声をかけることに。「やってみたい」と即答(子どもの少ない狭い地域ゆえ、他校の子であってもほぼ顔見知り)。こうして5人のメンバーが揃った。

 さぁ駅伝まで1か月間しかない。同校に通う4人の子どもたちは毎日、休み時間に練習をすることに決めた。練習内容は子どもたち自身が決めて取り組んだ。ただ走っても面白くないからと、鬼ごっこを取り入れたり、校庭の階段を使って登り降りのトレーニングをしたりと、バリエーションも混ぜたらしい。面白いことを考えるものだ。

 ある日、練習場に誰も来ていなかった。娘がメンバーを探しに行くと、一人は図書館で本を読んでいた。疲れもあるし、一日くらいは休んでもいいかと、娘は踵を返した。それに気が付いたその子が言った。
「あ、ごめん!!今行く」
二人はすぐに練習場に出た。他のメンバーもお友達と遊んでいたが、練習場に出る二人に気が付き、すぐに合流。もう一人も練習場に来ていた。まだ上手く言葉を操れない小学校3年生だが、言葉なんて発さずとも気持ちがひとつになっていることに驚く。

 こうして4人は来る日も来る日も練習をした。そしてチーム名を「ファインズ」と決め、担当区間を決め、実際のコースを試走した。徐々に雰囲気は盛り上がっていった。
 この間、私は一度も「練習しなさい」とは言わなかった。こうして自発的に何かに取り組む娘たちの姿を、ただただ嬉しく思っていた。

 そして駅伝本番。朝方に会場を包み込んでいた煙霧は、選手たちの勢いに押されてか、一気に吹き飛び、最高の秋晴れとなった。会場にはゼッケンをつけた背丈の大きいお兄さん、お姉さんが勢揃い。すでに軽くジョグでアップしている。しかし、小学生の我チームはアップというよりも、必死になって追っかけっこをしている。走る前からこんなにキャーキャー騒いで大丈夫かな?そんな親の心配も余所に、子どもたちは楽しそうだ。そうしている間に刻々とスタート時間が近づいた。

 スタートは足の速いSちゃん。初めての駅伝大会だが、雰囲気にのまれることなく、スタートラインに堂々と立った。Sちゃんは少々大きめの黄色のタスキを肩に掛けた。これが彼女たち5人を繋ぐ。最初の選手として、とても立派だ。Sちゃんはスタート合図と共に、大きなお兄さんやお姉さんたちの中に紛れて走っていった。
 コースは周回。第2走者は準備に入る。ここはKちゃんだ。Kちゃんも走るのが得意な方ではないだろう。しかし、この1か月間、毎日仲間と一所懸命にトレーニングをしてきた。直前には咳に苦しんだが、この日はマスクを外していた。
 Sちゃんが戻ってきた。準備をするKちゃん以外の3人は、ランナーに近づいて良いギリギリのラインまで行き、併走する。声が枯れるほど声援を送る。よく見ると、みんなで併走しているのはウチのチームくらいだ(笑)。 SちゃんからKちゃんへと、タスキが繋がる。Kちゃんが出走。ここでも声が枯れるくらいに声援を送る。
 Kちゃんが戻ってきた。苦しそうだ。しかし止まらない。その姿を見て、またもや3人が駆け寄る。仲間の応援を受けながら、Kちゃんは最後の力を振り絞り、タスキを第3走者に繋げた。
 第3走者は他校のRちゃん。すでに第4走者となっているお兄さんチームの背中を追う。人見知りしないRちゃんの朗らかな性格にとても助けられた今回の駅伝。彼女が出てくれたおかげで、タスキはしっかり繋がる。そんな事を想っていると、Rちゃんが顔を赤くして戻ってきた。お約束通り、3人が併走しだす。そして第4走者のTちゃんにタスキが繋がった。
 Tちゃんはカラダが小さい。試走の時、途中で止まる事が幾度かあった。しかしその度に呼吸を整えては、すぐに走り出す。決して諦めない。
「Tちゃん、ものすごい粘り強いんだよ。雲梯も手が真っ赤になってもぶら下がってるの。痛くないの?って聞くと、痛いよって。だよね〜(笑)でも、ず〜っとぶら下がってるの。すごく強いんだよ」
自分の自慢のように話す娘。そのTちゃんからタスキを受け取った第5走者、アンカーは娘だ。娘も足は差ほど速くない。すでにほとんどのチームがゴールしている中、受け取ったタスキをゴールテープまで届ける役目をしっかり果たさなくては。みんなで繋げたタスキを肩に掛け、前後にランナーのいないコースに出た。やがて娘の姿が返ってきた。それを見た4人の仲間が走り出す。

ゴール!

 結果は後ろから2番目。しかし、とても素晴らしい駅伝だった。5人がとても美しいランナーだった。何より、数字で表す結果(順位)よりも、ここまでの努力が数字に表れない得難い結果を生み出す。それはきっと、これからのこと。
 それぞれが葛藤を抱えていた。それでもこうして5人が繋げたタスキの輝きは、私たち親にとっても、何よりも誇らしいメダルである。

 子どもたちの中に、何かが染み込んでいく。今は点のような物だけど、それは、ゆっくりと時間をかけて深く染みていく。いつか彼女たちが大人になった時、その染みたものが胸に湧きあがる日が、きっとあるだろう。

 がんばりを褒めようと子どもたちを見ると、今さっき走ったばかりだというのに、またもや必死で鬼ごっこをしている。彼女たちの中では駅伝そのものは、すでに過去のもののようだ。

 それでいい。これから大きくなるにつれ、それぞれの道を歩く。明日になれば、新しい何かが起こり、その事に夢中になる。それでいいのだよ。だって、あの黄色のタスキは、彼女たちの胸の奥深くにきっと色褪せずに輝き続けるから。





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2016年10月26日

リンゴ畑の中心で愛を叫ぶ

 夏日が続いた10月初め、リンゴ農園のお手伝いに行った。日頃お世話になっているHさんが所有する広大なリンゴ農園では、文字通り手作業でリンゴを育てる。

 お手伝いの内容は葉摘み。日光が実に当たるように周囲の葉を落とす。気をつけなくてはいけないのは、葉を落としすぎないこと。葉はリンゴの甘みを作る大切な要素でもある。「日光と葉」。どの葉を摘むか。そのバランスが難しい。

 リンゴは落葉することで秋を感じ、実を赤くするそうだ。農園によっては落葉薬を使うところもあるらしいが、Hさんちのリンゴ園は薬は使わず、すべて手作業。ひとつひとつのリンゴに陽が当たり、赤味と甘みを出すように気を配る。高木の上部に生る実は脚立を使って作業。大変だけれど、その分、リンゴへの愛着が増す。

 農作業は時間がきちんと決まっている。10時と15時はお茶の時間。程よい日光を浴びるリンゴの木の下で、温かいお茶を頂く。昼夜問わずにアクセクしている生活から見ると、規則正しいルーチンワークは実に心地よい。そもそも人間は、お日様が出ると伴に起きて、お日様が沈むと伴に眠り、空腹になったら食す動物である。  

 だが、現代の生活と言えば、空腹でもないのに時間が来たら食を摂り、真夜中まで起きている。お日様と共に暮らしてきたルーチンが崩れてしまったことで、我々は生活環境も考え方も性格までもが変わったのかもしれない。なんだか殺伐としている。

 Hさんのリンゴ農園では肥料は与えない。昔はドカドカと肥料を与えていたそうだ。そうしないと木はやせ細ってしまっていたとか。しかし、それではリンゴ自身が持つ力が育たない。そこで施肥をストップ。危機感を感じたのだろうか?リンゴは種の保存のため、自ら赤く熟し、甘みをつけ始めた。そんなリンゴたちを援護するかのように、それまでに施し続けていた肥料は土に還り、何も与えずとも肥沃な土壌となった。

 こうしてHさんちのリンゴは日光が作り上げた自然の甘さをたっぷり含んだ実となり、やがて寒さから自身を守るために『蝋物質』を出す(ワックスのようなベタベタした成分。これはリンゴ自身が持つ成分で、熟したサインにもなる。自然のものであり、もちろん害は無い)。自ら頑張っているリンゴだからこそ、私たちは敬意をこめて、手作業で葉を落とす。

 リンゴ育ては子育てに似ている部分もある。肥料をドカドカ与え続けなければ、いつかやせ細ってしまう。だが永遠と肥料を与え続けることはできない。世の順として親が先に逝くのだから。だからこそ今、「学びの場」である学校でしっかり身に着けて欲しいのだ。

 勉強ではない。人間関係や社会生活など、身に起きる多くの出来事から学んで欲しいのだ。人が集まればトラブルは起きる。そんなトラブルが起きた時こそ、学ぶチャンスである。きちんと寒さも受け入れ、そして自身を守る『蝋物質』を出すことができるよう学んでいく。逃げずに自分で乗り切っていかなければ良い実にならない。我が子には、しっかりと甘い良いリンゴになって欲しいと願うのである。

 さて親として私はどうだろう。子を過保護にしていないだろうか。逆に放ったらかしていないだろうか。時に日光となり、時に雨となり、時に葉となり、時に寒さとなっているだろうか。適格にできているだろうか。

