2016年10月26日

リンゴ畑の中心で愛を叫ぶ

 夏日が続いた10月初め、リンゴ農園のお手伝いに行った。日頃お世話になっているHさんが所有する広大なリンゴ農園では、文字通り手作業でリンゴを育てる。

 お手伝いの内容は葉摘み。日光が実に当たるように周囲の葉を落とす。気をつけなくてはいけないのは、葉を落としすぎないこと。葉はリンゴの甘みを作る大切な要素でもある。「日光と葉」。どの葉を摘むか。そのバランスが難しい。

 リンゴは落葉することで秋を感じ、実を赤くするそうだ。農園によっては落葉薬を使うところもあるらしいが、Hさんちのリンゴ園は薬は使わず、すべて手作業。ひとつひとつのリンゴに陽が当たり、赤味と甘みを出すように気を配る。高木の上部に生る実は脚立を使って作業。大変だけれど、その分、リンゴへの愛着が増す。

 農作業は時間がきちんと決まっている。10時と15時はお茶の時間。程よい日光を浴びるリンゴの木の下で、温かいお茶を頂く。昼夜問わずにアクセクしている生活から見ると、規則正しいルーチンワークは実に心地よい。そもそも人間は、お日様が出ると伴に起きて、お日様が沈むと伴に眠り、空腹になったら食す動物である。  

 だが、現代の生活と言えば、空腹でもないのに時間が来たら食を摂り、真夜中まで起きている。お日様と共に暮らしてきたルーチンが崩れてしまったことで、我々は生活環境も考え方も性格までもが変わったのかもしれない。なんだか殺伐としている。

 Hさんのリンゴ農園では肥料は与えない。昔はドカドカと肥料を与えていたそうだ。そうしないと木はやせ細ってしまっていたとか。しかし、それではリンゴ自身が持つ力が育たない。そこで施肥をストップ。危機感を感じたのだろうか?リンゴは種の保存のため、自ら赤く熟し、甘みをつけ始めた。そんなリンゴたちを援護するかのように、それまでに施し続けていた肥料は土に還り、何も与えずとも肥沃な土壌となった。

 こうしてHさんちのリンゴは日光が作り上げた自然の甘さをたっぷり含んだ実となり、やがて寒さから自身を守るために『蝋物質』を出す(ワックスのようなベタベタした成分。これはリンゴ自身が持つ成分で、熟したサインにもなる。自然のものであり、もちろん害は無い)。自ら頑張っているリンゴだからこそ、私たちは敬意をこめて、手作業で葉を落とす。

 リンゴ育ては子育てに似ている部分もある。肥料をドカドカ与え続けなければ、いつかやせ細ってしまう。だが永遠と肥料を与え続けることはできない。世の順として親が先に逝くのだから。だからこそ今、「学びの場」である学校でしっかり身に着けて欲しいのだ。

 勉強ではない。人間関係や社会生活など、身に起きる多くの出来事から学んで欲しいのだ。人が集まればトラブルは起きる。そんなトラブルが起きた時こそ、学ぶチャンスである。きちんと寒さも受け入れ、そして自身を守る『蝋物質』を出すことができるよう学んでいく。逃げずに自分で乗り切っていかなければ良い実にならない。我が子には、しっかりと甘い良いリンゴになって欲しいと願うのである。

 さて親として私はどうだろう。子を過保護にしていないだろうか。逆に放ったらかしていないだろうか。時に日光となり、時に雨となり、時に葉となり、時に寒さとなっているだろうか。適格にできているだろうか。

 隊長はこう言う。
「人間が学ぶものは全て自然の中にある」
リンゴ畑の真ん中で、黙々と葉摘みをしながら、そんなことを考えさせられた一日であった。


posted by Sue at 22:45| Comment(0) | 愚母の苦悩 | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

経験談は他人事

 小学校3年生の娘。夏休みも終わり、2学期が始まった。2学期は運動会やらマラソン大会やら、秋の祭典・スポーツイベントが待っている。楽しみで仕方ない!はずなのだが・・・。

 そもそもウチの娘は運動が得意ではない。今にしてアドベンチャーレーサーなどと肩書を持つ隊長だが、小学校時分、運動はそれほど得意ではなかった。足も遅かった。私と言えば肥満体。走ったら「地面が揺れる」とバカにされ、泳げば「津波になる」と苛められた。運動音痴の代表的存在だった。運動会の徒競走だって、いつだってビリ。父に順位を伝えると「またか」と、呆れられたのを覚えている。

 私が運動らしい事を始めたのは中学校に入ってバスケットボールクラブに入部してからだった。なぜそれに入部したのか忘れてしまったが、部活動では、ともかく毎日走らされていた。自発的に、ではなく、強制的に、だ。
 先輩方は、私たち後輩に気に入らないことがあれば、即座に外周5周ランを命令。部員の中で一番足の遅い私は、いつもドベで、その罰として、1周余分に走らされた。できない部員はとことん追い詰めえられた。きっと先輩方も、そのまた先輩方に同じように追い詰められてきたのだろう。当時の「先輩」と言えば、今でいう某国の将軍様だ。今はこの悪しき風習が消滅していることを願う。
 先輩はもとより、同級生の部員とも、とりわけ仲が良かったわけでもない。あまつさえ、足の遅い私にとって、かなりアウェーな環境だと感じていた。レギュラーには程遠かったし、クラブ自体に何の役にも立たなかった。
 しかし先輩からどれだけ苛められても、同級生に仲間がいなくても、部員としての存在意義がなくても、何故だか辞めようとは思わなかった。ここで辞めたらすべてが負けてしまうように思ったのだ。

 とは言え、この先輩からの冷酷な命令があったからこそ、毎日強制的に走り込み、やがて「肥満」が「標準」になった。それどころか、走力も付き、中学校3年生で市民マラソン大会に中学校代表選手として出場した(結果は覚えてない。程々だったと思う)。運動会のリレーの選手にもなった。ゆえに、あの悪しき風習も悪い事ばかりではなかったのかもしれない。
 逆に「良き経験」と言うべきかもしれない。社会に出てからと言うもの、あの時の非情な先輩方を思うと、どんな上司や同僚であっても温情のある優しい人たちに見えたし、その人たちのために出来る限り頑張ろうと思った。会社が楽しかった。今でも「私は常に良い上司、同僚、友達に恵まれている」と思えるのは、あの時の辛辣な経験があったからであり、受けるべき経験だったのだと思う。



