2021年02月09日

理想の完璧な自分

観光地であるみなかみ町は首都圏からの来客が多い。しかし新型コロナ感染症対策として1都3県に緊急事態宣言が発令されてからは、町はすっかり静かになってしまった。

盆暮れ関係なく現場で戦う医療従事者の事を思えば当たり前ではある。しかし観光業も追い詰められているのが事実で、感染対策をしっかり行いながらもあの手この手で商売を続けようと必死になってきた。


私たちの仕事はアウトドアスポーツ関連事業であるが、これもまた新型コロナウイルス感染の拡大に大きく振り回されている。レース、イベント、取材、講演会、講習会は悉く中止。この惨事がいつ終わるのかわからないが、それでもメンバーはトレーニングに励んでいる。世界の舞台に再び立つ日がいつやってきてもいいように。


アドベンチャーレースでもこれだけしんどいのだから、オリンピック選手のしんどさはどれ程か。現時点で東京オリンピック関係のお偉い様方が開催すると言っているのだから、選手らはそれに向けて必死に練習している事だろう。

詮ずる所、みんな踏ん張っているのだ。医療従事者も、観光業者も、飲食店も、アスリートも。

レースも延期、講演や講習会の中止に加え、お手伝い先の蕎麦屋も人員縮小と、私自身の仕事も激減した。
「どうせしばらくは仕事ができないのだから、空いた時間を自分磨きに使おう」
長期化する自粛生活はある意味チャンスかもしれない。そこで娘の古いピアノ本を持ち出してみたり、凝った料理に挑戦したり、英語のブラッシュアップを始めたり。挙句の果てに「何かを極めよう」なんて思い始めたりして・・・。でも結局、続かない。

私は弱い、と改めて思う。ただの〝弱い″じゃない。〝めちゃくちゃ弱い″のだ。どうやったら隊長みたいな鉄の意志が持てるのだろうか。どうやったら「お金がなくてもどーにかなるさ」と割り切れるのだろうか。

知り合いは得意の料理スキルを使ってテイクアウトを始めた。マイナー競技のアスリート達はSNSを使ってセルフプロモーションをしている。オンライン授業を始めた友人もいる。それぞれが持ち前のスキルと軽いフットワークで、この苦境を乗り越えようとしている。それを目の当たりにすると、何もできていない自分に焦りを感じる。

それだけならまだしも、同年代のタレントがいつまでも若々しく美しかったり、センスが良かったり、ビジネスで大成功していたりすると「何やってるんだ、自分」と焦る。もうコロナ禍とか関係なく、いろんな事項を引っ張り出しては焦る自分がいる。

成功してる(見えてる?)人たちから刺激を受け、私にも何かできることがあるだろうかと考える。きっと何かある。誰にも負けない何かが。その何かを極めている理想の完璧な自分が、何もない今の自分を見下ろしている。

そんな事を思いながらも、時間だけが無駄に過ぎて行くように感じて、また焦る。

ん?なぜ焦るのか?私はいったい何に対して焦っているのか?

この焦りの原因は、常に誰かと比べている事にある。「自分はまだまだダメだ」「こうあるべきだ」「やらねばならぬのだ」と自分を鞭撻する。が、そもそも何をやるかが決まってないから、空っぽの鞭撻になってドーンと重い塊になる。

沈んでいく。しんどくなってきた。あ~もう比較は止めよう。
グイっと理想の完璧な自分を引きずり下ろし、今ここにいる自分がすべてであることを認識する。
いや、そもそも、最初から何ひとつ比較するような物はなかったかもしれない。

今ここにいる自分は「何ができるか」は言えない。でも「何が好きか」は言える。
あり得ない内容の韓国ドラマ、漬物と日本酒、大きな図書館、アロマディフューザー、散歩、足湯、娘との連弾、立ち読み…。
うふふ。なんだかワクワクしてきた。

引きずり下ろした理想の完璧な自分が「それでいいの?」と下から問いかける。
「いいの、いいの。結局何かを極めたところで、好きって気持ちには叶わないからね」
それこそが隊長を見ていて学んだことである。




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2021年01月15日

ちはやふる ~アオハル編~

先日、娘の学校で百人一首大会があった。1年生の娘のクラスでは、12月に国語の授業で百人一首が始まり、最終的にこれが大会にまで発展する。

大会には1年生から3年生の全員が出場。1チーム3~4人で、1クラスが10チームに分かれて編成される。1チームずつクジで対戦チームが決まり、取った札の数で勝ち負けが決まる(同じクラスで戦うことはない)。1回勝負。クラス対抗で、1クラスで勝ったチーム数の多さで順位が決まる。つまり10戦全勝に近ければそこが優勝となる。