 隊長はこう言う。
「人間が学ぶものは全て自然の中にある」
リンゴ畑の真ん中で、黙々と葉摘みをしながら、そんなことを考えさせられた一日であった。


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2016年09月07日

経験談は他人事

 小学校3年生の娘。夏休みも終わり、2学期が始まった。2学期は運動会やらマラソン大会やら、秋の祭典・スポーツイベントが待っている。楽しみで仕方ない!はずなのだが・・・。

 そもそもウチの娘は運動が得意ではない。今にしてアドベンチャーレーサーなどと肩書を持つ隊長だが、小学校時分、運動はそれほど得意ではなかった。足も遅かった。私と言えば肥満体。走ったら「地面が揺れる」とバカにされ、泳げば「津波になる」と苛められた。運動音痴の代表的存在だった。運動会の徒競走だって、いつだってビリ。父に順位を伝えると「またか」と、呆れられたのを覚えている。

 私が運動らしい事を始めたのは中学校に入ってバスケットボールクラブに入部してからだった。なぜそれに入部したのか忘れてしまったが、部活動では、ともかく毎日走らされていた。自発的に、ではなく、強制的に、だ。
 先輩方は、私たち後輩に気に入らないことがあれば、即座に外周5周ランを命令。部員の中で一番足の遅い私は、いつもドベで、その罰として、1周余分に走らされた。できない部員はとことん追い詰めえられた。きっと先輩方も、そのまた先輩方に同じように追い詰められてきたのだろう。当時の「先輩」と言えば、今でいう某国の将軍様だ。今はこの悪しき風習が消滅していることを願う。
 先輩はもとより、同級生の部員とも、とりわけ仲が良かったわけでもない。あまつさえ、足の遅い私にとって、かなりアウェーな環境だと感じていた。レギュラーには程遠かったし、クラブ自体に何の役にも立たなかった。
 しかし先輩からどれだけ苛められても、同級生に仲間がいなくても、部員としての存在意義がなくても、何故だか辞めようとは思わなかった。ここで辞めたらすべてが負けてしまうように思ったのだ。

 とは言え、この先輩からの冷酷な命令があったからこそ、毎日強制的に走り込み、やがて「肥満」が「標準」になった。それどころか、走力も付き、中学校3年生で市民マラソン大会に中学校代表選手として出場した(結果は覚えてない。程々だったと思う)。運動会のリレーの選手にもなった。ゆえに、あの悪しき風習も悪い事ばかりではなかったのかもしれない。
 逆に「良き経験」と言うべきかもしれない。社会に出てからと言うもの、あの時の非情な先輩方を思うと、どんな上司や同僚であっても温情のある優しい人たちに見えたし、その人たちのために出来る限り頑張ろうと思った。会社が楽しかった。今でも「私は常に良い上司、同僚、友達に恵まれている」と思えるのは、あの時の辛辣な経験があったからであり、受けるべき経験だったのだと思う。



 運動が苦手な娘は、「田中正人の血を引くのだから」とよく言われる。なんと残酷な言葉であろう。本当は運動が苦手だった隊長と私の子なのだから、周囲が言うように「血を引く」で比喩するなら運動ができないのが自然だ。しかし小学校低学年の甲乙は比べやすい運動結果で決めてしまうことがある。ゆえに、運動が苦手な娘にとって、差が明確に出てしまう運動会やらマラソン大会は、あまり歓迎したものではないのだ。
 親として期待がないわけではない。努力すれば、きっと良い結果が生まれる。しかし、それを子どもにどう伝えたらいいのだろうか。経験談はあくまでも他人事であり、結局は、その人自身が経験しなければわからない事なのだ。
 よくしたもので、神様はその人がその時に必要な経験を与えてくれる。辛くて仕方ないことであっても、いずれその経験が活かされてくる事を見越して。
 どのみち、これから成長するにつれ、子どもはたくさんの経験をする。ひょっとしたら娘は、私が経験したこと以上に辛い経験もするかもしれない。しかも、その経験が活かされるのは、ずっと後になろう。
 だからそれまでは、少なくともお家だけは、できないことを咎めて、努力を強いる場所より、できたことを認めて、褒めて、一緒に喜ぶ場所であるようにしたい。
 
 さて、小学校の運動会では、言うまでもなく、今年も娘は花形リレー選手から漏れた。足が遅いのだから仕方ない。仕方ない事は解っていても悔しかっただろう。けれど、それも経験。その悔しい経験は、いつか活きる。
 でもね、アキラ。悔しながらも、選手になったお友達を心底応援しようとするあなたの気持ちこそが、実は私たちをとても豊かにしてくれているんだよ。お父さんもお母さんも、ちゃんと解ってるよ、あなたの「真の強さ」が何であるかを。






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2016年05月30日

子どもたちの暗黙のルール

 今年のGWは実家に戻った。と言っても、その先は毎年のごとくノープラン。そもそも連休中は親に娘を看てもらっている間に仕事をすればいい、などという虫がいい帰郷だった。
 はじめのうちはいい。しかし70代半ばの老人が、小学校3年生の体力についていくには、あまりに過酷だ。1時間も相手をすれば、ヘロヘロになる。これが男の子だったら40分が限度だろう。

 あまりに任せきりだと娘どころか、老親すらグレるかもしれないので、娘と共に近所の公園に出向いた。「近所の公園」と言っても侮るなかれ。そこは、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオに次いで入場者数全国3位の遊園地的空間。だだっ広い敷地にたくさんの遊具。ヨチヨチ歩きの子が遊べる遊具から老人用健康器具まで、バラエティに富んでいる。大型の乗り物だって100円。こうした財布への配慮は大人だって喜ぶ。

 少し動くと汗ばむ陽気のその日、駐車待ちの車で大行列。ジモッティの土地勘を活かし、そこは難なく駐車。だが、公園内はおびただしい数の子どもで埋め尽くされていた。ストレートに言うなら「うじゃうじゃ」と子どもがいるのだ。人気遊具などは、やっと歩き始めた子から小学校高学年までが入り乱れて遊ぶ。もはや誰が我が子か分からない。転んで泣く子やら、母を探す子やらで、公園は賑やか。どこぞの子に母親と間違われた。「ママ〜」と言って私の顔をじっと見たあと、勘違いと気が付き、踵を返して、再び「ママ〜」。やっと再会できたママは、どこをどう見ても私より若いし、キレイだし。どうやったら間違えるわけ?

 しばし人気遊具に群がる子どもたちを観察。うーん、やっぱりこの公園も同じだ。日本の公園で目にする光景の「子どもたちの暗黙のルール」がここでも成立しているのだ。
 子どもたちは、滑り台にしてもフィールドアスレチックにしても、きちんと並んで順番を守る。前が自分より小さい子であれば、なおさら。押したり、引っ張ったり、強引に割り込んだりしない。前の子にぶつからない距離を自分で判断し、「もう大丈夫」と思ってから動き出す。これだけカオスな場所でケガがないのは、こうした一人一人の子どもが測る「絶妙なタイミング」のせいかもしれない。たいしたものだ。
 その後、大型の乗り物に移動。人気のアトラクション(というほどでもないが)は60分以上待ちとなっていた。馳せる子どもに親たちは「順番!ちゃんと並んで」と言いつける。なるほど。これが幼少時から染みついて、「きちんと順番を守る文化」を継承していくわけだ。

 電車に乗るのは、先に降車する人を通してから。混雑しているレストランでのウェイティングも名前を書いて待つ。スーパーのレジだって、買い物点数が多かろうと少なかろうと並ぶ。私たちは常に順番を守って生活をしているのだ。
 でもさ、これって人を想い遣る心がなければできないことだよね。日本が世界から「秩序正しい国」と評価される根底には、粛々と「人を想い遣る文化」が受け継がれているからだろう。

 私は「ドキュメント72時間」をよく観る。街角に3日間カメラを据えて、そこを来る(通過する)人々を映し出す番組。先日、仙台にある24時間営業の食堂の72時間を放送していた。5年前に震災に遭った場所。食堂で働くおばちゃんが手を止めずに言う。
「(ここで働いていた)仲間二人が津波に連れて行かれた」
また、そこに来ていた若い女性客の言葉も印象的だ。
「震災直後は乾いたものばかりだった。(震災後)初めて口にした温かい物は炊き出しのおにぎりだった。こんなにおにぎりっておいしかったんだって思った。有難かった」
単身赴任の土木作業員の男性が言った。
「壊滅状態であったこの地に仕事をしに来ていいものかを悩んだ。友達や家族にも非難された。それでも来てみて、働き始めたら、被災者に『ありがとう。助かるよ』と笑顔で言われた。来てよかったと本当に思った」
最後に流れた映像は白いご飯を頬張る幾人もの客の顔だった。大切なものを失った。涙がたくさん流れた。あれだけのカオス状態の中、助ける側も、助けられる側も秩序を保つことができたのは、日本人が幼少から持ち合わせ想い遣る心と、再び歩き出す力があるからなのかもしれない。そう、こうして人は前に進むのだ。