 運動が苦手な娘は、「田中正人の血を引くのだから」とよく言われる。なんと残酷な言葉であろう。本当は運動が苦手だった隊長と私の子なのだから、周囲が言うように「血を引く」で比喩するなら運動ができないのが自然だ。しかし小学校低学年の甲乙は比べやすい運動結果で決めてしまうことがある。ゆえに、運動が苦手な娘にとって、差が明確に出てしまう運動会やらマラソン大会は、あまり歓迎したものではないのだ。
 親として期待がないわけではない。努力すれば、きっと良い結果が生まれる。しかし、それを子どもにどう伝えたらいいのだろうか。経験談はあくまでも他人事であり、結局は、その人自身が経験しなければわからない事なのだ。
 よくしたもので、神様はその人がその時に必要な経験を与えてくれる。辛くて仕方ないことであっても、いずれその経験が活かされてくる事を見越して。
 どのみち、これから成長するにつれ、子どもはたくさんの経験をする。ひょっとしたら娘は、私が経験したこと以上に辛い経験もするかもしれない。しかも、その経験が活かされるのは、ずっと後になろう。
 だからそれまでは、少なくともお家だけは、できないことを咎めて、努力を強いる場所より、できたことを認めて、褒めて、一緒に喜ぶ場所であるようにしたい。
 
 さて、小学校の運動会では、言うまでもなく、今年も娘は花形リレー選手から漏れた。足が遅いのだから仕方ない。仕方ない事は解っていても悔しかっただろう。けれど、それも経験。その悔しい経験は、いつか活きる。
 でもね、アキラ。悔しながらも、選手になったお友達を心底応援しようとするあなたの気持ちこそが、実は私たちをとても豊かにしてくれているんだよ。お父さんもお母さんも、ちゃんと解ってるよ、あなたの「真の強さ」が何であるかを。






posted by Sue at 15:06| Comment(0) | 愚母の苦悩 | 更新情報をチェックする

2016年06月23日

麗しき中高年の空気感

 日本海をスタートし、北アルプス、中央アルプス、南アルプスを抜け、太平洋を目指す。動力は一切使用しない。使うは己の脚のみ。その距離約415㎞。これを8日間内で走破するレース『Trans Japan Alps Race』。二年に一度のこの大会が、今年もやってくる。今週末はいよいよ選手選考会だ。

 このレースが始まったのが2002年。隊長がこのレースに出場したのが2004年(優勝)、2006年(リタイヤ)、2008年(優勝)。
 2004年は伊豆アドベンチャーレースの準備の最中だった。
「1週間ほど留守するから」
私ひとりを伊豆に残して自分だけさっさと富山(日本海)に行ってしまった。まだこのレースをよく知らなかった私は、ゴール寸前の隊長から「大浜海岸(静岡)まで下着を持ってきて」という電話にブチ切れた。とは言え、くっさ~い服で戻られても困るから、知り合いの静岡大学のM先生に「100円ショップでパンツと靴下だけ買って大浜海岸に持って行ってやってください」と、やけっぱちのお願いをした。それも朝5時くらいに。驚くことにM先生は快く引き受けてくれた。M先生には感謝しつつも、そこまでの人の良さがいまだに不可解である。
「大学教授を顎で使うな!」
100円ショップ(だと思われる)パンツを履いた隊長に叱られたのは後の祭でホイサッサ。
 2006年は取材としてレースに関わった(記事はターザンに書かせていただいた。人生初のライター業)。直前までアメリカのアドベンチャーレースに出場していた隊長は、その影響か、中盤で足が動かなくなった。その年の完走者は2名。関門時間ギリギリ2位で完走した故・高橋香さんは、実は私の中のTJARヒーローである。あの穏やかな顔が、太平洋に近づくにつれ、増していく痛みと残りわずかな時間を相手に、どんどん歪んでいった。それでも足を止めない。ボロボロの脚を引き摺って太平洋を目指す。最後の最後、真夜中の大浜伊海岸で高橋さんを待つ数名の仲間を見た瞬間、歪んだ形相が収まり、いつもの穏やかな顔になってゴールした。
 2008年は、私がこの大会に関わり始めた年。当時はまだ公式サイトがないので、外部ブログを立ち上げて、レースの行方を日々アップしていた。24時間パソコンに張り付きの8日間。娘が生まれたばかりだわ、睡眠時間が極端に少ないわ、買い物にも行けないわの8日間。苦しかったけど、なぜか辛くはなかった。更なる苦しみの中でもがく選手の力走を見ると、俄然、力が湧いてきた。

 それまでは愛好者だけで運営していたこの大会だったが、以降、実行委員会が設立され、ウェブページも始動し、協賛企業も増え、テレビ番組でも放送され、チャレンジを熱望する人が急増した。TJARは、予想をはるかに超えて大きくなっていった。
 大きくなればはるほど、実行委員会の負担も大きくなる。やる事が莫大に増え、責任も怖いほど増える。選手たちが不眠不休で山を歩く間に、何が起きるかわからない。台風が来たり、落石があったり、落雷があったり、滑落だってあり得る。実行委員は神様じゃない。壮大なチャレンジのチャンスをお膳立てしているだけで、自然や選手自身の体調はコントロールできない。当然ながら命の保証はできない。選手は自分の身は自分で守るしかない。逆に言えば、それができる人しか、この大会のスタートラインには立てないのだ。

 こんな壮大なチャレンジだが、実行委員は8人だけ。皆それぞれ仕事と家庭を持っている。住むところもバラバラ、年齢もバラバラ。平均すると50代。胸を張るほどの若いパワーは持ち合わせていない。そんな熱き中高年8人が「TJARを成功させる」と言う士気だけを統一させ、この壁に挑んでいる(そもそも、その中に自分がいる事自体、大丈夫なのだろうか?と疑ってしまうのだが)。
 私を抜いて(ここは明白!)全員が精鋭。誰ひとりとして受け身はない。自分からすべて能動的に動く。だからイベントに対する疑念がない。互いに「この人、大丈夫かな?」という不安も不信感もない。あるのは敬意と信頼。だから安心してメンバーに仕事を任せられるし、自分の持ち場にも集中できる。
 それは「目的がひとつ」だからだろう。私たちは「TJARを成功させる」一点に集中している。自分の持ち場は最初から最後まで責任を持って行動する。言いっ放し(案だけ出して、後は何もしない)とか、責任転嫁のような無責任な言動がない。かといって仲良しグループとは違う。問題点は全員でシェアし、とことん論議する。一人でも納得いかいなら、納得いくまで話し合う。だからだろうか、その場にいると、とても気持ちがいい。空気感がスッと締まり、背筋が気持ちよく伸びるような感じ。でもって穏やかであり、優しくもある。
 しかし、切るべきところは切っていかなくてはいけない。時に周囲に対し、我々の判断がきついと思われる事もあるが、2年間すべてを費やしてきた選手の気持ち、山小屋の立場、そして応援者の立場も十分に理解した上での決議である。命のかかった挑戦に真剣に向かい合っていることを分かってもらえたら有難い。