さて時は12月。百人一首にまったく馴染みのない娘は、百人一首が趣味というクラスメイトに歌人の人物像や歌の背景を訊いた。それが趣味と言うにはあまりにも言葉が足りない彼女は、百人一首を語らせたら一晩中話ができるという、いわゆるマニアを超えたオタク以上の人だった。彼女の熱い説明から、百人一首の奥深さにすっかりハマった娘。本を購入し、毎日読みふけった。お風呂でも通学電車の中でも、それを読んだ。

「お母さん、この歌の意味、知ってる?面白いんだよ~」
真顔で説明する娘。勉強せい、勉強を!と言いたいところだが、そのドハマりっぷりがなんだか隊長に似ていて可笑しくて。気が済むまでやらせようと傍観することにした。

そこから毎日が百人一首色に。掃除の時は、友達と上の句を読んで下の句を答えるというクイズをしながら。部活(バドミントン部です)では、下の句と上の句を言い合いながらラリーを。

すぐにクラス中にその雰囲気が広がった。IT大好き少年が独自の百人一首アプリを開発し、クラス全員で取り組んだ。事あるごとにクラスメイトからの要望を取り入れ、最強のアプリに生まれ変わった。

そうこうするうちに、百人一首を部活動で行っている文化部所属のクラスメイトが大会に向けたチームを編成した。百人一首の向き・不向き、利き手、性格などなど、あらゆる事を加味してチームを組んだ(私だったらジャンケンかくじ引きだよ)。できあがったチーム編成に誰も文句言わなかったそうだ。こうして大会本番に挑むチームが始動した。

娘のチームは、自身を含めて3人(男子1名、女子2名)。娘以外はバリバリの理数系で、数字や公式は大好きだが、暗記があまり得意ではないらしい。案の定、クラス内の練習試合でコテンパンにやられた。

そこから3人に火が付いた。まずは対策を練る。3人で分担して歌を覚えることにした。配置もトライ&エラーを重ねた。クラス内で練習試合を重ねるごとに改善、改善、改善。取られてしまった時は「大丈夫。次、取れるよ」と声を掛け合った。そうしているうちに、硬い信頼関係が築きあがった。

娘の学校は各学年4クラスある。本番前に行われた1年生のクラス対抗練習会(対3クラス戦)では、10-0、9-1、9-1引分けで圧勝。うち、娘たちも3勝。これでクラスの雰囲気が一気に盛り上がる。

そして本大会の前日。対戦の組み合わせが決まった。
娘のチームは2年生と当たった。いくら学年全勝したとは言え、相手は年上だ。しかも百人一首大会の経験だってある。そのうえ相手チームには学年トップクラスに君臨する才女がいるという。部活の先輩らに聞いたら「あ~あ、そりゃヤバいよ」と声を揃えて言われたそうな。大将を仰せつかった娘には相当なプレッシャーだ。
ちなみにクラスには文化部の部長が率いるチームと当たった班もあり、そこにはクラスのチーム編成を行った文化部の友達がいた。つまり百人一首をお家芸とする文化部の先輩と後輩が対戦することになったのだ。

大会当日。緊張状態で学校に向かった。
ハナから負けはわかっている。それでも少しは…。
と、そこに初めは暗記が得意ではなかった同じチームの子がこう切り出した。
「百首、全部覚えてきたよ」
その一言で娘の腹は決まった。
「よし!行こう!」
できる限りのことはやった。後は3人がひとつになって立ち向かうだけだ。3人は札の前に腰を下ろした。

試合開始。
歌が詠まれ始める。上の句の頭一字で下の句を探す。さすが2年生(しかも超才女!)。素早い。しかし3人も必死でくらいつき、2年生に引けを取らない。札を取られても「惜しい!次、行こう!!」と励ましあう。

このまさかの出来事に2年生チームが焦り始めた。1年生が札を取ると苛立ちの空気が2年生らを覆う。

両チーム、一歩も譲らない。

そして残るは2枚。大将戦である。
娘と才女の一騎打ち。

最後の歌の上の句が詠まれた瞬間、二人の手が動く。
わずかに娘が遅れを取り、札は才女が取った。
結果、49-51で娘のチームは惜敗。

娘たち3人は泣いた。悔しくて、悔しくて、泣いた。百首覚えてきたチームメンバーは声を出して泣いた。彼女のためにも勝ちたかった。クラス中が「よく戦った!!!」と言ってくれた。きっとその声は3人に深く響いたことだろう。

総合の結果が出た。娘のクラスは9勝1敗で優勝。部長と戦った文化部の友達チームも見事に勝った。
1年生が優勝するというのは大挙だった。国語の先生いわく「今まで自分がこの学校に来てから1年生が優勝したことはない。最高で9位だった」とのこと。

同点優勝チームがあったため、最後の大将戦が余計に悔やまれたが、やるだけやった。
チームメンバーは苦手だった暗記を克服した。掃除の時間も、部活動の時間も、わずかな時間も、すべて仲間と共有して練習してきた。みんなで手にしたゴールは感動も大きい。