 さて、公園でひとしきり遊んだ後、有名チェーン店のアイスクリームを買いに行った。そこも行列。どうしても食べたい、と娘が言うもんだから、仕方なく並んで待つ。折り返し地点まで来たところ、いきなり60代くらいのおばちゃんが前に割り込んできた。娘は怪訝そうな表情をする。まぁ、どのみち1組割り込んできても、後5分は待つのには変わらない。一人だけなら仕方ないね、と娘とコソコソ相談。
 ところがおばちゃん、「こっち、こっち!」と息子やら孫やらを呼ぶ。へ?なぬ?5人はいるご家族御一行様。う〜ん、ちょっとどうなの?
「みんな並んでますよ!ちゃんと順番を守ってください」
そんな一言が言えればいいのだが、小心者の私は黙って列を譲ってしまった。しかも孫たちがいる前で、そんな事を言ったら、おばちゃんは孫の前で屈辱全開だ。まぁ許そう。
 ただ、願わくば、この孫たちに培われた「子どもたちの暗黙のルール」が、おばちゃんによって損なわれないようにしていただきたい。


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2016年04月14日

サンドイッチのおいたち

長い冬が終わり、みなかみ町にも良い季節がやってきた。タラの芽、ふきのとう、土筆、ノビル、山の幸が待ってましたとばかり、そこらじゅうで顔を出す。

こんなおいしい物があふれているというのに、娘は口にしない。まぁ山菜は苦味もあるので小学生にはきついのかな(その苦味こそが美味しいんだけど)。

今までは、彼女の苦手な野菜は小さく刻んでカレーやら卵焼きに入れて、味を誤魔化して食べさせていた。『子どもが苦手な野菜もモリモリ食べちゃうひと工夫』などと書かれた料理雑誌やネットを見ては調理。確かに、見た目や色からは、その野菜が入っているとは思えない。しかし、この春から小学校3年生になる。もうこうした誤魔化しは止めようと思う。苦手な人参やピーマンも、小骨の多い青魚も、それが持つ固有の味や特徴をそろそろ知るべきだと思うのだ。



先日、出先で娘とチキンサンドイッチを買った。満開の桜の木の下に座り、サンドイッチ袋の封を切った。ふと「このサンドイッチ、いっぱい具が入っているね」と娘が言った。よくよく見ると、チキンとレタスだけではない。刻んだゆで卵、玉ねぎ、ピクルス、その他にいくつかの野菜が入っている。

「今こうして私たちが食べようとしているこのサンドイッチを作るのに、何人の手がかかったんだろうね」と、何気なく娘に問いかけたのが発端で、しばし二人でサンドイッチのおいたちに遡る。

「まずは、さっきのレジのお姉さんでしょ、このサンドイッチをお店に並べた人でしょ、パンを作った人でしょ、チキンを作った人に野菜を作った人と…」
「このチキンひとつとっても、調理した人や、そのための調味料を作る人、チキンを育てる人、そのための餌を作る人、そして屠畜する人、その設備を作る人。たくさんだね」
「野菜だって、それを作る人、そのための肥料を運ぶ人、その肥料を作る人」
「その野菜が海外からの輸入物だとしたら、それを運ぶための船や飛行機を作る人や、それを運ぶための燃料を掘り出す人。ものすごくたくさんの人がいて、このサンドイッチが食べられるね」
「だったら『いただきます』は、作った人だけじゃなくて、このサンドイッチに関わったすべての人に対して言う言葉なんだね」
そんな思いでいただいたサンドイッチは、超一流レストラン物のようで、とても美味しかった。

飽食の日本では平気で食べ物を残す。もはやラーメンやうどんの汁は残すことが普通にすらなっている。そのスープだって、何人の手が関わってきたことか。

「食べ過ぎで太ったから」とダイエット食品を購入する。世界ではおよそ8億5000万人、なんと9人に1人が飢餓に苦しんでいる一方での出来事だ。

これからは、食材を誤魔化すのではなく、その食材には何人の手が関わってきたのかを想像し、その苦労ひとつひとつに感謝し、しっかり味わっていこうと思う。それが苦かったり、しょっぱかったり、固かったりもするかもしれない。それはそれで良い。それ自体を味わう事は、関わったすべての人の努力に感謝することである。

まず何より残さないこと。どんなにお行儀よく食べたところで、残してしまえば品もマナーもない。感謝があった上に品やらマナーは成り立つ。

ということは、調理する側にも責任がある。せっかくたくさんの人が関わった食材だもの、おいしく作る責任があるのだ。そんな責任重大な役目を任された主婦(主夫)だもの、毎日の献立に心血を注ぐのは、ある意味、使命的なものかもしれない。

さて、今夜は何にしようかな。



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2016年02月17日

家族の応援

Patagonian Expedition Race (PER) がスタートした。

このレースでは、優勝に手が届きそうで届かない。地球の裏側で行われるこの大会に、どうしてそこまで執着するのだろう。

渡航費は莫大にかかる(特に荷物超過料金)。装備がやたらと多い。配布される地図はいい加減。天候もコロコロ変わる。あるべき道もなければ、あり得ない道もある。時に主催者は押しの強いチームの意見に惑わされる。幾分かマシになってきてはいるけど。

「こんなクレージーなレースによく出るね」シリーズ戦常連チームですら呆れる。それでもこのレースに帰ってくる選手は多い。パタゴニアという手付かずの自然と、チリ人の人懐っこさも魅力のひとつなのかもしれない。

しかし、やはりそれ以上に、PERには『自然に対し、畏怖の念を抱き、それをあるがままに受け入れ、己の力だけで進む』というアドベンチャーレースの真意が凝縮されているのだと思う。だから隊長は挑み続けているような気がする。

近年、アドベンチャーレースはスピード重視となってきた。レースだからスピードが重視されるのは言う間でもないが、付加要素が多いアドベンチャーレースは、スピード以外にも重視されるべく事が多い。男女混成(チーム内ですら体力的に差が出る)、多種目(得手・不得手が生じる)、ナビゲーション(地図読み)が代表的な付加要素だが、何よりナビゲーション力が問われるのが、このPERである。ナビ力がなければ、このレースは勝てない。

しかし、今回は一本道のマウンテンバイクコースが長く取られている。PERもいよいよスピード重視になってきたかと思うと少し淋しくもなるが、どうやら、「確かに存在する道なのに、地図に明記されていない」という事があるらしい。そんなトリック的とも言える地図は「PERにしてやられた!」という感じが否めなくもない。一筋縄ではいかないのがPERだ。

そんな、とてつもなく壮大でエンターテイメントなレースだもの、隊長がこだわる気持ちがわからないでもない。ならば、アドベンチャーレースの真意を追及するために、とことんやったらいい。その生涯を掛けてまで見つけたいものなら、きっと意味がある。家族ができることはフォローする。

・・・なんて見得を切ったことが、娘にしわ寄せが行ってしまった。
隊長がチリ出発間際のある夜、娘が腹痛を起こし、粘血便が出た。翌日はかなり治まり、大事には至らなかったが、ネットなどで調べてみると、ストレスが原因でなることもあるらしい。

装備品で埋め尽くされた狭い我が家。揃って食事を取る時間も少なく、親が深夜過ぎてもゴソゴソ動いているため、寝る時間も短くなった娘。慣れているとはいえ、まだ7歳の子どもにとっては、こんなカオスはかなりの一大事で、大きなストレスになったのかもしれない。

思えば、出発間際は「忙しいから」というバリアを張って、娘の話を充分に聞いてあげてないような気がする。話をしようとしても「後でね」なんてバッサリ切られてしまったら、子どもだってストレスが溜まるのも無理はない。

それを粘血便が出てから気が付くとは・・・。「忙しいから」は大人にとって便利な言葉に想えるが、子どもにとっては一刀両断に邪魔者扱いされたと感じてしまうのかもしれない。

それでも彼女なりにフォローし続けた。空ボトルに柿ピーを詰め、行動食を作った。そして一個一個の蓋にメッセージを書き入れていた。隊長が現地に到着した後も、レーススタート前まで毎日「がんばってね」というメールを送っていた。

しかし、昨日、学校に提出する作文ノートに、こんな事を書いていた。
「お父さんはレースのため、チリにいます。お母さんは、それを中継するために、一日中パソコンに向かっています。ちょっとさみしいです」

そっか。勘違いしてたよ、お母さん。

いつも楽しそうにお父さんとメールのやり取りしてたし、ダブダブの応援Tシャツ着て嬉しそうに応援してるし、私がいつも家にいるんだし、それでいいんだと思ってた。それが二人で隊長をフォローしている事と思っていた。

でも違った。本当はさみしかったんだね。ごめんね。隊長が留守の間、私が本当にすべき事は『あなたを守る』ことだったんだね。

レース中、日本でチームをバックアップすることで、隊長も安心してレースができると思っていた。でも本当は、私が娘を守っていると思うからこそ、安心してレースができているのかもしれない。だとしたら、ごめん。お母さん、勘違いしてた。

今日、学校から帰ってきたら、一緒におやつを食べながら話を聞こう。苦手な跳び箱、飛べた?休憩時間は何して遊んだ?大好きな音楽の時間は何をやった?
お父さん、今頃どうしてるかな?ヨーキとケンカしてないかな?マチマチ、大丈夫かな?ヤマキー、食糧足りてるかな?なんて裏話もしよう。