 同じような空気を感じる場がもうひとつある。みなかみ町で行うキャンドルナイトだ。こちらは半日完結型のイベントだが、職種様々な町在住の有志が集まり、イベント会場をキャンドルで彩る。単にキャンドルを灯すだけではない。事前にキャンドルの仕込み作業をし、火が何時間もつかを確認し、どこに何個、どのようなレイアウトで置くかなど、細かい仕事がわんさかある。目立ちすぎてもいけないし、目立た無すぎてもいけないのがキャンドル。微妙な存在だからこそ、気持ちがひとつにならないと美しく彩れないのだ。
 キャンドルナイトの実行委員会も若いパワーはない。地元のおじちゃんやおばちゃん(私を含む)で構成されている。配置も担当箇所も決まっていない。ただ、スタッフが足りない、キャンドルが足りない、火が弱い、風が強い、など、自分が見つけた問題点は自分がそこに入って対処する。その時の空気感は、とてつもなく心地いい。この実行委員会に入って、この町を一段と誇りに思えるようになった。

 TJAR実行委員会やキャンドルナイト実行委員会も、首長がともかくよく動く。組織の中で一番汗を流し、プライベートや仕事を犠牲にしてまで、一銭も入らないイベントに力を入れる。TJAR実行委員会のI委員長は徹夜で書類を書き上げ、時間を見ては山小屋や関係省庁を回る。キャンドルナイト実行委員会のF委員長は重い荷物を運び、細かい作業も進んでやっている。この姿を委員たちは見ている。だからこそ、尊敬すべき首長の指揮に合わせて私たちも個々の楽器を奏でる。その一帯となる空気感は作ろうとしてできたものではなく、自然と生まれてきたものなのだ。

 さて、残念ながらイーストウインドに、その空気感に至っていない。至っているのかもしれないが、私はその空気を感じない。思うに、私情(感情)がその一体感を邪魔するのではないかと。目的(レース)があまりにも過酷だし、長時間だからなのかもしれない。準備も含めれば、かなりの時間をアドベンチャーレースに費やすこととなる。そうなるとプライベートの犠牲も多くなる。それがストレスとなり、やがて「私情(感情)」に、自分の都合のいいようにしか行動しない「御都合」が重なる。私情主義&御都合主義のチームになると、その空気は、北京の大気質汚染指標を上回ることとなる。チームワークが鍵となるアドベンチャーレース。すでに準備の段階からレースは始まっているのだ。

 では、TJAR実行委員会やキャンドルナイト実行委員会と何が違うのだろうか?
思えば中高年の実行委員会に比べ、イーストウインドは若いパワーが満載。その若さこそが、原因なっているのかもしれない。若い時は「自分はこれがしたい」という想いが強く出る(私もあったあった)。それは決して悪いことではないし、むしろ人生のモチベーションともなる。そこに社会経験が積まれ、どんどん受け皿が広くなり、やがて「これをより良くするためには、自分は何をしたらいいだろう」と言動を考えるようになる。こうして人は組織の中での自分の役割を見出していくのだろう。若い時に抱く「これがしたい」は、大切な取っ掛かりなのだ。

 アドベンチャーレースを見ていると、欧米選手は「個」を大切にするようだ。自分が強くなり、メンバーを引っ張っていくと言う意識が働いている。代々培ってきた遺伝子なのだろうか、それら「個」は、きちんと出来上がっている。だから「個」でレースをしていても、互いに通用しあえている。スーパーマンやバットマンのように一人一人がヒーローであり、さながら濃いキャラのピン・ヒーローたちが集まってレースをしているようだ。今の日本の若い世代は、この「個」の感覚に近づいているように思う。
 一方、日本人は「和」を大切にする。一人ではできなくても、仲間と一緒なら越えられると信じる。いや、災害時など、実際にいくつもの壁を越えてきた。人を信じること、思いやることができる民。欧米がスーパーマンなら日本は複数のメンバーで1人の敵に立ち向かう戦隊ヒーローたちであろう。無責任な他力本願では成し得ない。この「和」は、きちんと責任を持ち合わせた上に派生した信頼である。

 アドベンチャーレースを始めた頃の隊長は正論をぶちかましていた。それがもう中高年だ。その間、正論を振りかざしても人は変わらない事を学んできた。加えて年代のギャップ。特性上、イーストウインドは若いパワーが必要になる。このギャップもうまく活かしていかねばならない。
 従って、これからの私たちの課題は、我々のDNAに染み込んだ「和」と、若い世代が持つ「個」をいかに融合させるか、であろう。これが絶妙な配分で融合すれば、より強いチームとなるし、良き部分を引き出せば、必ず結果はついてくる。
 それはアドベンチャーレースだけに非ず。一般社会においても家庭内においても、これこそが私たちの世代が立ち向かうべき壁かもしれない。

呑気にせんべい食べてる場合じゃない。おばちゃんの悶絶的苦悩は、まだまだ続くのであります。





posted by Sue at 10:33| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2016年06月04日

「夫を支える妻」という見間違い

 私は、よく「夫を支える妻」と見間違われる。どこをどう見たらそうなるのだろう?
夫はただ好き勝手な事をしているだけだし、それがなんだか楽しそうだから放っておいてるだけなのだが、それを「支えている」と言われると、なんだか後ろめたい。なんというか、「100点取りました」と嘘をついて褒められているような気がするのだ。


 先月末からやるべきことが重なり、かなり疲れていた。睡眠時間も少なかったり、食事の支度も適当だったり、散らかった物も片付かなかったりと、そんな小さなこと苛々を積もらせ、余計に気持ちを疲れさせた。
 そんな時に限って、事務所兼住居の我が家で事務仕事をしている隊長。焦りなど一切見せず、マイペースで作業をしている隊長に対し、またもや苛々が積もる。
 それに輪をかけるかのように、宿題も片づけもせずに遊んでいる娘を見ると、更に苛々が蓄積され、先日、とうとう苛々のキャパが限界に達し、爆発してしまった。

「少しはこっちの身になってよ!」
女にこう言われた時の男の顔ってのは、たいていがキョトンだ。
「何をすればいい?」
返事もたいてい同じ。いやいや、何をして欲しいわけじゃない。ただ分かって欲しいだけなのだよ。男ってのは、どうしてこうも解決策を求めるのだろうか?