たかが百人一首、されど百人一首。
オリンピックであれ、校内大会であれ。どんな重大であれ、どんな些細であれ。
努力を惜しまず、苦手から逃げず、仲間と励ましあい、そして最後まで仲間を想い遣る気持ちが自然と結果に導いた。

娘よ、君がこんなにもステキな学生生活を送っていることを心底嬉しく思うよ。
帰りのホームルームで担任の先生が感極まって泣いたことは、ここだけの話にしておこう。



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2021年01月10日

非を認めることは負けじゃない

24年前の1月。初めて南アフリカに行くために名古屋空港に向かった。アドベンチャーレースの世界最高峰『レイドゴロワーズ』にイーストウインドのアシスタントとして参加するためだった。正月が明けた日本は寒さが厳しく、まさに今日みたいな日だった。

当時、スポーツにまったく興味がなく、アドベンチャーレースの趣意やルールなど知りもせずに同行してしまった。目の当たりにしたのは厳しくて怖いチーム主将・田中正人隊長。レイドゴロワーズ南アフリカ大会は、隊長が鬼軍曹と化す端緒となったレースである。

チームメンバーのほとんどが隊長と同年齢で、アドベンチャーレース経験も同程度。ゆえにまだまだ手探り状態での出場だ。性格はそれぞれだが、メンバーは意見を言い合い、それぞれの主張をした。血気盛んな20代半ばの若者らは、時としてぶつかり合い、喧嘩に発展した。

例えば、どちらの方向に進むかで意見が対立したとする。どうにか話し合いや多数決で方向を決めて進む。しかし、そこには思いもよらない深い藪がある。反対意見だったメンバーは「ほらみろ。だから言ったじゃないか」と言い出す。

例えば、後でもう一方のルートを通ったチームに話を聞くと「長雨で地面がぬかるんでしまい、それが永遠と続いていてとても進めなかったよ」という返事。

つまり、どちらのルートも自然に阻まれていたわけだ。そういう意味では、どちらが正しいということもなく、それぞれのチームの特性を活かして通りやすい方が正解なのだろう。(ともあれ、それは後でわかったことであり、チームは常にその場での判断が必要とされる)

話はそこで終わればいい。しかし、多くの場合が、上記の「ほらみろ。だから言ったじゃないか」の後に、最も厄介な“感情”が出てくる。そして「何もわかってないじゃないか。だからお前はダメなんだ」などと人格否定が始まる。こうなってしまうと行くべきルートの選択そのものよりも、相反する意見を持つメンバーを屈服させようとする感情が強くなる。

そもそもメンバーは敵ではない。一緒にゴールをしなくてはいけない味方なのだ。大切な仲間である。そんな味方を屈服させる理由などひとつもないのだ。

自分が間違っていたら、きちんとその誤りを認めること。それは恥ずかしいことでもないし、ましてや屈服などではない。心理学者のアドラーは「人は自分の誤りを認めることが、負けを認めることと思ってしまう」と言う。

そもそもそんなことで勝ち負けを決めていたら、正しい選択などできやしない。ゴールなんてできる訳がない。


さて24年前の南アフリカでのレース。あの夜に大喧嘩したのは、言うまでもなく隊長と、今現在、荒れ狂う海に孤独に戦い続けている白石康次郎くんだ。足裏を痛めた康次郎くんのペースが極端に遅くなってしまったことが原因だ。

その時のチームに必要な議題は「どうしたらペースが上がるか」であったが、疲労困憊の上に睡眠不足が重なり、自然と感情が入ってしまった。
「ちょっとペースを落としてくれ」
「みんな足を痛めてる。それくらい我慢しろ」
そこから互いへの怒りが募った。そしてその夜、嵐のチームミーティングに・・・。
※続きは『アドベンチャーレースに生きる!』(山と渓谷社)をご覧ください。

さて次の朝。驚くことに二人は何事もなかったかのように靴紐を結び、次のポイントを目指す準備をしていた。
どこかスッキリした顔で「行ってきます!」と晴れやかにアシスタントポイントを出ていくイーストウインドの後ろ姿は何か達観したようにも見える。
その時のメンバーのひとりである金子(旧姓:北村)留美ちゃんのひとことが忘れられない。
「私たちで(田中)キャプテンをゴールさせる」
荒れはしたが、結局は白石くんも隊長も互いが敵ではなく、大切な仲間であることを解っていたのだ。


あれから24年(隊長がアドベンチャーレースを始めてからは26年)が経つ。当時のメンバーは、それぞれが今を送る。隊長は、うんと年下のメンバーと共にアドベンチャーレースを続けている。