それがきっと、今まさに日本の裏側で必死で戦っているお父さんが、もっと安心して前に進めるエールになるだろうから。


アキラ作:行動食
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2016年01月25日

娘からの質問

「ねえ、お母さん。なんでテロとかってするの?人をたくさん殺してまで、何が欲しいの?」娘に聞かれた。時々、子どもは大人が答えに窮する質問をさらっとしてくる。

そうだね、何が欲しいんだろうね。自由、平和、しあわせ、満足感、名声、富、権力・・・。テロに大義名分はあるだろうけど、その行為によって彼らが本当に欲しかった物は得られているのかな。

私たち人間は、時折、もの凄く「欲」が強くなるね。恥ずかしながら、お母さん(私)なんかは、その最先端にいるのかもしれないよ。だって欲しい物、いっぱいあるもん。でもね、そんな「欲」が強すぎちゃって、時々目の前にある大切なものを見失う時もあるんだよ。

目に見えるもので、持ってない物が欲しくなっちゃって、目に見えない大切なものが見えなくなっちゃうんだよ。

たとえば、たくさんの富と引き換えに、あなたの笑顔を見られないという取引があったとしたら、お母さんは迷わずにあなたの笑顔を選ぶ。でも世の中には、大切な人の笑顔より富の方を選ぶ大人がたくさんいるんだよ。

「お腹が空いたから、ご飯を食べる」「学校に行って、みんなと勉強や運動や時々ケンカする」「温かいお布団で眠る」「大好きな人といっしょにいる」「ただいま/おかえりって言える場所がある」そんな小さな願いも、国益とやらのために、簡単に潰されちゃう。今、目の前にある人を笑顔にさせられず、誰を笑顔にさせられるって言うんだろうね。

私たちって悲しみや苦しみと常に一緒いると思わない?
この間、お母さんが大好きだった叔母ちゃんが亡くなったでしょ。あの時、お母さんは周りの人が驚くくらい、わんわん声をあげて泣いたよね。

通夜のあと、従弟(叔母ちゃんの息子)が来て、私の肩に手を当てて「ありがとう。母さん、喜んでるよ」と言ってくれてね。その時、大切な人を送り出すことも幸せなことなんだと思ったよ。傍にいなくなってしまう事は悲しいけれど、愛情いっぱいに送り出せるのも、送り出される側にとっても、この上なくしあわせなことだと思ったよ。別れが淋しくて涙をしてくれる人がいる事は、とてもしあわせなことなんだって従弟の言葉でわかったよ。

でもね、戦地では、それができない人もたくさんいる。どこに行き、どこでその大切な命を閉じているのかもわからない。人は必ず天国に行く。でも、その時に「ありがとう」って送り出せない事ほど、残った人間にとって辛いことはないかな。

あなたは「〇〇ちゃんとケンカした」って学校の話をしてくれるけど、そんな話を聞いていて思うんだよ。「ケンカして、仲直りして、また遊べる。そんな事を繰り返せる日々が、そんなお友達がいるってことが、しあわせなんだなぁ」って。だから、そんなケンカ友達も大切にしようね。今は解らないかもしれないけど。

これからのあなたが大人になる過程で、いろんな人たちに出会うだろう。

とても嫌だなって思う人に出会うこともある。でもね、それは自分を成長させてくれる糧になるかもしれない。反面教師として「こうされたら、どう思う?」「こういう言い方をされたら、気分良くないでしょ」と言うのを、身を持って教えてくれる奇特な人。そんな嫌われ役を買って出てくれる有難い人だと思わない?だから怒らない、怒らない。

また、あなたをとても好きになってくれる人にも出会う。あなたのために泣いてくれたり、笑ってくれたり、励ましてくれたり。そして、あなたもその人のために涙を流したり、話を聞いたり、一緒に大笑いする。やがて「ただいま/おかえり」って言える人に出会う。

あなたが出会うすべての人が、あなたにとって意味があり、大切な人になる。

今、私たちがこうしている時間にも世界のどこかで大量の血と涙が流れている。そして哀しみが怒りに変わる。それがテロとなり、また新たな血が流れる。この連鎖は、どこで止まるのか。悲しみを生み出す「欲しい、欲しい」は、どこかでやめられないのか。

ねぇ、あなたには、人を殺してまで欲しいもの、ある?
ないから、欲しくなるのかな?だったら自分が持ってないものを数えるより、持っているものを数えてみようか。結構あるね。しあわせになるのに大義名分なんて要らないね。今ここにある瞬間を想えば、大切な人を想えば、「充分なしあわせ」が見えてくるのにね。


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2015年11月28日

笑い飛ばす力

冷静になれば、原因はただのコミュニケーション不足だとわかるのだが、カッとなっている間は、原因追及はおろか、相手の揚げ足を取って、怒りが再燃。私はいつまで経っても子どもである。

先日、娘のわがままな言動に苛立ち、ついカッとなって怒ってしまった。叱ったのではない。怒ってしまったのだ。言葉が達者になってきた娘とは水掛け論が続く。いい大人が小学校2年生相手に恥ずかしいことではあるが、カッとなった頭は早々には冷めない。自分でも驚くほど、刺々しい言葉が口から出る。

「あの時もそうだった」などと、脳が既にクローズした案件までを引き出してくるから厄介だ。どうやら私の脳は、怒りを鎮めるのではなく、似たような出来事を引っ張り出す方が得意らしい。

しばらくすると空しさが一気に襲い来る。互いを責めつくしたって何も残らない。スッキリ感もない。ただ、後悔ばかりである。もう何度も経験しているのに、なぜ私の脳は学習しないのだろう。

私が子どもを育てることが間違っているのだろうか。この子は私の子に生まれて幸せなのだろうか。他のお母さんたちは、どうやって子どもと向き合っているのだろうか。他人の親子関係がとてもうまく行っているように映り、自分だけがうまくやれないという劣等感。

私は負のスパイラルにずっぽりと嵌ってしまった。

その時、突然「パンタナルのレースでさ」と、隊長が話を始めた。「ブラジル人がどんだけ陽気かってのがよくわかったよ」。え?今言うこと?

「あるCP付近で複数のブラジルチームと一緒になったんだよ。もう暑くて辛くて、疲労が蓄積していて、俺たちもブラジリアンも、みんなフラフラ状態なわけ。

でもさ、ブラジルの人たちって、ずっとゲラゲラ笑ってるんだよ。暑さにやられたかと思うくらい。ともかく陽気なんだよ。

彼らね、CPまで後数キロってところで道に迷ってさ。すぐそこにCPがあるなら、俺たちだったら焦りまくるけど、彼らは急に座りだして休憩してんの。ゲラゲラ笑ってんの。

他のチームも傍にいるし、一刻も速くCPに着きたい。こういう場合、メンバーがナビゲーターに『しっかりしろよ!』って叱責することが多いけど、彼らはチーム全体が平気な様子。『じゃ、北に行ってみよっか』って、ゲラゲラ笑いながら方向を決めて、ゲラゲラ笑いながら立ち上がって北に行っちゃった。ともかく明るいんだよ。それがず〜〜〜〜っと変わらない。最後までゲラゲラ笑ってんの。すごくメンタル、強いな〜って思った」

確かに今回のレースでは、ブラジルチームは強かった。地元だし、暑さに強いのかと思っていたが、どうやら鍵は、その明るさにあるようだ。

隊長は言う「あんなに辛いレースなのに、彼らは楽しそうなんだよ。辛さですら、楽しんでいるという余裕を感じた」と。

ナビゲーターが余裕もなくギスギスしたら、メンバーに不安を与えてしまう。もっと迷うかもしれない。そんな時は、メンバーの「気にすんな。次行こう!」という言葉は、どれほど励みになるだろう。責めずにゲラゲラ笑い飛ばす。そんなチームであれば、辛いはずのレースもなんだか楽しい。

子育ても、ある意味、アドベンチャーレースに似ているかもしれない。

娘につい求めすぎていた。娘がその要求を満たせないと、ついカッとなってしまっていた。責めたところで、いい結果は出るはずもない。ならば「これもこの子の個性」と捉え、少しの苛立ちも笑い飛ばすことができれば、どんなに気楽になるだろう。

笑い飛ばす力。これが私に欠けていることかもしれない。「ちいさなミスを積み重ねれば、重大な事故につながる」というのはよく解る。が、場合によっては「小さなミスは、ひとまず笑い飛ばしてみる」というのも、アリなのかと思う。

娘は元気に育っている。それだけで十分。多少のわがままは、彼女の個性。そもそも小学生の時にわがまま言わずして、いつ言うのだ。物事をもっと大きく捉えて笑い飛ばす。子どもが不安にならないように、「気にすんな。次行こう!」と励ます。そんな母でいたいと思う、ブラジルチームからの教えである。

お蔭で頭が冷めた。隊長の「今、それ言うこと?」って挿入話は、実にタイムリーだった。


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2015年10月14日

負けるもんか!