隊長だけかな?いや、少なくとも、これについて話をしたK家も同じだと言っていた。ゆえに、ここではK家と我が家を男女代表とさせてもらおう。(このブログをお読みくださる方へ。ここでいう男と女というのは、田中家とK家のみとさせていただきますので、あらかじめご了承ください)

 こうして私は隊長にあたる。隊長はまだいい(んー、よくないか)。反省すべきは、ダメだと理解しつつも娘にもあたってしまった事だ。
 小学校3年生ともなると、親に言い返す力をつけ始めている。少し前までは親が一方的に怒り、それを素直に聞き入れていたが、今では一丁前に口論にまで発展する。女同士の口論だからか、論点がズレまくる。相手の話など聞いちゃいない。言葉尻だけ捉えるもんだから、話があっちやらこっちらやに飛びまくる。自分の非は認めず、相手の非を探しては、そこをこれでもかと言わんばかりに攻撃。
 要は自分を正当化したいのだ。こうして論破してスッキリする。そらね、何の生産性も発展性もないですよ。でも、これが女の心理なのですよ。

 ゆえに女が怒っている最中は男が捻出したがる「解決策」など通用しない。だって女は、自分を正当化したいだけだもの。だから男よ、女が何か不満を言っている間は自分から会話(特に解決策)をかぶせないことです。そうか、そうかと同意・同情をしてください。時間が経てば何もなかったようにケロッとしますから。理解し難いかもしれません。でもね、それでもいいんです。『黒の舟歌』でもあるじゃないですか「男と女の間には深くて暗い川がある」って。理解できないんです。
(再度申し上げます。ここで言う男と女は、あくまでも田中家とK家の場合であります)

 
 先日、男の子がしつけとして山中に置き去りにされた事件があった。この親がやったことはとんでもないことだ。が、どうにも子どもが言う事を聞かないとき、そんな気分になるのはまったく解らないわけではない。特に苛々要素がメいっぱい絡んでくると、「もうあんたなんて知りません!」的な気分になることもある。
 とは言え、いずれ子どもは言い返すようになるし、それも成長の過程だもの、親はウェルカムしなきゃいけないのです。それは重々に分かっている。分かっちゃいるが、一度火がつくとなかなか収まらない。沸騰ヤカンのように熱くなる私に対し、隊長が冷静に言う。
「親子のガチゲンカも成長過程に必要だね」
(ほら、また無理矢理解決しようとする!あ~この冷静さも腹立つ!!)
 それにしてもガチゲンカで山に置き去りにされたのでは、溜まったもんじゃない。しかし、その男の子が自力でシェルターを探し、そこでサバイバルしていたのはあっぱれである。この子は、一旦は入院するということだが、そのうちお家に帰ってママの作る温かいご飯を食べるのだろう。生きててよかった。


 どんな時も温かいご飯と共に迎え入れてくれるのが家族である。八つ当たりしたり、ガチゲンカしたりするのも、結局は何も言わずに受け止めてくれる。どんな事があっても包み込んでくれるゆえ、思う存分、甘えることができる場所なのだ。
 だから爆発できる私は夫や子どもに思い切り甘えているのだ。わけのわからない事で自分を正当化しようとしても、むちゃくちゃな理論で相手を論破しようとしても、一緒にいてくれる。純粋に甘えても許される場所なのだ。

 私は「夫を支える妻」ではなく、実は「夫に支えられている妻」なのである。





posted by Sue at 09:34| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする

2016年05月30日

子どもたちの暗黙のルール

 今年のGWは実家に戻った。と言っても、その先は毎年のごとくノープラン。そもそも連休中は親に娘を看てもらっている間に仕事をすればいい、などという虫がいい帰郷だった。
 はじめのうちはいい。しかし70代半ばの老人が、小学校3年生の体力についていくには、あまりに過酷だ。1時間も相手をすれば、ヘロヘロになる。これが男の子だったら40分が限度だろう。

 あまりに任せきりだと娘どころか、老親すらグレるかもしれないので、娘と共に近所の公園に出向いた。「近所の公園」と言っても侮るなかれ。そこは、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオに次いで入場者数全国3位の遊園地的空間。だだっ広い敷地にたくさんの遊具。ヨチヨチ歩きの子が遊べる遊具から老人用健康器具まで、バラエティに富んでいる。大型の乗り物だって100円。こうした財布への配慮は大人だって喜ぶ。

 少し動くと汗ばむ陽気のその日、駐車待ちの車で大行列。ジモッティの土地勘を活かし、そこは難なく駐車。だが、公園内はおびただしい数の子どもで埋め尽くされていた。ストレートに言うなら「うじゃうじゃ」と子どもがいるのだ。人気遊具などは、やっと歩き始めた子から小学校高学年までが入り乱れて遊ぶ。もはや誰が我が子か分からない。転んで泣く子やら、母を探す子やらで、公園は賑やか。どこぞの子に母親と間違われた。「ママ~」と言って私の顔をじっと見たあと、勘違いと気が付き、踵を返して、再び「ママ~」。やっと再会できたママは、どこをどう見ても私より若いし、キレイだし。どうやったら間違えるわけ?

 しばし人気遊具に群がる子どもたちを観察。うーん、やっぱりこの公園も同じだ。日本の公園で目にする光景の「子どもたちの暗黙のルール」がここでも成立しているのだ。
 子どもたちは、滑り台にしてもフィールドアスレチックにしても、きちんと並んで順番を守る。前が自分より小さい子であれば、なおさら。押したり、引っ張ったり、強引に割り込んだりしない。前の子にぶつからない距離を自分で判断し、「もう大丈夫」と思ってから動き出す。これだけカオスな場所でケガがないのは、こうした一人一人の子どもが測る「絶妙なタイミング」のせいかもしれない。たいしたものだ。
 その後、大型の乗り物に移動。人気のアトラクション(というほどでもないが)は60分以上待ちとなっていた。馳せる子どもに親たちは「順番!ちゃんと並んで」と言いつける。なるほど。これが幼少時から染みついて、「きちんと順番を守る文化」を継承していくわけだ。

 電車に乗るのは、先に降車する人を通してから。混雑しているレストランでのウェイティングも名前を書いて待つ。スーパーのレジだって、買い物点数が多かろうと少なかろうと並ぶ。私たちは常に順番を守って生活をしているのだ。
 でもさ、これって人を想い遣る心がなければできないことだよね。日本が世界から「秩序正しい国」と評価される根底には、粛々と「人を想い遣る文化」が受け継がれているからだろう。

 私は「ドキュメント72時間」をよく観る。街角に3日間カメラを据えて、そこを来る(通過する)人々を映し出す番組。先日、仙台にある24時間営業の食堂の72時間を放送していた。5年前に震災に遭った場所。食堂で働くおばちゃんが手を止めずに言う。
「(ここで働いていた)仲間二人が津波に連れて行かれた」
また、そこに来ていた若い女性客の言葉も印象的だ。
「震災直後は乾いたものばかりだった。(震災後)初めて口にした温かい物は炊き出しのおにぎりだった。こんなにおにぎりっておいしかったんだって思った。有難かった」
単身赴任の土木作業員の男性が言った。
「壊滅状態であったこの地に仕事をしに来ていいものかを悩んだ。友達や家族にも非難された。それでも来てみて、働き始めたら、被災者に『ありがとう。助かるよ』と笑顔で言われた。来てよかったと本当に思った」
最後に流れた映像は白いご飯を頬張る幾人もの客の顔だった。大切なものを失った。涙がたくさん流れた。あれだけのカオス状態の中、助ける側も、助けられる側も秩序を保つことができたのは、日本人が幼少から持ち合わせ想い遣る心と、再び歩き出す力があるからなのかもしれない。そう、こうして人は前に進むのだ。