当時、正論をぶんぶんと振りかざしていた隊長も、この24年の間にたくさん悩んできた。私にも常に悩みを話してくれた。リーダーシップやチームビルディングに関する書物も多く読んできた。そして自分の誤りをたくさんたくさん反省した。そんな紆余曲折を経て、今では昔のメンバーからは「ずいぶん穏やかになった」と言われる。

それでもまだまだ勉強段階。チーム全員が最高のパフォーマンスを出せるようにするにはどうしたらいいか、そのために自分は何をすべきかの答えを探す旅はまだ途中。

24年前の「キャプテンをゴールさせる」という留美ちゃんの言葉は、今では「チーム全員を最高の状態でゴールさせる」という隊長の言葉となっている。
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2020年12月20日

雪は温かい

新型コロナウイルスの感染者が最高数を記録した日、群馬最北端に位置するみなかみ町は全国一の積雪量を記録した。電車は終日運転見合わせ、学校は休校、お店は休業、道路は通行止めなど、日常生活をもマヒさせる災害級の大雪であった。

私は共同駐車場を利用するため、そこには何台もの車が停車している。大雪の日、車はすっぽりと雪に埋もれてしまった。まだまだ降り続く天候。放っておくと車が雪の重みで潰れてしまうため、車を掘り出すことに。

掘り出すのはいいが、そもそも車まで行くのが厄介。腰のあたりまで来る雪。ずんずんと踏み入るだけでも体力を使う。車へのアプローチ用に道を作る。そして掻いた雪の捨て場を選ぶ。そこからは無心に雪を掻く。

近くで同作業をしている人と互いに声を掛ける。
「大丈夫ですかー?」
「こっちに雪持ってきていいですよー」
互いに手伝いながら駐車スペースを作る。

雪壁で狭くなった道路を譲り合いながらすれ違う。
「止まってくれてありがとう」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
それぞれの車内から合図であいさつを交わす。

普段はあいさつ程度の間柄でも、この時ばかりは団結して雪掻きをする。
除雪車も24時間出動し続け、ライフラインを守る。
雪の大変さは住民みんなが知っているのだ。


みなかみ町は自然が豊かである。谷川岳、利根川源流域、18湯の温泉地などがあり、私たちは観光資源でもあるこの自然の恩恵を受けて暮らしている。
雪も然り。雪が溶けて水になる。農業用水として用いるのはもちろん、雪によって農産物は甘味を増やす。ラフティングやカヌーができるのも雪溶け水のお陰である。うまい日本酒も雪溶け水からできる地下水で作られる。雪は大変な面がある一方、とても大切な資源でもある。


「雪は温かい」というのを聞いたことがあるだろうか?
雪の日は分厚い雲が空を覆っているので、地表の熱が逃げにくいらしい。また、雨から雪になる間は熱が発生するらしい。

しかし温かいのは気象学的理由だけではなさそうだ。こうした地域の人たちの互いを思いやる温かい気持ちをも雪は運んでくれるのかもしれない。被害が大きければ大きいほど、互いを思いやる気持ちは温かさを増すように思う。こうして雪人は互いに感謝し、厳しい冬を乗り切る。

さて、今や地球規模の災害とも言える新型コロナウイルス。この瞬間もこのウイルスに苦しむ人が多くいる。医療現場は休むことなく、この見えない敵と戦っている。もう戦争や経済制裁などやっている場合ではない。保身に躍起になっている場合でもない。

一人一人が互いを思いやれば、いつかこの厳しい冬を乗り切ると信じる。

戦争も保身も一時休戦。今は、今だけは敵も味方もご破算にして団結して、新型コロナウイルスの終息を目指してみたらどうだろう。
頑張ろう、地球。



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2020年08月05日

アドベンチャーレースで得することある?

「アドベンチャーレースやってて、何か得することある?」
先日、娘に真顔で質問された。母は一点の曇りなく答えよう。
「ありません」

同様の質問を隊長に投げかけてみたところ、速攻回答。
「ないよ」
ほ~らね。得なんてないんだよ。

娘の質問は続く。
「得もないのにどうして続けてるの?」

一般的に至極当然の質問であるように思うが、アドベンチャーレースと共に育っていると言っても過言ではない、いわば生まれた頃から傍に猫ちゃんがいる的に、傍にアドベンチャーレースがある娘に対し、こういった疑問を持つことに親として安堵すべきだろう。

で、またもや隊長は即答。
「楽しいぢゃん!人生、楽し~♡」
ただ、そりゃ確かに、楽しいだろうよ。


最初は「楽しい」と思って始めた隊長。
その「楽しい」を追求し続け26年が経つ。経過途中には、さまざまなことがあった。

 出場に関する資金不足。
 多種目の装備を揃える資金不足。
 練習資金不足。
 メンバーが固定しない。
 シンプルなルールではあるにも関わらず、スケールの大きさに一般的に理解されにくい。
 観戦型のスポーツではないため、マスコミが追いにくい。