先日、娘の小学校でマラソン大会があった。3q弱の通学ランをしている娘にとって、パッとしない運動会(短距離)に比べたら、長距離走は、まだ発揮できる余地あり!?
昨年の順位より、少しは上に行きたいというのが胸の中にあったらしく、娘なりの目標順位を立てた。

練習会では、その順位に達したらしく、ゴールの感覚を掴んだ。しかし現実はそんなに甘くない。本番、力走したものの、周囲の速さには及ばず、結果、昨年と同位。娘は、悔しくてこっそり泣いていた。その想いを知っていたからこそ、言葉が出なかった。「がんばったじゃん」も「残念だったね」も「よくやったよ」も、すべて違う。でも、どんな取り繕った慰めの言葉より、その悔し涙がすべてを浄化しているように思えた。

ふと見渡すと、悔し泣きしている子が幾人かいた。そうかぁ。それぞれの子が、それぞれのおうちが目標に向けてがんばったんだね。大人になると我慢ということを覚えてしまうから、人前で負けた悔しさで涙を流す事はなくなってしまう。だから、今、きみたちが素直に感じたままに流す涙は、とても貴重なもの。恥やら外聞やらを身につけてしまった私たち大人にはできない、とても素直で純真な行動。

ふと「父親がアドベンチャーレーサーなんだから、足の速いのは当たり前。負けたのはトレーニング不足。これを反省して次につなげよう」なんて思ったりもした。でも、そんなカラカラに干からびた反省は、自分のお粗末なエゴであり、純粋な娘の悔し涙とはまったく異なる。外聞ばかりを気にしていた自分を恥ずかしく思う。

その日、学校から帰ってきた娘は、「ただいま〜!お腹空いた〜〜」と、ケロリとしていた。午前中に大粒の涙を流していたと思ったのに、もうすっかり忘れているようだ。それでもおやつを頬張りながら、ぼそっと「次は負けるもんか!がんばるね」と、微笑みながら宣言した。

時として必要な負けもある。今回は、娘だけではなく、エゴで固まった私自身にも必要な負けだったんだ。次は負けない、自分のエゴに。


さて、ブラジルで開催される世界選手権まで一ヶ月を切った。海外レース初挑戦となる西井マチマチと高濱ハニワくん。きっと計り知れない不安があるだろう。そんな不安を含めてのアドベンチャーレースは、一体どうなるだろうか。

長丁場のレースでは、もしかしたら、悔しくて仕方ないような出来事も起きるかもしれない。自分は完璧でも、チームメンバーの自己管理が不十分であったため、思うようにレースが運べないかもしれない。どうせ人など住みつかない大自然なのだ。そんな時は涙を流してもいいし、思い切り叫んでもいい。それでも、「負けるもんか」の強い想いがあれば、きっと状況を立て直すことができるだろう。

チームマネージメントの立場として、このような事を言うとお叱りを受けるかもしれないが、やるだけのことをしたなら、それでいい。結果は自然とついてくる。ハニワくんにもマチマチにも、私たちができないこと、味わえない感情、立つことのできない大自然、たくさんの事を感じ取って、強く羽ばたいてほしいと思うのだ。今までに流してきた涙と、レース中に流すかもしれない涙と、「負けるもんか」を胸に、ありったけの力で、思う存分にレースに立ち向かってほしい。

アドベンチャーレース世界選手権inブラジル



 


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2015年05月22日

因果応報

小学校2年生になり2か月が経とうとしている娘は、日々学校で人間関係を学んでくる。学校は勉強だけを教えてくれる場ではなく、人間関係もしっかり教えてくれる場でもある。ことさら兄弟がいない娘にとって、学校は人間関係を学ぶ大切な場になる。

親として、子どもが何でも話してくれる事は嬉しく思う。しかし、娘の話す人間関係の悩み(と言えるほどのものでもないけど)は、得てして自分が正義で相手が悪、更には悪口にもなり兼ねない。そこまで行くと、さすがに聞いていて気持ちの良いものではないのだが、それでも彼女のはけ口とも言える「抱えていることを話せる場所」を閉ざすことはできない。さらには、娘の気持ちを鎮めるどころか、「それはあなた(もしくは相手)が悪い」と、その場で安易に判断して、娘の気持ちを煽るのは言語道断。

そこで、隊長と私は、娘の話を聞く時について、以下のことを決めた。
1)まず娘の話(気持ち)を黙って聞く
2)どうしてそんな事が起きたのかを一緒に考える
3)どうして相手は、そんな事を言って(して)しまったかを考える
4)解決法(自分はどうすべきか、気持ちをどう整理するか)を一緒に考える

しかし、解決法を見つけるのは簡単ではないし、頭で解っても、気持ちが理解できないことがある。それは小学校2年生の娘に言えることではなく、大人の私自身がそうであるように。

「相手に悪気があったわけじゃない事は理解している。でも、なんだかモヤモヤする」そんな事は、子どもの世界に限ったことではないのだ。私なんてショッチュウだ。

そんな時こそ、自分自身に言い聞かせる。
「〜因果応報〜」
良い行いをしてきた者には良い報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがあるという仏教用語である。

私たちは神様でも仏様でもない。だから相手に対して制裁などできない。そんな立場にない。しかし、それを行った相手には必ず同じ事が降りかかる。勿論、自分も然り。

小難しいことは小2の娘には分からない。が、たいていの場合、話の最後に辿り着くのは、「自分がして欲しくない事は相手にしない。自分がして欲しいことは相手にする」という結論。

自分が悪口を言われたくないなら、人の悪口も言わない。自分が褒めて欲しい(認めて欲しい)なら、人も褒める(認める)。話を聞いて欲しいなら、人の話を聞く。相手に求めるものを、まずは自分が相手に施す。

「明日からそうしよう」となって、話は幕引きとなる。それでもまた、同じような人間関係のネタを持ち帰るのだが(笑)。

大人も然り。自分だって言ってほしくない言葉を、つい子どもに言ってしまう。優しい言葉掛けが欲しいのに、疲れが溜まると苛立ってしまう。今、話を聞いて欲しいのに、「後で」と後回しにする。やろうと思ったことを頭ごなしに反対する。人に嫌われたくないのに、自分が気に食わない人を蔑む。求めてもいないのに不平不満を言いまくる。それではいけないと解っているが…。

そもそも私のような未熟な人間が、子どもを育てている事がどうなんだろう?とも思うのだが、子育ては親育て。娘という人に、私は育てられている。こうして、こんな毎日を繰り返しながら、これからも娘を通して学んでいこう。

「因果応報」自分のやった行いの結果は、自分に返ってくるのです。


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2014年12月23日

ルール

娘を注意していて、あることを思った。「自分のルールをおしつけているんじゃないか」と。

娘には娘の主張がある。小学校1年生の主張は正しいものばかりではない。どちらかというと感情的に、また自分に有利な方向に持っていこうとする。親がそれを理性的に受け止め、なおかつ正しい方向に導くのが道理であろうが、こちらも人間。相手が感情的になればなるほど、こちらも感情的になる。親と言えど、それを抑えることはなかなか難しい。導くべき道理が理性を超え、感情的になれば、「おしつけになってしまうのではないか」と思ったのだ。

人はだれでも自分の中に「こうすべきだ」というルールがある。それは時に自分を戒めることに働く。日本人のマナーの良さが世界的に名高いのは、自分の中にあるルールで秩序を保っているからなのかもしれない。

しかし、そうばかりではない。時に、自分のルールに沿わない人の意見など聞かず、そればかりか、一方的に非難をする。自分の意見が絶対的なものと錯覚し始めると、思考が異なる人間を見下し、やがて攻撃し始める。その最たるものがテロである。それはもはや、哀しみを生み出すだけのルールだ。

話は変わる。以前、あるアドベンチャーレーサーから「自分とチームメンバーとの気持ちの差がレースの展開を辛いものにしていった」という話を聞いた。メンバー構成、準備、トレーニング、車両手配、休暇申請、家族の理解など、レースに出場するために費やすお金、時間、手間はかなり重圧になる。しかし、メンバーによって重圧度は異なるし、増して他のメンバーのプライベートの苦労は知らない。

そうこうして始まったレースでは、寒さや眠さでメンバーのレースに対する士気が下がるのを目の当たりした瞬間、自分がこのレースに出るために犠牲にしてきた物が一気に湧き上がり、「どうしてもっと集中できないんだ」と非難してしまったそうだ。しかし、その一言でメンバーの士気はどん底まで落ちた。「なんでここまでして、こんな事をやるんだ?」という疑問が湧く。互いに励ます言葉もなくなり、それが更にレース展開を辛いものにしてしまったようだ。

足が痛い。眠くて仕方ない。寒くて辛い。メンバーがどれだけ訴えても、結局、人の痛みはわからない。すべては自分の価値観と経験値でしか測れない。

かと言って、同情ばかりしてしまえば、レースは完走できない。体力や技術に差はあって当然。不眠不休で動き続けるレースでは、感情的になることも多い。そこを、どうやって理性的に、チームの一員としてみんなを引っ張るか、もしくは支えていくか。選手は常にこの局面に立つ。これこそがアドベンチャーレースの神髄であり、本当の面白さなのだ。アドベンチャーレースは、その過酷さから浮世離れしているようだが、実はとても人間臭く、普段の生活に通じている。

自分のルールは他人には通用しない。稀に価値観の似たような人が現れたとしても、自分のルールに則ることはない。アドベンチャーレースでも「これができて当然」という自分のルールも、メンバーにとっては困難極める事なのかもしれない。逆に「危険すぎる」という自分のルールに対し、他のメンバーは、いともたやすくこなすこともある。