 さて、公園でひとしきり遊んだ後、有名チェーン店のアイスクリームを買いに行った。そこも行列。どうしても食べたい、と娘が言うもんだから、仕方なく並んで待つ。折り返し地点まで来たところ、いきなり60代くらいのおばちゃんが前に割り込んできた。娘は怪訝そうな表情をする。まぁ、どのみち1組割り込んできても、後5分は待つのには変わらない。一人だけなら仕方ないね、と娘とコソコソ相談。
 ところがおばちゃん、「こっち、こっち!」と息子やら孫やらを呼ぶ。へ?なぬ?5人はいるご家族御一行様。う~ん、ちょっとどうなの?
「みんな並んでますよ!ちゃんと順番を守ってください」
そんな一言が言えればいいのだが、小心者の私は黙って列を譲ってしまった。しかも孫たちがいる前で、そんな事を言ったら、おばちゃんは孫の前で屈辱全開だ。まぁ許そう。
 ただ、願わくば、この孫たちに培われた「子どもたちの暗黙のルール」が、おばちゃんによって損なわれないようにしていただきたい。


posted by Sue at 08:26| Comment(0) | 愚母の苦悩 | 更新情報をチェックする

2016年05月11日

愛車のドクター

 私の住む町では車が生活に欠かせない。買い物に行くにも、病院に行くにも、学校に行くにも、クラスメートのお家に遊びに行くにも車。愛知県にいた頃は、公共交通機関の便もよく、友達の家も、スーパーも、病院も、レストランも、衣料店も徒歩圏内にあった。
 免許を取得してもう何十年にもなるが、実家ではほとんど運転することはなかった。たまに必要な時は、父親の車を借りるくらい。それで事足りた。

 しかし、みなかみ町は「車がないと生活が不便」と聞き、嫁入り道具のひとつとして、車を購入することになった。車にこだわりなど一切ない私としては、車種は何でもよかったのだが、観に行った中古車屋さんでジムニーを発見し、隊長がなぜか、そのジムニーを強く推薦。走行距離48000キロほどのジムニーWILD WIND。
「いいじゃん」
何も考えずに即決。

 隊長はアドベンチャーレースをする前、車大好き青年だった。いわゆるドリフト族ってやつ。終業後、ボンネットを開けては部品をいじり、週末は仲間といろは坂に行ってはドリドリ~っとやるのがライフワーク。それじゃ彼女とか、できないわけだ。
 その頃の彼の愛車はミラ。しかも、かなりの改造車だったとか。あんな小さなミラに隊長が乗ると、フロントガラスいっぱいが顔で、そのすぐ下にタイヤという画が頭に浮かんで仕方ない。気の毒だな、ミラも。

 アドベンチャーレースを始めてからは、自転車やらカヤックやらを積むため、バン(ホーミー)に替えた。もちろんド中古。私たちが結婚した頃は、このホーミーが活躍していた。
 よく「名古屋の輿入れは派手」と言われるが、私の輿入れは買ったばかりの中古ジムニーとホーミーの2台で終わった。当時、「名古屋から嫁が来るから」と、カッパクラブの故小橋社長の指示により、荷物を下ろす準備をしていたスタッフ一同。しかし荷物はあまりにもあっさり。搬入作業は15分ほどで終わった。
「あれ?グランドピアノは?」
真顔で聞かれた。

 ハイエースは、荷物を入れて移動するにはもってこいだが、細い道を行くには大きすぎる。そこで隊長が目を付けたのが四駆・マニュアル・ジムニーだったのだ。大切な嫁入り道具には、いつの間にか脱出器が装着されていた。どうりで強く推薦するわけだ。
「まさか、これで山道に入るつもりなのか!?」
予感はあたった。「レースのコースを調査する」と言う理由で、ジムニーと共にバック、切り返し不可能な、ものすごい山ん中を連れまわされた。
「じゃここから歩いてコースを調査してくるから、(地図で指差して)このポイントに車を回して待ってて」
「へ?私一人でここを運転して下りるの?」
拒否権なし。あざ笑うかのように鹿がピーッと鳴く。そんな事が何年も続いたが、それでも4点シートベルトに替えようとしたのは、何とか食い止めた。

 そんなジムニーはいまだに愛車として活躍中。たまに調子を崩すが、近所の修理工場のYさんに「またおかしくなりました~」って持って行くと、すぐに治してくれる。そう言えば、真夜中に高速走行中、エンジンから煙が出てきて大慌て。Yさんに電話して状況を説明し、指示通りに誤魔化し誤魔化しで、Yさんの工場まで戻ったこともあった(後、Yさんに修理してもらって回復)。こうして嫁入り道具ジムニーは、軽自動車としては珍しく19万キロを超えた。

 隊長のバンは現在三代目。初代ホーミーは、厳冬のみなかみ町でまったく使えない二駆。いろは坂に行かずとも、自然ドリドリができた。当然のごとく、なんどもYさんの工場に持ち込んだ。しかし、最後は飛び出してきた鹿と衝突し、廃車。
 二代目バンは知り合いから買った白のハイエース。元々ファミリーカーとして使用されていたので、私と娘にとっては快適だったが、アドベンチャーに使用したため、想定より早く寿命を迎えた。
 三代目バンは紺のハイエース(現在)。このハイエースがかなり厄介。横っ腹に大きな錆穴があるわ、床から火を噴くわ、男子ロッカー臭が激しいわ。一度、コース調査で無理やり林道に入り、Uターンするスペースを発見できず、やっと見つけたわずかながらのスペースで試みるも、草に隠れた切株に追突。マフラーが折れた。折れたマフラーを引き摺って走行するのには難あり。致し方なく、足でマフラーを蹴り落し、暴走族のような爆音で帰ってきたこともあった(今は修理してマフラーは健在)。もちろん、すべて隊長の仕業だ。

 前2台は満足がいくほどしっかり乗った。いうなれば、最期まできちんと看取ったという感覚かな。それでも何度もYさんのところに連れていったから、Yさんは掛かりつけのカードクターである。そして今のハイエースも、言うまでもなく何度何度もお世話になっている。ディーゼル排気微粒子の除去装置もYさんに装着してもらった。走行距離は35万キロを越すが、快調だ。