とはいえ、悪いことばかりではない。

 支援者、協力者が現れる。
 スポンサーが現れる。
 トレーニング生がやってくる。
 メンバーが固定する。
 レースに頻繁に出場できるようになる。
 興味を持つマスコミが現れる。
 人気番組に出られる。
 トレーニング生に力が付く。

陰には全面的にチームを支えてくれるカッパCLUBと、色物として取り上げるマスコミに左右されず、ひたすら応援し続けてくれる人たちの支えが大きい。


こうやって振り返ってみると、損得という小さなくくりではなく、次元が異なるもっと大きなもの、『得』ではなく『徳』に気が付く。私たちは『得』はなくとも、そこに『徳』があり、それにとても助けられている。



娘よ、お母さんは思うのだよ。
お父さんは、26年もの長い間、アドベンチャーレースを続けてきたことで、とても大切なことをひとつ作り上げた。それこそが『得』、つまり『得た』もの、《信頼》。金銭をいくら積んでも得ることのできない宝。

ひたむきに、真摯に、一所懸命にやり続けてきたことで得られたのは、人と人のつながりの中でなにより大切な《信頼》だと思うのだよ。これを作り上げるのはとてつもなく難しい。でも崩すのは一瞬。いわば《信頼》は、ひどく脆弱であり、飛び切り強靭でもある。

偶々ソフトが「アドベンチャーレース」だった。楽しいという気持ちが根本にあるから続けられた。お父さんに合ったんだね。
人はそれぞれ、自分に合ったソフトを通して生きていく。その根本に大切にしている何かがあれば、きっと続く。がんばって続けていれば、きっと理解者が現れる。理解をしてくれる人のためにも一所懸命に打ち込めば、それがいつしか《信頼》になる。

もちろん、途中には何度も《信頼》を崩されそうになる外圧も出てきた。「やるべきか、断るべきか」を悩む事も少なくない。でも、どちらに転んだにせよ、失敗したにせよ、真面目に続けれている限り、応援してくれる人はいる。田中正人という人をちゃんと見ていてくれる人がいる。《信頼》してくれる人は必ず、いるのだよ。

得にはならない。
でも、積み重ねてきた26年で、謀らずともとても大切なことを得てきた、と私は思っている。
だからきっと、これからも得にならないことを続けていくと思うよ。
困ったもんだけどさ(笑)


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2020年06月21日

キャラ柱たち

中学校に進学した娘。新型コロナウイルスの感染拡大防止により2カ月間もの休校が余儀なくされたが、やっと分散登校が開始された。
学校の方針で置き勉(置き勉強道具の略語で、資料や教科書を学校に置いていくこと)はNGのため、毎回10~15㎏もの教科書にお弁当と水筒を背負い、1時間半かけて登校。どこかの山に遠征に行くのかと思うほどだ。それも徐々に慣れ、友達とおしゃべりしながら学校に行くのも楽しいらしい。

娘の学校は中高一貫で、県内全域から生徒が集まっている。分散登校となった今は、クラス内を半分にし、一日おきの授業となる。ゆえに、まだ半分のクラスメイトとしか会っていない。それでもすでにクラスメイトとは仲良くなり、毎日がとても楽しいと言う。
「個性的な子が多いクラス」と言う娘。他の子から見たら娘も個性的なんだろうけど。
登校も公共交通機関を使い、校内には時計もチャイムもないため、時間管理はすべて生徒の自主性に任せているため、早め早めに動く子、ギリギリまで動かない子、要領のいい子、真面目を絵に描いたような子・・・。娘にとって授業も出会う人たちすべても新鮮で、帰宅後はマシンガントークで学校であったことを話す。

あるとき、クラスメイトがどれほど個性的かという話をしていたので、ふと気になって聞いてみた。
「個性が豊かであるということは、それだけ性格が合わない子もいるということ?」
これに対し、娘はぴしゃりと言った。
「性格が合うとか合わないとか、そういう次元じゃなくて、すべての子がキャラ立ちしてるってことだよ。鬼滅の刃で言う『柱』だよ。それぞれの個性を『柱』とするから、みんながそれを認めてるんだよ」

「も~〇〇ちゃんは、真面目なんだからぁ(笑) 真面目ゆえに宿題を教えて~~~~」と、キャラを認め、受け入れ、敬っている。決して非難するののではなく、愛おしく思っているのだ。
だのに私は人間関係は複雑なものだと決め込んでいた。なんという愚かな質問をしてしまったのだろう。