普段の生活においても同じ。「ちゃんとやりなさい」と求めても、当の本人はしっかりやっているつもりなのかもしれない。メールの返信ひとつにしても、時間のかかる人もいれば、すぐに返事を送る人もいる。さっさと仕事をこなす人もいれば、丁寧に精査してから取りかかる人もいる。ルールは人によって異なるのだ。それを感情的に攻めるのは、自分の気持ちを理解してほしいという「おしつけ」である。

「ルール」は英語で「rule」。そしてそれに「人」を意味する「…er」をつけると「ruler」つまり「支配者」となる。しかし、いくら権力で人を支配できたとしても、気持ちや考え方まで支配はできない。

「ruler」のもうひとつ意味は「ものさし」だ。私たちはrulerを正しく使うことで、目に見える物を測り、秩序を保つことができる。しかし人それぞれが持つrulerは、決して他人を測ることができない。それを今一度自分に言い聞かせ、娘に「おしつけ」ではなく「導く」ようにしていこうと思う。


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2014年09月17日

「すごいね」よりも「ありがとう」を言われる人に

夕食の時に娘がポロリと言った。

「学校でね、何かすごい事をした人には、先生がそれを発表して、みんなで拍手するんだよ。でね、先生が、その子にいい物をくれるの。今日は〇〇ちゃんがボールペンもらったんだよ」どうやらアウトスタンディングな事をした生徒を、クラス全体で称賛するということらしい。

「アキラだって当番じゃなくても花に水やりをしたり、給食のストロー配りに手を挙げて自分からお手伝いしたりするんだけど…。でも、まったくもらえない」とボヤく。当初(そういうのを欲しくてやってんの?)と思ったが、どうやら本人は、何かが欲しいわけではなく、自分がやっている事もきちんと見て欲しいようだ。先生にとっては、それはアウトスタンディングではないのだが、どんな些細なことであろうと、子どもは認めて欲しいのだ。

そもそも私の子だもの、残念ながら今後も「すごいね」は、あまり言われないだろうけど(笑)。実際に私自身、「すごいね」なんて、あまり言われたことがなかった。もちろん、今でもだけど(笑)。


称賛を欲するのは、何も子どもの世界だけではない。大人になったって周囲から「すごいね」と言われたい。褒められたい。尊敬されたい。

しかし、大人の世界では、素直に「すごいね」と言われることが少なくなる。増してやそこに妬みが加わると、意味を含んだり、蔑んだ「すごいね」にもなり兼ねない。大人というのは複雑だ。

だが、娘の話を聞いているうちに、ふと思った。娘がボランティアで花の水やりをするように、実は「すごいこと」は誰もがしているのだが、日常の中に埋もれてしまい、見えなくなってしまっているのではないかと。

毎日の事だから、それが当然になってしまう「すごいこと」。たとえば、日に三回も食事の支度をすること、いつも掃除をしてキレイにすること、美味しい物を出すためのお店の努力、人に喜んでもらうためのサービスマンの気遣い、天候や鳥獣・虫に悪戦苦闘しながら野菜を育てる農家の努力、休みなしで働く人たち…。何十年もの長い間、毎日そういった日を繰り返すのは、「すごい」ことである。たまに隊長のことを「すごい」と言ってくれる人がいるのも、彼がアドベンチャーレースを地道に続けてきた日々があってのことだろう。そう思うと、この世は「すごい」事だらけで、実は「すごい」で成り立っている。

だが、事によっては「すごい」は一過性もある。本当に目立つ「すごい」は、その場限りのこともある。そんな「すごい」は、やがて忘れる。忘れることは、人が前に進むよう、神様が人間に授けた力なのかもしれない。

「すごい」と称賛される事が、長い目で見れば一時の事であるとするなら、他に永遠となる言葉を大切にしてみてはどうだろうか。人と人との間で大切な言葉「ありがとう」を。

24時間無休無償で家族のために動き回る母、四面楚歌の中で頑張る父、家族の中心にいて太陽の存在のような子どもたち、辛い時すぐに駆けつけてくれる友達、話を聞いてくれる友達…。周囲は感謝すべき人で溢れている。

「すごいね」よりもインパクトは少ないかもしれないけど、投げ掛ける方も、投げ掛けられた方も、胸の奥にじんわりと染みていく。深くまで染みて行けば、ずっと胸が覚えている。だから思うのですよ。「ありがとう」は「すごいね」より、ずっと意味が深く、温かいものだと。

もちろん名声は、あって邪魔なものではない。でも、この齢になって思う。もっと大切なものがあると。負け惜しみじゃなくて。素直に「この人が喜んでくれたら嬉しいな」と思う気持ちは、時として温かな手のひらで包み込んでくれるようだ。だから「ありがとう」はじんわりとうれしく、それでもって最高の言葉に価する。

まだ小学校1年生の娘にはどこまで通じたか分からない。が、彼女も少しだけ理解してくれたかな。『「すごいね」よりも「ありがとう」と言われる人に』。
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2014年05月02日

体質改善

小学校に入り、以前より強く自己主張するようになった娘。「強く」と言うよりも、「感情的に」と言った方が当てはまる。
その自己主張に対し、頭ごなしに叱る私。「頭ごなしに」と言うよりも、「感情的に」と言った方が当てはまる。

困ったもので、日に日に娘は私に似てくる。それも自分が持つ嫌な性質ばかり。良いところが似てくれればいいのだが(って、そもそも私には良い点がほとんどない事が問題だ)、なかなか思うようにはいかない。

すぐに感情的になることが私の体質だとしたら…。このままでは娘は今よりもっと感情的な人間になってしまう。それでいい方向に進むならいいが、私の経験から言って感情的になった時ほど良い方向には行かない。ならば、まずは私自身の体質(感情)改善を図るしかない。



STAP細胞論文に画像の切り貼りがあり、理化学研究所の調査委員会は担当者の単独不正と結論付けた。その調査委員会の委員長が過去2回にわたって発表した癌に関する2本の論文で、画像の切り張りや使い回しがあったと指摘された。当の調査委員長は「実験データがそろっていることから、不正はない」と発表したものの、委員長は辞任した。

真実はさておき、私みたく理化学のことは何もわからない素人からすると、理研という所では、画像の切り貼りは当たり前のことであり、普通に先輩から後輩へと受け継がれているのかな?とも思ってしまう。

もし画像の切り貼りは当たり前だとしたら…。不正じゃないとしても、せっかく苦労して生み出した論文を不正と勘違いされるくらいなら、切り貼りは当たり前という理研の体質改善をした方がいいのかもしれない。

「子は親の鏡」と言うけれど、「鏡」になるのは親子関係のみならず、どんな組織でも当てはまる。その組織が堂々と不正をしていたら、そこに入ってきた新人も堂々と不正を行うようになる。

新人や子どもたちに口で言っても効かないことはある。ならばひとつ、先輩なる者が、教育者なる者が、親なる者が、自分の体質と向き合ってよろしくない部分は改善していく手段を取るのもひとつかと思う。

人を変えようと思うなら、まずは自分が変わるしかない。

さて、新入学、入社から1カ月が経つ。受け入れ側も今一度、体質を見直す時期でもある。

ちょっぴり成長した娘と私の関係も、「ママ」から「母」に変わる時期なのかもしれない。



『子は親の鏡』

けなされて育つと 子供は 人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと 子供は 乱暴になる
不安な気持ちで育てると 子供も不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると 子供は みじめな気持ちになる
子供を馬鹿にすると 引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると 子供も人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると 子供は「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば 子供は 自信を持つようになる
広い心で接すれば キレる子にはならない
褒めてあげれば 子供は 明るい子に育つ
愛してあげれば 子供は 人を愛することを学ぶ
認めてあげれば 子供は 自分が好きになる
見つめてあげれば 子供は 頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば 子供は 思いやりを学ぶ
親が正直であれば 子供は 正直であることの大切さを学ぶ
子供に公平であれば 子供は 正義感のある子に育つ
優しく 思いやりを持って育てれば 子供は 優しい子に育つ
守ってあげれば 子供は 強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば 子供は この世の中はいいところだと思えるようになる

「子供が育つ 魔法の言葉」 ドロシー・ロー ノルト著 より
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2014年03月28日

美人駅員さん

こども園を卒園し、娘の春休みが始まった。私と娘は実家の愛知に向かった。

隊長に上毛高原駅まで送ってもらい、豊橋までの新幹線の乗車券と特急券を購入した。購入機の近くに私より若干年上のボランティアらしき女性がいて、購入のフォローをしていた。制服を着てないので、駅員ではないようだ。

初めての購入でもないし、クレジットカードで買おうと思っているため、あまりのぞきこまれるもなんだか…と思っていたのが行動に現れたのか、彼女は少し離れた絶妙な位置に立って、質問があるときにすぐに来られるスタンスをとっていた。これなら初めての人も、お年寄りも安心して購入できる。私は彼女のフォローを必要としなかったが、彼女の「ありがとうございました」の言葉と微笑みに、「ありがとうございました」と返礼した。

まだ雪が残って肌寒い上毛高原を発ち、東京に着くと、そこはなんだかモワーッとして生ぬるい。人も、おまけに花粉も、ついていけない速さで飛び交っていた。駅の改札付近は私たちと同じように帰省をするのか、それとも遊びに行くのか、こども連れの家族でにぎわっていた。