 老体とも言っても過言ではない我が家のジムニーにハイエース。これらがいまだに走り続けているのも、Yさんのお蔭である。毬栗頭のYさんは、背が高く、人懐こく、年下の私に対しても腰が低い。工場に行く度にお茶とお菓子を出してくれる。思えば、Yさんは、私がこの地に来て初めてゆっくり話をしたジモッティである。

「旦那さん、すごいっすね」
Yさんは、いつも目をパチクリさせて隊長を褒めてくれる。のせ上手だ。こちらもついつい乗ってしまうので、すぐに1時間は経ってしまう。だからYさんのところに車を持って行く時は「時間があるとき」と決めている。
 お茶とお菓子をいただき、ひとしきりしゃべった後、さて帰ろうとすると、今度は手土産をくれる。チョコレートだったり、クッキーだったり。
「娘さんに」
Yさんは、ともかく気遣いの人だ。
 先日は隊長がYさんのところに行った際、リポビタンDをもらってきた。しかも1ダース。ほぉ。車好きの二人ゆえ、きっとマニアな話で盛り上がったのだろう。

 愛車ジムニー。何かある度、助けてくれたカードクターYさんは、先日、一足先に天国に逝った。あまりにも急なことだった。
 思えば、私たちは、まだまだYさんにお世話になり得る条件の中で生活している。他にも修理工場はあるけれど、お茶しておしゃべりするカードクターYさんはない。
 今日、YさんにいただいたリポDで献杯しよう。

_20160508_155944.JPG


posted by Sue at 08:46| Comment(0) | 干物女の行水 | 更新情報をチェックする

2016年04月29日

時は来た

隊長がチリに撮影の仕事に行った時のこと。現地でのスタッフ間のやりとりの手段は、もっぱらスマホだったらしい。搭載された位置ソフトが、かなり有効活用されたとか。ガラケー愛用の隊長は連絡に遅れを取り、皆様に迷惑をかけた事を後悔していた。いよいよ隊長も、スマホを持たねば仕事に支障をきたすようになった。

チリから帰国して1週間後にナミビアに行くことになっていた隊長。
「時は来た」
と言い出した。始まった。はいはい、欲しいのね、スマホ。しかし、自分だけ替えるとなると私が不機嫌になることを察知してか、
「あ、Sueさんのも替えよう」
って。気を使って言ってるんだろうけど、なんだか私のスマホ切替は「オマケ的扱い」な気がしなくもない。

機械に生活を支配されたくはない、と常々思っている。たまに電車に乗れば、半分以上の人がスマホで何かを観てる。この光景が途轍もなく怖い画に思えて仕方ない。ちょっと前なら文庫本やらスポーツ新聞を8つ切りくらいに畳んで読んでたのが、今やどれも似通った端末になっている。何かに憑依されてるようで、ゾクッとする。

機械は使う側次第で善にも悪にもなる。うまく使えば、仕事の範囲も広がるし、生活も潤沢になるし、友人との交流もスムーズになる。機械に支配されるのではなく、機械を利用するのだ。よし、わかった。切替えよう。必然的に私も機械と対決する時がきたのだ。

そんなわけで、私たちは携帯電話ショップに行った。平日の昼間というのに、ショップは混んでいた。スマホ機種を選ぶのに5分。待つこと20分。切替の説明を受けること4時間弱。その間、娘はショップに陳列されたスマホやらiPadやらのサンプルでゲームをして待つ。丁寧に説明をしてくれるのは有難いが、内容の8割はチンプンカンプンだ。もう隊長にお任せ。好きにしてくれ、私の分は。
なんとかスマホを入手し、帰る頃には、娘はすっかりゲームの達人になっていた。

スマホを入手した翌日、隊長はARJS岐阜長良川大会に出向いた。私は誰にスマホの操作方法を聞けばいいのか(と言っても、隊長に聞いたところで解るわけもないけど)。そうか。この手の流行機をプロ級に操るのは女子高生だ。
ということで、近所の女子高生Aちゃんにご教示いただく。イライラ、ボケボケする私に対し、Aちゃんは優しく丁寧に使い方を教えてくれる。あぁ、この子はきっと良い嫁になる。介護も笑顔で引き受けるに違いない。今度お寿司でもごちそうするからね。あ、回ってる寿司だけど。

ご教示を一通り受けた後、気が付いたらスマホの呼び出し音が掲示されていた。しかも同じ人から幾度か。いつの間に?かけ直そうと思うのだが、なにせ時間がかかる。モタモタ。そうしているうちに、今度は違う人からかかってきた。ARJS岐阜長良川大会にいるはずのKさんからだ。そう言えば、幾度も電話をくれたSさんも岐阜にいるはず。何かあったのかな。

電話に出るや否や、Kさんが言った。
「あ、Sueさん?田中さんに代わるね」
ん?どうした?なぜ、自分の電話からかけてこない?何かあったのだろうか。レースを主催する側としては、複数の着信には敏感になる。
「あのさー、スマホの操作方をみんなに聞きまくってるんだけど、ID忘れちゃって。僕のID覚えてる?」
知らん!!他人のIDなんか覚えてる時間があったら、電話の掛け方を覚えてるっての!そんな余裕など、今の私には一切ございません。
「いや~、レースに来てるのに、スマホの取扱いでみんなを巻き込んじゃって(笑)今日一日、これで終わっちゃったよ~。はははは」
あーた、皆様に迷惑をかけないためにスマホを買ったんちゃうん?

それでもスマホ。やっとスマホ。きっと何か楽しいことが待っている。GWも近いし(連休とスマホは関係ないけど)。使っているうちにきっと慣れるさ。ラインとか、メッセンジャーとか、聞いたことしかなかったソフトが使えるし、これでママたち間の情報も後れを取らずに済む。ちょっとずつ前向きになってきたぞ。あ~、よかった、よかった。しあわせ、しあわせ~。

そんな前向きになった翌日、新聞にこんな記事があった。
『フランシスコ・ローマ法王は、バチカンのサンピエトロ広場に集まった約10万人の若者信徒らに向けて「幸せは携帯電話(スマートフォン)のアプリではない」と語り、「持つ者は幸福」という物質主義に陥らないよう呼びかけた。
その上で「幸せは携帯電話にダウンロードするアプリではない。最新版を手に入れたところで、あなた方が自由になり、大人になるのを手助けしてくれるわけではない」と述べた』