先日、プロ野球楽天のオコエ瑠偉選手がツイッターで、保育園で先生が「醜いアヒルの子」の絵本を読んでいると、他の園児が自分を見ながら笑っていたという経験に触れ、「俺が周りとは違うと初めて認識させられた出来事だった」と明かした。 親の似顔絵を描く際に、だいだい色をした「肌色」のクレヨンしかなかったのが悔しくて、涙ながらに茶色のクレヨンで描いたという。
「家のベランダから外を眺めながら、ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかなとか、考えてた」という。幼い子供がそこまで追いつめられることがあっていいのだろうか。
小学生以降も、上級生に肌の色をあざ笑われたり、「外人なんて高校野球で使うんじゃ無いだの、甲子園には黒人はでるな」という心無い言葉を浴びせられたりしたと言う。

今でこそ人種の異なる人たちは多く見るが、当時の日本はまだ少なかったのかもしれない。だからだろうか、自分らと違うことを嫌うようにも見える。
自分らと考えが違う人、好みが違う人、やり方が違う人、服のセンスが違う人、自分と違う生き方をしている人・・・なにかにつけて『違う人』を排除したがる。アメリカで黒人男性が白人警察官によって首を押さえつけられて死亡した事件も、根底にはそういった『違う人』を排除したがる意識があったのではないだろうか。


これから多くの『違う人』に出会うであろう中学校1年生の諸君。すべての人が『違う人』であり、その『違う人』が持つ違う部分こそが、自分にない素晴らしいものなのです。だから『違うこと』を受け入れて、むしろ評価してください。
「だって、みんながキャラ柱なんだよ」


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2020年05月09日

自粛ポリス・ストーリー

新型コロナウイルスの影響により、世界が危機に陥っている。
財政・経済も冷え込み、各国のGDPの成長率はマイナス。パンデミックが更なる不安を煽り、根拠のない噂からトイレットペーパーなど生活用品が店内から消えたことも。

感染恐怖と経済的不安の上に半ば強引な自粛でストレスが溜まり、私たちの心を蝕み始めた。
そこに現れたのが『自粛ポリス』。
感染者への誹謗中傷、県外ナンバーへの攻撃、営業している店舗への投石など、いささか度を越した他罰をする人たちが出てきたのだ。

ネットで専門家が「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」と言っていた。
もちろん人が集まる場所では自粛する必要がある。しかし感染者は誰一人として感染を望んでいた人はいないはず。お店にしても、止む無く営業しているところもある。今の状況はそれぞれが悩みに悩んだ結果の行動だとしたら?

以下、同専門家インタビューからの引用。
「生活への不安や欲求不満で、攻撃性が高まるんですね。みんな、イライラをぶつける相手を探している。それが家族への八つ当たりだったり、県外ナンバー車の監視だったり、お店や役所への文句なんでしょうね。ある意味、私たちの中にある防衛本能でもあるんです。不安が高まれば、自分を守りたくなる。それが『よそ者』への攻撃に向かっていくんです」

それが真実ならば、人の心は感染より恐ろしい。

営業し続けるには、きっとそれぞれ理由があるのだろう。勝手に想像して物語を作るとしたら、家族の生活を維持するため、人々のストレスを緩和するため、生活必需品を販売するため、大切な誰かと「命続く限り店を開ける」と約束したため、とか。
他人が知らない深い理由が、そこにはあるのかもしれない。


記事を読んでいて、ふと思う。
自粛ポリスは一般社会に似ている。

例えばオトナと子ども。
子どもがやることには意味がある。生まれたばかりの赤ちゃんにも、幼子にも、ティーンにも、それぞれに意味がある。オトナから見たら、それは必ずしも正しいものではないかもしれない。しかし、子どもは子どもなりに考えて行った行為である。

「自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」
オトナは自分の意見が正義と思うから、堂々と子どもを諭そうとする。諭すだけならまだしも、叱りつけることで恐怖感を持たせ、子どもそのものをコントロールしようとする。
しかし、それは本当に正しい意見なのだろうか?
感情任せになってないだろうか?
自分の都合を押し付けてないか?

子どもはオトナの所有物ではない。子ども自身「個」である。もちろん成熟してない分、オトナが手を取り導いていくのだが、それでもオトナが知らないうちに子ども達は、それぞれが感じ、考え、吸収している。やがてオトナの言うことに疑問を持つようになる。それが「感情」や「都合」で発言されていれば尚更だ。


例えばアドベンチャーレース。
何日間も不眠不休で歩き続け、身体はボロボロ。力も出ない。関門時間が迫っていることは重々承知だ。時間がない。しかし、もう脚が前に出ないのだ。
体力が残るメンバーは先に進む。
「少しだけ休憩させてほしい」意を決して声に出す。
「俺だって脚が痛いんだから、お前ももっとがんばれ。制限時間が迫っている」苛立つチームメイト。
「ここで休んだ方がパフォーマンスがあがる」
「ならば、何分間休んだら前に進めるのか?」
「そんな問題じゃない。少しは相手の気持ちも考えてくれ」
どちらも自分なりの『正義』を主張する。相手の言っていることも理解しているのだが、引くに引けない。そうなると、ただ単に互いに自分の感情をぶつけ合っているだけである。
目指すは今ここでの感情の正当性ではなく、ずっと先にあるゴールテープなのに。