上越新幹線から乗り換えで東海道新幹線の改札に向かい、乗車券やら特急券やらを重ねて改札機に入れた。なぜだか改札機の出口扉が閉じ、立ち往生。娘も心配そうな顔になる。

改札機に入れたはずの切符を持って、近くに若くてキレイで、バリッ化粧をした女性の駅員がいたので、飛んで行く。子ども連れの母にとって、女性駅員は親しみが持てる。その女性駅員に「入れませんでした」と切符を見せた。

女性駅員はニコリともせず「上毛高原から乗ったんですよね?上毛高原から東京までの特急券が足りません」と切り捨てるように言う。「え?でも上毛高原で確かに切符を買って乗ったのに・・・」と言いながらガサゴソと鞄の中をさぐる。切符の領収書などは出てくるものの、肝心な特急券がない。困った。

女性駅員はムスッとした顔で「落としてないですか?今来た道を探してください」と言う。そうかなぁ。この改札口まで鞄から切符を出した記憶はない。乗り換え時間の時間も迫る。娘もこちらの雰囲気を感じとったのか、不安そうな顔だ。

マゴマゴしている私の態度に彼女はイラッとしたのか「ないなら、窓口に行って、購入しなおしてください」と冷たく言う。それでも「おっかしいなぁ」と、ウジウジしている私に「戻って探してください」と「購入しなおしてください」の繰り返し。

仕方ない。ここで押し問答しても前に進めない。切符があれば乗り換えられることだ。なんだかもったいないけど、買い直すしかないか。あきらめかけたその時、彼女が脇にある改札機の切符の挿入口に1枚の切符を見つけた。上毛高原〜東京の特急券だった。

彼女は素早くその切符を引き抜き、「これですか?」と聞いてきた。まさしくそうでしょう!今、この入口で引っ掛かったんだから、これです、これこれ!よかった〜。

しかし、今度は「本当にそうですか?」と今度は訝しまれる。これを証明する術がない。ひょっとしたら違う人の切符かもしれない。ここで引っ掛かったことと、この切符も上毛高原から東京までの特急券であることの2点だけが証明だ。そこまで怪しまれてもどうにも…。

しかし、こちらも時間がない。「そうです」と強く言った。彼女は私の顔をしばらく凝視して、「フン」と鼻で応えて切符を私の手に押し戻した。私は娘の手を引いて、返してもらった切符とその他の切符を重ねて改札機に入れた。今度はスムーズに通れた。こうして東海道新幹線のホームに入った。

なんとも後味の悪い乗り換えだ。

「どうしましたか?」とか「切符を見せてもらってもいいですか?」などの言葉をかけてもらいたいと思う方が間違いなのだろうか。もちろん一緒に探してくれとは言わない。が、人が困っている時の対処として、「買いなおしてください」は、最後の最後でいいだろう。忙しいのはよく解る。私みたいに切符を紛失したり、間違えて乗ってしまったり、荷物や様々なトラブルが次から次にやってくるのも解る。しかし、それでも、トラブルに遭った側としては、藁をも掴む思いである。せめて一瞬でも心配の表情を見せてくれるだけでもホッとする。

上毛高原駅のボランティアらしき女性と、東京駅のバリッとした制服の女性駅員。乗客に対する、この二人の立ち位置は似ているが、スタンスはまるで違った。

東京駅のように一日に何千人もの不平不満やトラブルに直面していれば、次第に笑顔も消えるのかもしれない。ただロボットのように対処方法を指示するだけでは、せっかくきれいにお化粧した顔がもったいない。そして何より、毎日こうして過ごす彼女の人生がもったいないように思うのだ。大きなお世話だけど。

世の中には接客をする仕事もあれば、お客様と直接話をすることのない仕事もある。しかし、どんな仕事であれ、どんな場合であれ、人との交流はどこかに存在する。ならば、笑顔を持って話をしたい。笑顔をNGとする立場ならば、一緒に哀しむようにしたい。小さなことでいいから、人に喜んでもらえるような、役に立つような、優しい言葉が口から出るような、そんなことを喜びとする心を娘には持ってもらいたい。

豊橋に向かう新幹線の中で言った娘が言った。「ねぇ、お母さん。さっきのお姉さん、なんだか怖かったね。嫌な気分がした。アキラはね、大きくなったら笑顔の仕事がしたい」。小さな娘にも、どうやら東京駅の美人駅員のアンドロイドのような冷たい対応が、針に刺されたようにチクリと印象に残ったようだ。

どんな仕事内容であってもいいから、子どもたちに「ああいう仕事をしたい」と思ってもらうような、誇れるような仕事に就きたいものだとつくづく感じた旅路であった
posted by Sue at 14:49| Comment(0) | 愚母の苦悩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月27日

親としての壁

最近、「子育ての壁」が前より少し高くなってきているように感じる。子どもが成長するにつれ、親の課題レベルも上がっていくのかもしれない。

娘がこども園に入園した時は、まだ気持ちを言葉で伝えることができなかった。どこがどう痛いのか、何が嫌なのか、何が悲しくて泣いているのか、どうしたいのか…。理解してやれない自分は、世界で一番ダメ母だと思った。

今年4月に小学校に入学する年齢になり、多少、言葉で気持ちを伝えられるようになった。しかし、それと同時に彼女の心理も複雑になってきた。なんというか、些細な出来事で感じる様々な想いが、細かく細かく編み込まれていくように。今思えば、入園当時に表していた気持ちはまだシンプルで分かりやすかった。

だからなのか、彼女の抱える悲しみや怒りの原因を突き止めるのに、2歳の時と比べると、さらに時間がかかる。「だって」と言い訳の言葉を使い、その原因を塗りつぶそうとしていく術も使うようになった。だからこちらが提案する解決方法は、ただ上から物を押し付けているだけで、彼女が本当に納得するものではない。塗りつぶした心を、無理やり他の色でベタ塗をしている感じ。

他の子がどうなのかは分からない。ひょっとすると、もっと手が掛かる子もいれば、素直で手の掛からない子もいるだろう。だからと言って、比較するのは何だか違う。だから、うちはうちでいいのだ。人前で大声で泣き叫んだり、みんなができるのに、うちの子だけできなかったり。そんなこと、いっぱいある。でも、それがこの子のすべてじゃない。優しい面も、人を思いやる気持ちも持ち合わせている。嫌だけど、下手だけど、涙を目いっぱいに溜めて頑張っている時もある。つい、同年齢の子と比べた結果を注視しがちだけど、目に見えない良い点こそ、見失わないようにしたい。

結局、子どもは、親が思うようにいかない(ん?うちだけか?)。何度も言っているのに聞いてないのか、理解できてないのか。どうしてこんな事をするのか。そしてまた繰り返すのか。

そんな大人が理解できない事でも、子どもの中では理由があり、その中にも彼らなりの正当性が存在している。いつかは親からの言葉ではなく、自分が体験して、やっとその意味が解る日が来るのだろう。それまでは、その正当性が存在する限り、きっと繰り返していくのだろう。

そう思うと、私たち親は、親として越えるべく壁に随時、突き当たっているのかもしれない。娘がもたらすのは、ただの我儘ではなく、「越すべく壁」という親への課題。

もっとも簡単な越え方としては、壁を人の責任にすることかもしれない。「あなたのため」「園・学校は間違っている」「○○ちゃんが悪い」「先生のやり方がおかしい」。言い方はどうであれ、自分の責任はそこになく、責任を他人に据え置くこと。自分にはまったく責任がないから、気持ちもラクだし、人の悪口だけを言っていればいい。

ラクな壁越えは、テレビなどで「今の政治はダメだ」「○○党はダメだ」と口角泡を飛ばしている識者にも似ているように思う。政治がダメでも、つまらないのでもなく、政治家がつまらないだけであり、そんなつまらない政治家を選んだ私たちの責任でもある。この識者たちも有権者なわけで、自分たちにも責任があるわけだ。見ていておかしい。きっと偉い識者なのだろうけど、なんだか品がない。

本当に品がないっての言うのは、箸が上手に持てないとか、ダサイ服装をしているとか、化粧がケバいとか、そんなんじゃなくて、人の悪口を平気で吹聴する事だと思うから。

お金も、いい車も、大きなお家もないけど、品までない人間にはなりたくない。

さて、これからしばらくの間、娘は隊長や私の、その壁を越えていこうとする姿を見ていく。時にはデリケートだったり、難解だったり、大変なこともあるだろうけど、投げやりにならずに、品を失わずに、丁寧に向き合っていかなくては、と思うのだ。
posted by Sue at 13:52| Comment(0) | 愚母の苦悩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月21日

直談判

12月8日は菩提樹の下でついに『お悟り』を開かれ仏陀(覚者)となられた。この尊い成道の日を記念して法会を『成道会(おさとりの日)』という。

曹洞宗寺である娘のこども園は、毎年この日前後に『成道会』という名の学芸会を開催する。年長組の最大の目玉は、釈迦がおさとりを開かれた経緯のお芝居である。毎年、同じお芝居であるため、ストーリーも、どんな役があるかも親たちは知っている。

成道会の練習会が近づくと、年長組の子どもたちは、自分が何役になるのか気になりだす。今年、年長組の娘も何役をしたいか思いあぐねていたが、どうしてもやりたくない役だけは自分の中で明確になっていたようだ。