地球上に12億人の信者を持つローマ・カトリック教会の最高司祭であるローマ法王。そこいらの偉い方々と桁が違う偉大なお方というは重々承知だ。
でもね、あえて言わせていただけるのなら、勇気を持って一言だけ言わせていただきたい。
「法王様、今、それ言うかな・・・」






posted by Sue at 07:00| Comment(0) | アドベンチャーな家族 | 更新情報をチェックする

2016年04月14日

サンドイッチのおいたち

長い冬が終わり、みなかみ町にも良い季節がやってきた。タラの芽、ふきのとう、土筆、ノビル、山の幸が待ってましたとばかり、そこらじゅうで顔を出す。

こんなおいしい物があふれているというのに、娘は口にしない。まぁ山菜は苦味もあるので小学生にはきついのかな(その苦味こそが美味しいんだけど)。

今までは、彼女の苦手な野菜は小さく刻んでカレーやら卵焼きに入れて、味を誤魔化して食べさせていた。『子どもが苦手な野菜もモリモリ食べちゃうひと工夫』などと書かれた料理雑誌やネットを見ては調理。確かに、見た目や色からは、その野菜が入っているとは思えない。しかし、この春から小学校3年生になる。もうこうした誤魔化しは止めようと思う。苦手な人参やピーマンも、小骨の多い青魚も、それが持つ固有の味や特徴をそろそろ知るべきだと思うのだ。



先日、出先で娘とチキンサンドイッチを買った。満開の桜の木の下に座り、サンドイッチ袋の封を切った。ふと「このサンドイッチ、いっぱい具が入っているね」と娘が言った。よくよく見ると、チキンとレタスだけではない。刻んだゆで卵、玉ねぎ、ピクルス、その他にいくつかの野菜が入っている。

「今こうして私たちが食べようとしているこのサンドイッチを作るのに、何人の手がかかったんだろうね」と、何気なく娘に問いかけたのが発端で、しばし二人でサンドイッチのおいたちに遡る。

「まずは、さっきのレジのお姉さんでしょ、このサンドイッチをお店に並べた人でしょ、パンを作った人でしょ、チキンを作った人に野菜を作った人と…」
「このチキンひとつとっても、調理した人や、そのための調味料を作る人、チキンを育てる人、そのための餌を作る人、そして屠畜する人、その設備を作る人。たくさんだね」
「野菜だって、それを作る人、そのための肥料を運ぶ人、その肥料を作る人」
「その野菜が海外からの輸入物だとしたら、それを運ぶための船や飛行機を作る人や、それを運ぶための燃料を掘り出す人。ものすごくたくさんの人がいて、このサンドイッチが食べられるね」
「だったら『いただきます』は、作った人だけじゃなくて、このサンドイッチに関わったすべての人に対して言う言葉なんだね」
そんな思いでいただいたサンドイッチは、超一流レストラン物のようで、とても美味しかった。

飽食の日本では平気で食べ物を残す。もはやラーメンやうどんの汁は残すことが普通にすらなっている。そのスープだって、何人の手が関わってきたことか。

「食べ過ぎで太ったから」とダイエット食品を購入する。世界ではおよそ8億5000万人、なんと9人に1人が飢餓に苦しんでいる一方での出来事だ。

これからは、食材を誤魔化すのではなく、その食材には何人の手が関わってきたのかを想像し、その苦労ひとつひとつに感謝し、しっかり味わっていこうと思う。それが苦かったり、しょっぱかったり、固かったりもするかもしれない。それはそれで良い。それ自体を味わう事は、関わったすべての人の努力に感謝することである。

まず何より残さないこと。どんなにお行儀よく食べたところで、残してしまえば品もマナーもない。感謝があった上に品やらマナーは成り立つ。

ということは、調理する側にも責任がある。せっかくたくさんの人が関わった食材だもの、おいしく作る責任があるのだ。そんな責任重大な役目を任された主婦(主夫)だもの、毎日の献立に心血を注ぐのは、ある意味、使命的なものかもしれない。

さて、今夜は何にしようかな。



posted by Sue at 15:55| Comment(0) | 愚母の苦悩 | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

互助精神

先日開催された「ハセツネ30K」で、トップゴールした選手が、男女ともに義務装備不携帯で失格になったことについて、隊長がフェイスブックでこんな事を書いている(以下、隊長のFBから転記)。

『主催者は英断を下してトレランレースの現状に一石を投じたのだと思いました。
一般的には、「皆の手本となるべきトップ選手がルールを守らなくてどうする」的な意見が多いようですが、私には示唆に富んだ多くの問題意識を与えてくれました。

まずは、義務装備とはどういうものか?ということです。
トレランを安全に遂行するにはどんな装備が必要なのかを、皆で改めて考える良い機会だと思いました。そして、その装備はどんな役割を持つのか?ということを理解することも大切なのではないかと。

自然の中では自己責任で行動する必要があるため、自分の安全を守るための装備という位置付けが大勢だと思います。しかし一方で、他者を助けるための装備と捉えたらどうでしょう?自然の中ではお互いに助け合うという互助精神も必要です。

自分の持っている装備が人を助けるとか、他人の装備で自分が助けられることもあるということが、自然の中では多いのではないでしょうか?

救急法の習得も同様だと思います。特に心肺蘇生法などは自分を助ける技術ではないわけです。しかし、皆が習得していればお互いに助け合うことができます。

人間が自然と対峙することで学ぶことは多いです。その最たるものは、自然は偉大であり、脅威であり、人間はちっぽけな存在であるという畏敬の念を謙虚に持つことだと思います。そうすれば人は助け合って生きていくべきだし、トレランレースにおいてでさえ参加者全員の無事のゴールを願い、気になるようになりたいものです。

トレランを愛する同志に何かあればすぐに助けに行くような連帯感、さらには責任感まで持てるようになったら、トレランは素晴らしい文化になるんだと思います』


Patagonian Expedition Raceで、隊長が自転車転倒でケガをし、イーストウインドは窮地に立たされた。過酷な自然環境の中、それを乗り越えられたのは他の3人の支えがあってこそ、である。まさに互助精神の力に尽きる。

隊長の荷物をメンバーが分担して背負い、カヤックも陽希が主に一人で漕いだ。手が不自由だった隊長の用足し後には、ズボンの紐締めすらもメンバーがやってくれた。文字通り、彼らが助けてくれたのだ。そういった事が、観ている側に感動を伝える。

順位を競うものだから、結果はついてくる。しかし結果ばかりが大切ではない。スポーツをする人全員が持つべき「スポーツ精神」には「互助精神」も含まれると思う。

この夏、トランスジャパンアルプスレース(TJAR)がある(隊長も私も実行委員を務めさせていただいている)。これに出場するには様々な条件をクリアしなくてはいけない。

その中にひとつに「消防署、日本赤十字等の主催する救命入門講習もしくは救命講習(AEDを含む心肺蘇生法)の有効期限内である修了証明書の画像データを提出すること」というのがある。参加選手は、レース中に他の選手だけでなく、すれ違いの登山者でも何かあった場合、すぐに対応できるようにして欲しいという想いからこの条件が生まれた。