結局『何が正しいか』は、それぞれの環境や経験をベースに構成された思考に過ぎないのではないだろうか。


他人に誹謗中傷を撒き散らしたり、上から物事を言ったり、無視や投石や監視をしたって、事は思い通りになりゃしない。
目指すは休業や自粛ではなく、コロナを撲滅することにあるはずなのに。

ならば相手(たとえば子どもやチームメイト)の環境、経験、気持ち、痛み、考えなどを正しく聞いた上で、自分の考えを話すこともアリかと思う。それを相手が納得すれば、自粛をしてくれるかもしれない。少なくとも、どうしたらいいかを一緒に考えられるかもしれない。


さて、我が家にも3か月目の休業に入るティーンがいる。念願叶って合格した中高一貫校の制服は、まだ数回しか着ていない。新しい制服を着て登校できる日を待ち焦がれながら、親である私は生活ポリスにならないように意識したい。

でも、隊長が勝手に冷蔵庫のスイーツを食べてしまうことは、できる限り厳しく取り締まる冷蔵庫ポリスを意識していかねば。

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2020年03月26日

最後の試練

コロナウイルスの影響で小学校の休校が始まったのが3月2日。卒業式を縮小して執り行うという知らせがあったのも同日。

卒業式を控えた娘。
先生に依頼されていた卒業生の歌のピアノ伴奏を引受けたのが3月6日。卒業式まで残り20日のことだった。

とは言え、ピアノレッスンは9ヶ月前から辞めている。すでに学校はお休みだし、教えてくれる人はいない。歌と合わせることもできない。20日間でどこまでできるだろうか。
卒業を賭けた娘の最後の試練が始まった。

引受けた以上は全力で取り組む。
久しぶりに見る音符。指を慣らすために時間を見つけてはピアノに向かった。

学校が休みでは、歌と合わせることもできない。仕方ないのでネットでその歌の合唱を流し、それに合わせてタイミングやスピードの練習を繰り返す。

卒業式前日、数時間ぶっ通しで練習。卒業式は発表会ではない。6年生みんなの式であり、その親たちの、そして先生たちの式である。ミスは許されない。

たかが伴奏。されど伴奏。それを引き受けたことの責任を、小さな身体でひしひしと受け止めていたのを、隊長と私は感じていた。

ー 卒業式当日

朝少し練習したものの、証書授与もほぼぶっつけ。が、そうとは思えないほど、つつがなく進む。校長先生、来賓のお話があり、最後に卒業生の歌。

娘がピアノの前に座った。一息おいて、静かに前奏が始まる。

伴奏は脇役である。その脇役がしっかりしなければ、主役の歌が台無しになってしまう。

隊長と私はずっと見ていた。つまづいた箇所を何度も何度も弾いて指に覚え込ませたことを。合唱と呼吸を合わせるため、何度もネットで歌を聞いて、間を計っていたことを。「練習あるのみ」

力強い歌が体育館に鳴り響く。
わずか22人の1クラスだけの卒業式。美しく逞しい歌声。そしてそれを支えるピアノ伴奏。
やがて歌もピアノの静かに終わった。

色々あった六年間。これが娘の最後の努力と粘り強さの集大成とし、水上小学校を卒業する。

来月からは高崎まで通うこととなる。新たな第一歩を踏み出す。

若栗こども園、水上小学校、クラスメイト、先生、通学中に声掛けしてくれたおじちゃんらやおばちゃんら。
本当にお世話になりました。

ありがとうございました!!!

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2020年01月09日

顔のシワ

SNSなどに出てくる自動広告のワードが“美容”“若返り”“シミ”“シワ”・・・。
「あたしに対する挑戦か! しかもコスメの広告よりサプリの広告が多いってのは、どういうことよ!?」
と、怒りながらも、正直、気にはなる。顔にコンプレックスがアリアリなのは認める。

ふと顔にコンプレックスを抱えた少年の映画を思い出す。
『ワンダー君は太陽』だ。遺伝子疾患で人と顔が違って生まれてきた男の子の話。見た目を気にしてずっと自宅学習してきた彼が10歳になった時、両親はこの子を学校に通わせる。本人はもちろん、家族もかなり勇気の要る決断だ。初めて触れる家族以外の社会の中で、様々なことを学び、成長していく話。

最初は奇異の目に晒される。近づくと病気がうつるとすら言われ、いじめられる。なかなか友達もできず、半ベソで帰宅する我が子に、お母さんがこういうのだ。
「心は未来を映す地図。顔は過去を映す地図」
自分の顔にもシワがあり、このシワはこの時のもの、このシワはあの時のもの、と説明する。