先日、園から帰ってきた娘のカバンにお手紙が入っていた。そこには「○○役になったので、白いタイツをご用意ください」と書かれていた。「あ、決まったんだね。アキラは○○なんだ」と言った瞬間、娘は大声で泣きし始めた。どうしてもやりたくない役になったのだ。どうやら子どもたちの意図は聞かず、先生たちで決めたようだ。そりゃイチイチ聞いていたら話はまとまらない。ある程度の体系や性格を見込んだ配役だろう。そう思えば、娘の役は納得がいく。

が、娘は泣く、泣く、泣く。思えば、昨年の成道会でもやりたい役になれなかった。前は我慢したんだから、今回こそ!と期待していたのだろう。期待した分、ショックも大きい。

娘の役は割と目立つ役で、先生によると、毎年、取り合いになるくらい人気のキャラクターだとか。正直、最後のこども園の晴れ舞台でその役になったことは親としてラッキーだし、レースで園最後の舞台を見られない隊長のために撮影に張り切ろうと思っていた。

しかし、親の意に反して娘はブルーだ。家に帰ってきては毎日のように泣く。「そんなに嫌だったら、自分でどうにかしなさい。お母さんからは先生にお願いしないよ。人に言わせたって気持ちは伝わらない。嫌だったら、自分の力で変えてごらん」という私の突き放した言葉に、娘は「わかった。先生にお願いしてみる」と答えた。「万が一、他の役になったら、それがどんな役だろうと絶対に文句は言わない」ということだけ約束をした。どうせ何も言わないだろうと思った。

翌日、帰宅した娘は「先生に言ってみた。でもダメだって」と呟いて大粒の涙をポロポロこぼした。直談判したことに驚いたが、結果は仕方ない。先生だって考えに考えた配役。ここでひとりの交代を許せば、他の子だって交代したいと言い出すだろう。「そっか。じゃ、がんばろう」と言ってなだめた。

しかし、あきらめきれない娘は翌日に抗議文を先生に渡したそうだ。しかしその戦法もあっけなく撃沈。「もうあきらめるだろう」私はそう思い、白いタイツを先生に渡した。

ある、お迎えの日。「あの〜お芝居の役のことですが…」と先生。あ〜、また我儘を言って困らせてしまったんだな。「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」と先に謝った。

「いえいえ。アキラちゃん、毎日毎日お手紙をくれて。本当に嫌だったんですね。気が付かずにすみませんでした。あの役は毎年、すごく人気が高くて、アキラちゃんもそのうち好きになるだろうと思って練習していたんですが…」。泣きながら練習していたそうだ。ったく、誰に似たのやら。しかも毎日抗議文を出してたなんて。どこぞの参議院議員じゃあるまいし。

幸いにも、その役でもいいという子が現れたため、娘はその子と交代することになった。ここまで練習してきたにも関わらず、快く交代してくれたそのお友達には本当に感謝している。

こうして娘の直談判&抗議は功を奏した。保育園児にしては少々度が行き過ぎた態度だったかもしれない。親なら、与えられた役を受け入れるように促すべきだったのかもしれない。その役の良さをトコトン伝えるべきだったのかもしれない。ただ上から言い聞かせるよりも自分が納得いくまで向き合った方が良いと思った。先生の迷惑も考えずに…。(先生、すみませんでした。ありがとうございました)

だが、今回の一件を通して、彼女の中で何かが変わったようだ。現状がどうしても嫌なら、どうにかあがいてみる。あがいて、あがいて、あがけば、何かがちょっとだけ変わることを実感したようだ。

大人社会でも、納得のいかないこと、受け入れられないこと、迎合できない状況はいくらでもある。どうしても嫌なら、どこかおかしいと思うなら、口に出して言ってみるのもアリだ。それによって周囲が変わることもあろう。口に出して言ってみて、はじめて社会が、環境が、政治が、国家が変わることだってある。何も言わず我慢していれば、それに賛同していると思われてしまう。

イジメもそうかもしれない。嫌ならちゃんと口に出して言ってみる。黙って我慢してないで、何か行動を起こす。それで周囲が変わるかもしれない。最初からあきらめずに、やってみることは無駄ではない。

与えられた環境を受け入れることは大切だ。だが、その中でも何かを変えようと動いてみるのも大切なのかもしれない。

そうえいば…私が保育園児の時のことを思い出した。学芸会で『舌切り雀』のお芝居で、私は強欲なお婆さん役だった。役に立候補したのか、先生が決めたのかは覚えていない。もし先生が決めたのなら、先生に対し、大声で言いたい。「先生、ナイスチョイス!」

posted by Sue at 16:38| Comment(0) | 愚母の苦悩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

成功体験

長月。今月後半にあるこども園の運動会では、年長組恒例の障害物リレーがある。

そこには鉄棒がある。驚くことに逆上がりでクリアする子も少なくない。昨年のクラスはほとんどの子が逆上がりをしていた。もちろん前周りでもいいのだが、練習中に闘争心に火が点くのだろうか、見事にクリアしていく。それがリレー競争となるのだから必死だ。5〜6歳の子たちのがんばる姿は、なんとも微笑ましくて、たくましくて、面白い。

さて、今年はウチの娘もやらなくてはいけない。しかし、手ごわいほどの運動音痴である。前回りですらできるかどうか…。

先日の水泳大会では水に顔を浸けることすら怖がっていた。お風呂では何とかできるのだが、プールとなると雰囲気が違うのか、怖いようだ。

隊長が「水っていうのは生命に関わるから、自然と防衛本能が働くのかもしれない。いくらプールとは言え、やっぱり水は特殊な環境だ」と言っていた。確かに私が子供のころもプールというのは他の体育の授業とはかなり異なる性質を持っていたように思う。

やるだけやって、できなかったのなら、それでもいい。ただ、できないからという理由で逃げ出してほしくない。あきらめるのではなく、自分に納得がいくまでやってみる。そうすれば必ず何らかの結果が生まれる。目に見える結果ではなく、気持ちの上で得る結果。逃げてしまえば、次も逃げればいいという、逃げ癖が身につくだけ。

それにはまず成功体験を得ることだろう。難しかったことができた、クリアした、受かった、など、小さなことでも「目標を達成すること=成功」を経験することで、その満足感や達成感を得ることができる。それこそが次につながるのだ。頭ごなしにやらせれば嫌悪感が強く残ってしまう。

アドベンチャーレースも同じである。ランは得意でもウォーターは苦手。だからこそ、ウォーターの練習から逃げ出さずに、立ち向かっていく。多種目であるアドベンチャーレースでは、好きなことばかり練習していては勝てない。たとえ下手であったとしても、そんな頑張る姿勢はチームに良い影響をもたらす。

苦手なことを練習することは、勝つことに対して避けられない道だ。偉業を成し遂げイチローも言っていた。「特別なことはしていない。ただ毎日同じことをやるだけ」。もちろん彼は特別で天才だ。しかし、そんな特別な存在の中にも、身近なことを教えてくれている気もする。できないことでも、毎日やっていればできるようになる。それは凡人にも通じる。

さて、雪国の水泳の時期は短い。プールの時期は過ぎてしまったものの、これから向かう鉄棒への挑戦で、どうにか娘には成功体験を得て欲しい。下手でもいい。速くなくていい。まずは「できた!」と言う達成感を味わって欲しい。

先日、室内用鉄棒のあるお友達の家で特訓。お友達のパパやママにもお教えてもらったそうだ。しかし、なかなかグルリと回りきれない。それでも一所懸命にやっていたと聞いた。がんばっているのだ、彼女なりに。親の知らないところで、あきらめずに何度も何度も鉄棒に向かっていっている。

私に何ができる?練習につきあうことくらい?それも少々加熱してしまうときがある。難しい。教える事は本当に難しい。

ならばと昨日の夕方「前回りができるまで禁酒宣言」をした。それを聞いた隊長までもが同禁酒宣言。まだまだ暑い。壊れた冷蔵庫も買い替えたし、風呂上りにキンキンに冷えたビールを我慢するのは辛いけど、こんなことくらいしかできない。

娘は「お父さんとお母さんにおいしいビールを飲んほしい」と、禁酒宣言を聞いてすぐに近くの公園に行き、隊長の特訓を受けることに。人は『自分のため』より『人のため』の方がパワーが出るのだろうか。

しばらくして家に戻ってきた娘は、玄関のドアを開けるや否や「酒が呑める 呑める 呑めるぞぉ〜 酒が呑めるぞぉ〜〜〜」と上機嫌で歌う。????なんだ、その昭和な歌は????

「お母さん、前回り、できたよ〜!今日は呑んでいいよっ!」ええええええーーーーっ!?早いっ!勇んで特訓する気でいた隊長に聞いてみると「すぐにできた」とのこと。うれしいのはうれしいのだが、せっかく禁酒を決断したのに。なんだか勢いよく飛び出したのに、すっ転んだ感じ(苦笑)。

でもって、その晩には、あれだけ苦労していた後転(でんぐり返し)も難なくできた。鉄棒での成功体験が活かされたようだ。そしてお風呂でも頭いっぱい潜ることができた。

子どもというのは、なんと素直なんだろう。大人もこれぐらい自分の気持ちに正直になれるといいのに。

あ〜でもね。5歳児がラバクーダ(♪日本全国酒飲み音頭)はどうかと思うよぉ。

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