TJARは普通の登山やトレイルランに比べ、必須装備はかなり多い。しかし、それは自分たちを助けるばかりでなく、人を助けることにも役立つかもしれない。

結果は大切。されど、結果よりもっと大切なものがある。TJARはスポーツマン精神と互助精神に満ちた戦いである。今年も勇者たちの感動的な戦いを応援できることに感謝し、ワクワクしている。


posted by Sue at 16:04| Comment(0) | 干物女の行水 | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

Patagonian Expedition Race への想い

Patagonian Expedition Raceが始まって4日目。朝6時前、自宅に電話が入った。

こんな早くに電話が入るのは、良くない知らかイタズラだ。ふと2013年のコスタリカレースでの自転車転倒事故の事が脳裏をよぎる。嫌な予感がする。イタ電であるといい。

一呼吸置いて、受話器を取る。バサバサバサという音に阻まれ、相手の声が聴き辛い。「・・キタです・・スーさんで・・・」嫌な予感が的中した。電話はヤマキーからだった。「田中さんが・・・田中さんが・・・転んで・・・」風が強すぎて全部が聞き取れない。ともかく何か起きている。

ようやく彼らの居場所と状況を知り、本部に連絡(ヤマキーが医療班に連絡したが、スペイン語だったため、本部に連絡をいれるよう私に電話してきた)。すぐにスタッフが動いた。

スタッフが到着するまでの間に、再びヤマキーから電話。隊長が話せるというので、電話を代わった。「こんなに応援してもらっているのに・・・・ホント・・・申し訳ない・・・申し訳ない・・・もう・・しわけ・・ない・・・」鼻から空気が漏れている感はあるが、安否の確認はできた。しっかりしている。

救急車が到着し、4人は病院に搬送された。その後、ヨーキから電話があり、詳しい状況を聞いた。そして彼の口からでたのは「ここで終わります」という言葉だった。

夢にまで見た優勝。それに手が届くかもしれない。そんな矢先のことである。それを伝える彼も辛かったし、悔しかっただろう。

しばらしくして隊長は鼻骨骨折だという連絡が入った。また、転倒時にかなりのけぞったらしく、ムチウチの恐れもあった。程度はよくわからないが、入院するほどのこともないというので、病院を出たらしい。

その後にコース責任者のStjepanと事務局のTrishが病医院に駆け付けた。隊長が、すでに病院を後にしたことを知らず、かなりの剣幕で隊長を探したそうだ。

こんなハードなコースを設定し、調査し、選手を待ち受けるStjepanだけど、心根の優しい穏やかなレースの総責任者だ。

PERは開催するにあたり、莫大な時間と費用がかかる。国境付近やら氷河を行かせるために、軍に掛け合い、許可を取る。スポンサー獲得も年々厳しくなっていく。2年間のブランクは、それらと戦うための期間だった。そうして苦労した末に開催したPER2016。Stjepanがこのレースにかける想いは、いかばかりか。

ここで止めるには、あまりにも悔しい。
隊長がアドベンチャーレースを始めて22年。始めた当時は、アウトドアスポーツをお家芸とする欧州、オーストラリア、ニュージーランドには、装備も技術も体力もノウハウも、すべてが及ばなかった。大人と子どもくらいの差があった。

そもそも彼らはアウトドアが生活に密着している環境だ。会社が終わればカヤックを楽しみ、道路は自転車専用の道がちゃんと整備されている。最終電車まで仕事をしている我々とは生活スタイルが違う。

しかし、この競技において日本人が決して負けないものがあった。スピリッツだ。体力が及ばずとも、精神力がある。技術はなくとも、学ぶ力がある。体力も技術も徐々に身につければいい。

そして隊長の孤独で長い戦いが始まった。興味のありそうな人に声を掛け、年間300日の練習。会社は休みがちになり、やがて日割り計算での給料形態にしてもらったが、結局は退社。明日からの収入源、一切なし。活動プラン、皆無。あるのはアドベンチャーレースへの熱意だけだった。

協賛をお願いしに行った企業には一蹴されまくった。アドベンチャーレースのビデオをダビングするのに潰したビデオデッキは3台(当時はDVDなんて便利なものがなかった)。でも諦めなかった。このレースをやりたかった。

やがて「話だけでも聴くよ」という人や「面白そうだね」という人が現れた。そこから少しずつ広がっていく人の輪。協力してくれる人が出てきた。レースをやりたいという仲間も集まった。隊長は一人じゃなくなった。


さて、病院から戻った隊長。チームで長い間協議したようだ。そして出した結論は「レース継続」だった。22年にして「優勝」を目の前にした今大会だ。ここで止められない。ひょっとしたら隊長は、今まで長い間支えてくれた人の顔を思い浮かべたのかもしれない。「継続することを今から主催者に伝える」とだけ、電話があった。「リタイヤする」と私には電話で伝えたものの、まだ主催者に言ってなかったのだ。

チームはレース継続の意思をStjepanに伝えた。Stjepanは「自分が何を言っているのか、わかっているのか」と隊長に聞いたそうだ。過去、アドベンチャーレースでメンバーが骨折をしながらもゴールしたことは幾度かある。逆に棄権したこともある。自身が肋骨を骨折しながらゴールした経験もある。そんないくつもの経験があっての判断だろう。何より、Patagonian Expedition Raceに掛ける隊長の想いは凄まじい。医師は継続可能と診断。StjepanはチームにGOサインを出した。

GOサインを出した後、Stjepanは静かに泣いたそうだ。「ここまでMasatoがこの大会を愛してくれていたとは・・・。苦労してこのレースを再開して良かった」と。

たかがアドベンチャーレース、されどアドベンチャーレース。これに、すべてを賭けた人たちが、この世界にはいる。Stjepanも隊長も、孤独に耐えて諦めずに一所懸命に頑張ってきた。

そして、もう一人じゃない。20年前では考えられなかった。こんなクレージーなPERを愛して止まない人がいることを。こんなに多くの人が応援をしてくれることを。なんて幸せなことだろう。

22年にして、届きそうだった優勝台である(まだレースは終わってないけれど)。事務局としては、あるまじき発言ではあるが、妻としての発言を許されるなら、言ってもいいかな?「もう充分だよ」(応援してくださる方、本当にごめんなさい!!)。


さて、レースは残り58㎞。これから氷河に突入する。きっとStjepanが「どうだ!」と胸を張るくらい、とてつもないコースが待っているだろう。

もう一人じゃない。頼もしいメンバーがいる。22年間、リーダーとして引っ張ってきたが、今度は隊長を引っ張ってくれる3人がいる。Stjepanが仕掛けたコースを、うんと苦しんで、うんと楽しむといい。

posted by Sue at 14:03| Comment(0) | 悪妻のボヤキ | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。