なるほど。口元にある“ほうれい線”なるものを凝視。これらは笑っている時にできたもの。
生まれてきてから何度大笑いしただろう。友達と、家族と、仲間と。学校で、会社で、キャンプで、旅行先で。

目尻のシワも笑いと涙から。
であるなら、私の顔にできたシワは私の歴史であり、辿ってきた道で創られた地図なのだ。ひとつひとつに深い想いがある。涙したことも、今にして思えば通るべき道だったのかもしれない。

だからさ、若返りだの、シワ取りだのってあまり言わないでおくれよ、自動広告よ。あなたがどんなに効果があると勧める医薬(部外)品でも、それなりに愛着と思い出がある私の辿った地図は消せないのだよ。しかもシワの出方によっては、その人の人生の味になる。

ならばぜひとも、優しいおばあちゃんに見えるシワがいい。いつか隊長と暖かい縁側でお茶でも飲みながら、ゆっくりと二人で辿ってきた地図の話しをして楽しみたい。



とは言いつつも、やっぱり「若いね」と言われると小躍りしちゃう残念な私。今年も年相応に精進していきます。


posted by Sue at 11:51| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2019年12月18日

桜と母娘

昨日の新聞の片隅にあったニュースが目を引いた。

『某公園で、近くのサービス付き高齢者住宅に住む女性(88)が血を流して倒れているのを通行人が見つけ、110番した。同居する娘(70)は自宅で上半身から血を流した状態で見つかった。2人は搬送先の病院で死亡が確認された。娘は重病のため寝たきりで、遺体には外傷があった。警察署は、介護に悩んだ母親が娘を殺害して、無理心中を図ったとみて調べている。署によると、母親の持ち物や自宅からは「ご迷惑をおかけします。自殺します」などと書かれた遺書が見つかった。母親は約1カ月前から、施設関係者に「介護を続けるのが大変で将来が不安。金銭面も心配だ」と相談していたという』

小さな記事だが訴えかけるものは大きい。
人生の終盤を迎える年齢で、我が子を手に掛ける心情を思うといたたまれない気持ちになる。70年間も寄り添っていた母娘は、他の選択肢はなかっただろうか。

生まれた時は天使がやってきたと思ったことだろう。
初めて食べる甘いお菓子に喜んだ日。友達とケンカしたと落ち込んだ日。いい成績を取って喜んだ日。背伸びしてオシャレした日。熱で寝込んだ日。突然の嘔吐にあたふたした真夜中。些細なことで言い争った日。一緒に買い物に行った日。レストランで食事した日。桜の下で迎えた入園式、入学式、卒業式。
娘と過ごしたいろんな日はどれも、そこにいてくれるだけで幸せと思えたはずなのに。
どうしてこうなってしまったのか。

老老介護や認認介護は今や社会問題である。ゆえに各行政でも対策を施しているし、介護サービスに携わる人たちも日々頑張っている。

新聞は、こんな風に締めくくられている。
『署や施設関係者によると、施設では寝たきりの利用者に対し、定期的に体位変換やおむつ替えを実施。この日の早朝も看護師が2人の部屋を訪れたが異変はなかったという。この件でスタッフもショックを受けている』

体位変換やおむつ替えを実施していた施設スタッフ。この母娘のことを一番見ていたのは身近で世話をしていた彼らであろう。老老介護の大変さも充分すぎるほど解っているはず。この結末に対するショックはいかばかりか。

生命あるものは、必ずいつかそれを閉じる時を迎える。しかし人は人生の最期をそんな形で迎えてはいけない。後悔も反省も含め、最期は幸せな人生であったことを感じて天国に昇るべきだ。


直接は何もできないとしても、それでもこういった行き場を失った人たちに使ってもらうためにも、私たちは税金を出す。税は本当に必要としている人たちに使ってもらうものであると私は思っている。行政からなら弱い立場の人も遠慮なく使えるしね。

一介の田舎の主婦の私には、5500万円もの税金で開催する「桜を見る会」とかよくわからない。きっと偉い人たちがやってることだから、それなりに(先生方にとっての)意味はあるのだろう。

でもね、各界の功績はなかったとしても、あの母娘にも最期の公園では涙じゃなくて桜を見てほしかったなぁと思うわけよ。

集めた税金の使い方は、結局のところ国会議員が決める。「桜を見る会」にいくら使うか、老老介護にいくら使うか、もすべて。
ならば愛する人を手に掛けなければいけない社会にならないように、誰もが幸せな最期を迎えられるように使ってほしい。


この日、母娘のニュースの横には同じくらい小さく70代夫婦の介護疲れ心中のことが、そして上にはその何倍も大きくプレサンスコーポレーション(不動産屋さん)の21億円横領のことが出ていた。なんだか皮肉に感じるなぁ。

posted by Sue at 17:05| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする
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